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2015 フィルム講座 大正3年対昭和9年 5

  • 2015 フィルム講座 大正3年対昭和9年 5

平成26年度「長井の心を育む推進事業」で公開した写真を取り上げる。

長井のまちには、その歴史の中で様々な建物があらわれては消えを繰り返してきた。現存しているものもあれば消えてしまったものもある。その時々の人々の暮らしを彩り、時代を形どってきた建物等を、大正3年・昭和9年の時間軸周辺でご覧いただく。

 

     女学校の大正3年と昭和9年

 

  大正3年の地図

 

大正3年当時、まだ女学校はありません。郡役所の西側に建設されますが、それは大正14年を待たなければなりません。道路も、まだまだで高野町の道路やグンゼ通りといわれる西裏道路(南北に切られる道路)もありません。長井線が長井駅まで開通し、電気が通電なる年が大正3年。ここから大きくまちづくりが進んでいきます。

 

昭和9年の地図

 

 

②が女学校、④が郡役所。正確には山形県立長井高等女学校である。昭和9年当時は県立になっているが、創始は町立である。一つの自治体で学校を立ち上げるまでに至ったことは、町民の教育にかける意気込みが読み取れる。

大正9年、悲願であった「県立長井中学校(現長井高等学校)」が創始となるが、女子にも教育をと大正10年、町立で長井実科高等女学校を立ち上げた。現在の場所の長井小学校校舎を使い教育を始めた。大正14年に県に移管する。校舎は大正13年12月1日に工事着手。大正14年10月30日に盛大な落成式を行った。その時発行された絵葉書が下記のもの。

 

 

なかなか立派な校舎だ。

 

 

運動場

 

 

作法室

 

 

昭和9年の町勢要覧に掲載された女学校校舎写真。廻りに樹木が育ち環境も整っている。女学校は幾多の変遷を経て現在の長井高等学校と合併、姿を消す。校舎は中央公民館などに利用された後、昭和55年8月31日に解体された。

 

2015.03.30:n-old:[歴史的建造物]

2015 フィルム講座 大正3年対昭和9年 4

  • 2015 フィルム講座 大正3年対昭和9年 4

平成26年度「長井の心を育む推進事業」で公開した写真を取り上げる。

長井のまちには、その歴史の中で様々な建物があらわれては消えを繰り返してきた。現存しているものもあれば消えてしまったものもある。その時々の人々の暮らしを彩り、時代を形どってきた建物等を、大正3年・昭和9年の時間軸周辺でご覧いただく。

 

    威厳を示す郡の建物 大正3年と昭和9年

 

                大正3年の地図

 

大正3年、要覧に添付された地図の部分。郡役所を南北に挟んで北に「郡会議事堂」、南に「織物事務所」、入口には「税務署」がある。十日町郵便局は長沼酒造の道路向かい近くにあった。

 

 

 

明治44年以降の写真。真ん中に明治11年築の西置賜郡役所、その北側(右)に明治44年築の西置賜郡会議事堂、南側(左)に置賜織物同業組合事務所が。整然とし門柱もあった。

 

 

 

明治41年の西置賜郡役所。明治11年の建設から30年後の姿である左側(南側)には織物同業事務所の北面が写る。建坪は69.6坪、15間・4.5間の一部二階建て。今でも見ることができる。

 

 

 

 

建設当初、明治44年の西置賜郡会議事堂の写真。この郡会議事堂は、実は二代目。明治44年度の郡特別会計で、郡役所の北側の郡有苗圃地に整備された。大正15年に郡制が廃止となり、郡教育会館・郡図書館に変わる。

 

 

 

大正3年要覧のグラビアに掲載された写真。郡役所の南側にあった。表記では置賜織物同業事務所だが、建設当初は、「初代の西置賜郡会議事堂」である。上記を手直しした写真が下記に。

 

 

明治20年に建設された「初代西置賜郡会議事堂」である。6間の10間、建坪は60坪、東から見ると縦長であった。他に土蔵があったが、老朽化のため、郡役所北側に建て替えられた。二代目の郡会議事堂を建てるために、置賜織物同業組合に初代郡会議事堂を売り、その代金等を充てた。この建物は同業組合が、明治44年から大正12年まで使用、その後荒砥の繭市場に買い取られた。

 

大正3年当時、置賜織物同業組合事務所(初代郡会議事堂)・西置賜郡役所・西置賜郡会議事堂の3棟の擬洋風建築が並んで建っていた光景を想像すれば、まったくの見事というほかはない。しかし、電気が通じるのは大正3年であるため、威厳のある建物群ではあるが、相当暗かったに違いない。

