最上義光プロジェクト
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長岡但馬守(ながおかたじまのかみ)
生年不明~慶長十九年(1614) 現在の山形市長町に館を構え、山形城北面の防衛に当たったという。 最上義光 が没した際、その墓前にて殉死した4人のうちのひとり。
2017.08.23
寒河江親清(さがえちかきよ)
天正十六年(1588)~寛永十九年(1642) 草刈薩摩守( 草刈志摩守 ?)の二男。男子の無かった 寒河江元茂 の婿養子となる。初め織部と称し、のちに十兵衛を称した。鶴ケ岡城の詰番を務めた。最上家改易後は、会津藩蒲生家、続いて会津藩加藤家に仕えた。
2017.08.21
寒河江元茂(さがえもとしげ)
永禄三年(1560)~慶長十九年(1614) 十兵衛。260石を領す。ある時、主君・ 最上義光 の近習と争いごとを起こし、家老達から切腹を申し渡されてしまう。しかし、義光の温情により切腹を免れ、暇を出されて仙台で暮らすこととなった。その後も義光は元茂を気遣い、金子を送って生活を助けていたという。義光が文禄の役に出陣すると聞くや、そのあとを追いかけ御供を願い出て、帰参を許された。義光が没した際、その墓前にて殉死した4人のうちのひとり。
2017.08.19
寒河江親俊(さがえちかとし)
生年不明~没年不明 寒河江廣秋の子。 寒河江廣俊 の弟。監物を称す。義光分限帳では150石、義俊分限帳では60石を領したとの記録が残る。最上家改易後、子の甚右衛門信安は、福岡藩黒田家に仕え島原の乱にて奮戦した。のちに福井藩松平家に仕えて6百石を領した。
2017.08.17
寒河江俊長(さがえとしなが)
生年不明~没年不明 寒河江廣俊 の子。新次郎。父・廣俊が 最上義光 の墓前にて殉死したため、その跡を継いだ。山形城の西側の一画に広大な屋敷地を持っていた。最上家改易後の動向は不明だが、寛文二年(1662)になって、子の惣右衛門俊重が福井藩松平家に仕えた。
2017.08.15
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