二人笠の続きである。
翌3月1日は、昨年来上米蔵に収納されていた上米を、下航する船に積み込む日であった。そこで収納米の検分のために行ってみると、5百俵に近い米俵があり、それを一俵ごとに改めていったために、検分を終えたのは春の日も西に傾く頃であった。宮船場よりの帰途、片倉が守っていたと伝える古城の跡を尋ねた。たまたま土地の者に遭ったので、その由来を尋ねたところ、「昔この城は、卯月(4月)のはしめに築初めて翌のとし卯月に成りけるゆへ、卯の花の城といへる」と語ってくれた。その場所は宮村にある青苧蔵の南側であると記し、さらに「国やぶれて山河あり、城春にして草青々たり、とは古翁のことは、歳さり歳きたれとも、跡取たつるわさもミへす、むなしき堀の跡に、なミたをそそく」と書き添えている。二流がみた卯の花城は堀跡で草が生い茂ってい様子が描かれている。
宮船場の後には荒砥の上米蔵も検分、長井に戻るが、成田村の佐々木宇考家での歌仙興行に加わり発句を詠み、ようやく米沢への帰途についた。
その時の情景が思い起こされて興味深い。
他に民間の舟場があり、泉・小出・成田にあったが、当時、小出・宮・成田三か村の財力を瓢箪に喩えていた。口のふくらみを小出、真ん中のくびれは宮、そして下のふくらみは成田と称されていた。財力豊かな商人が松川の交易に加わっていた。