 

            昭和9年の地図

 

 

③が「郡教育会館(旧二代目郡会議事堂)」、④の「郡農会」と⑤の「長井土木出張所」が旧西置賜郡役所に入っていた。ちなみに、②は「県立長井高等女学校」で、⑦が初代郡会議事堂の跡に建つ「長井税務署」だ。

 

 

昭和11年の要覧に掲載された旧二代目郡会議事堂。大正12年の郡制廃止に伴い、郡教育会館・郡図書館となる。大正12年3月、郡から教育会に交付された内容の記述がある。「1、議事堂敷地 2、郡会議事堂 3、郡会議事堂付属建物2棟 4、郡会及び郡参事会用器具器械 5、図書及び図書館用器具器械 6、郡有動産 7、学資貸与金」。この記述から見ると、郡会議事堂の他に、2棟の建物があった。議事堂本体のサイズはわかっていない。

 

 

この写真は大正12年から14年の間で撮影されたもの。表札が2枚かかっているが、左側に長井土木出張所、左側に西置賜郡役所と。県が土木事務所を大正12年に設置し、大正14年には郡役所を廃止した。

建物の入口部の屋根が建設当初から大きく変更している。門柱から建物入口までの切石の敷石が確認できる。

 

昭和9年、このときはすでに初代郡会議事堂はない。擬洋風建築の3棟が並んでいた時代は、明治44年から昭和初期までの20年ほど。見てみたいものだ。

 

 

 

 

 

 

2015.03.27:n-old:[歴史的建造物]

2015 フィルム講座 大正3年対昭和9年 3

  • 2015 フィルム講座 大正3年対昭和9年 3

平成26年度「長井の心を育む推進事業」で公開した写真を取り上げる。

長井のまちには、その歴史の中で様々な建物があらわれては消えを繰り返してきた。現存しているものもあれば消えてしまったものもある。その時々の人々の暮らしを彩り、時代を形どってきた建物等を、大正3年・昭和9年の時間軸周辺でご覧いただく。今回のみ大正3年以前の地図も登場。

 

長井小学校の大正3年以前と大正3年と昭和9年

 

             大正3年以前の地図

 

長井駅がまだ整備されていない。現中央十字路の西に長井小学校があった。

小出と宮の小学校が統合し「平章小学校」とし校舎が明治15年に新築。これが長井小学校の第1期に当たる。その姿が下記の写真。

 

明治43年時の写真。正面に小学校校舎、右側に盲学校がある。大正3年に軽便鉄道が長井まで開通することとなり、移転する。

 

                大正3年の地図

 

長井駅が整備され11月15日に大々的に開通式を行った。小学校は現在の中央十字路西から、東側に移転し、第2期の小学校校舎ができる。着工が大正3年5月、竣工は大正4年5月だった。建設費は3万8千円余、3400坪の敷地。大正4年には記念事業として校章が制定された。

 

 

大正3年発行の町勢要覧グラビアに掲載された第2期校舎の建築中のシーン

 

完成した第2期の長井小学校

ところが、大正6年5月23日に発生した長井大火によって、この校舎が焼失してしまう。11か所で分散授業を3年にわたり行った。同じ場所に第3期の校舎整備を行う。

 

同場所に第3期の校舎が出来上がる。801坪で、総経費は8万1千円、大正7年から8年にかけて工事が行われた。

 

             昭和9年の地図

32番が長井小学校。現在の場所に。

 

昭和9年の町勢要覧掲載の写真。ほとんど樹木がない。この校舎は昭和7年から9年にかけて整備。第一校舎は昭和8年8月22日の竣工、第2校舎など、第3期校舎を移築したものもある。第1校舎前やグラウンド廻りのプラタナスなどは昭和15年以降で町民の発起で植えていった。

 

明治15年に第1期校舎が整備されて以来、50数年で4回の校舎整備を行っていたことになる。驚異的だ。

 

2015.03.26:n-old:[歴史的建造物]

2015 フィルム講座 大正3年対昭和9年 2

  • 2015 フィルム講座 大正3年対昭和9年 2

平成26年度「長井の心を育む推進事業」で公開した写真を取り上げる。

長井のまちには、その歴史の中で様々な建物があらわれては消えを繰り返してきた。現存しているものもあれば消えてしまったものもある。その時々の人々の暮らしを彩り、時代を形どってきた建物等を、大正3年・昭和9年の時間軸周辺でご覧いただく。

 

小出公園(松ケ池公園)の大正3年と昭和9年

 

               大正3年の地図

 

 

