平成26年度「長井の心を育む推進事業」で公開した写真を取り上げる。
長井のまちには、その歴史の中で様々な建物があらわれては消えを繰り返してきた。現存しているものもあれば消えてしまったものもある。その時々の人々の暮らしを彩り、時代を形どってきた建物等を、大正3年・昭和9年の時間軸周辺でご覧いただく。
女学校の大正3年と昭和9年
大正3年の地図
大正3年当時、まだ女学校はありません。郡役所の西側に建設されますが、それは大正14年を待たなければなりません。道路も、まだまだで高野町の道路やグンゼ通りといわれる西裏道路(南北に切られる道路)もありません。長井線が長井駅まで開通し、電気が通電なる年が大正3年。ここから大きくまちづくりが進んでいきます。
昭和9年の地図
②が女学校、④が郡役所。正確には山形県立長井高等女学校である。昭和9年当時は県立になっているが、創始は町立である。一つの自治体で学校を立ち上げるまでに至ったことは、町民の教育にかける意気込みが読み取れる。
大正9年、悲願であった「県立長井中学校(現長井高等学校)」が創始となるが、女子にも教育をと大正10年、町立で長井実科高等女学校を立ち上げた。現在の場所の長井小学校校舎を使い教育を始めた。大正14年に県に移管する。校舎は大正13年12月1日に工事着手。大正14年10月30日に盛大な落成式を行った。その時発行された絵葉書が下記のもの。
なかなか立派な校舎だ。
運動場
作法室
昭和9年の町勢要覧に掲載された女学校校舎写真。廻りに樹木が育ち環境も整っている。女学校は幾多の変遷を経て現在の長井高等学校と合併、姿を消す。校舎は中央公民館などに利用された後、昭和55年8月31日に解体された。