あら町の薬師寺をまっすぐ東へ、神明通りを進むと「松ケ池公園」が見えてくる。この公園は明治17年頃から、小出区民によって、つまり民間で造成されていったもの。その頃は「小出公園」と言っていたが、池を掘り松を植えるなどし明治29年、「松ケ池公園」と命名した。その後、花作・七兵衛つつじを移植、桜も植えながら公園化を進めた。現在のつつじ館までほぼ方形となったのが明治43年で、七兵衛つつじの全部を公園に移植した。このころから「つつじ公園」と呼ぶようになる。明治30年、園内に日清戦争の紀功碑を建立。明治39年には日露戦争の「西置賜郡招魂碑」を建立し、合わせてケヤキ・マツ・スギ・イチョウ・ヒノキを植えた「五訓の森」を整備した。現在の菅原白龍先生の碑が建っているところだ。この招魂碑は太平洋戦争時の金属供出(昭和18年)ですべてがなくなった。このころは、「松ケ池」はあるが、「ひょうたん池」は、まだない。

 

明治41年の松ケ池公園。公園の南西から撮影されたもの。左に松ケ池がある。

 

日露戦争紀功碑を東北から見た風景。東屋があり、野呂川沿いの土塁も現在とは違う

 

西置賜郡招魂碑。土塁の大きさは、底辺が14.4m四方、高さが3.6m。

 

招魂碑を西から見たもの。右側に五訓の森がある。

 

 

          昭和9年の地図   

 

地図上ではあまり変わらないが⑳は演芸館。

 

 

七兵衛つつじ。昭和2年以降の写真で、照明が入れられている。右側が松ケ池

 

 

昭和9年の町勢要覧に掲載された写真「演芸館」。多くの催しが行われた。演芸館は、山形から移築したもの。山形県庁(現文翔館)落成を記念して、大正5年の秋に催された「奥羽六県連合共進会」の娯楽施設として県庁敷地内に整備された。この共進会には長井からも紬など、多く参加している。白亜の威容を誇り長井名物となった。

 

 

松ケ池に架かる「八千代橋」の渡り初め。昭和4年9月15日。

 

  

 

 

 

 

2015.03.25:n-old:[歴史的建造物]

2015 フィルム講座 大正3年対昭和9年 1

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平成26年度「長井の心を育む推進事業」で公開した写真を取り上げる。

長井のまちには、その歴史の中で様々な建物があらわれては消えを繰り返してきた。現存しているものもあれば消えてしまったものもある。その時々の人々の暮らしを彩り、時代を形どってきた建物等を、大正3年・昭和9年の時間軸周辺でご覧いただく。

 

   宮公園の大正3年と昭和9年

 

        大正3年の地図

 

宮公園は明治40年の創始といわれる。現在の「あやめ公園高台」を宮公園といい、明治43年には、金田勝見が高台下に5畝のあやめを植え、茶店を出し、現在の「あやめ公園」創始となった。あやめ公園となったのは、大正3年。長井町の運営になってからだが、公園いうにはまだまだ。宮公園東の道路を北上すると、致芳成田に通じる野川橋が架かる。

宮公園の南に「偕楽館」があるが、長井で一番古い娯楽施設。明治34年の創設で花道・桟敷席・枡席を備え、舞台は回り舞台であった。大正3年に手直ししたが大正6年、松が池公園に「演芸館」ができると衰退し、大正8年ごろ天童の業者に買い取られ姿を消した。

 

明治41年の宮公園。

 

 

高台下にあやめが植えら、公園化していく

 

       昭和9年の地図

 

あやめ公園が拡大している。道路は変わらないが、大きく変わったのが長井線の開通。大正3年は長井駅までしか線路はなかった。

昭和5年、山形新聞社主催の各種人気投票で。あやめ公園が「名所県一」に輝いた。同じ年、ボート池を掘り、中央噴水をつくり一大名所となった。10年ほどで大きく変貌した。

 

北から見たあやめ公園。公園のスタイルを確立した。

 

 

偕楽館が姿を消したあと、民間「北斗会」が高台南に「あやめ会館」をつくる。建坪は96坪、名勝も公募決定した。1階は土間で売店、16区画。2階は大広間だった。入口が見えるが、道路に面していた。昭和18年までで、その後建物は東京電器に売買する。

 

 

昭和9年の町勢要覧に掲載されたあやめ会館。右側が高台に面する。

 

 

昭和8年、高台下に民間のグリーン支店が建つ。1階がカフェ、2階と3階は和の座敷と広間。入口は手前側の角。

 

2015.03.24:n-old:[歴史的建造物]