最上義光プロジェクト
search
プロジェクトからのお知らせ
▼最上義光
□最上義光略年表
□最上義光の功績
▼最上家の人々
○父・母
○弟・妹
○奥方
○息子・娘
○最上家一門
◎最上家歴代当主
▼最上家武将列伝
☆最上四天王
◇最上家家臣団(あ行)
◇最上家家臣団(か行)
◇最上家家臣団(さ行)
◇最上家家臣団(た行)
◇最上家家臣団(な行)
◇最上家家臣団(は行)
◇最上家家臣団(ま行)
◇最上家家臣団(や行)
◇最上家家臣団(ら行)
◇最上家家臣団(わ行)
▼最上家関連人物
▼最上家用語の基礎知識
プロフィール
お問合せ
Home
/
◇最上家家臣団(な行)
新関成正(にいぜきなりまさ)
生年不明~没年不明 新関久正 の子。豊後守を称す。 一栗兵部高春 が反乱を起こし、添川楯に立て篭った際には、先陣として駆けつけ戦功があった。最上家が改易されると、父とは別れて庄内に残り、鼠ケ関の郷士となったが、のちに庄内藩酒井家に召し抱えられたという。
2017.06.24
新関久正(にいぜきひさまさ)
生年不明~没年不明 因幡守を称す。藤島城(鶴岡市藤島)の城主6千5百石。一時期は鶴ケ岡城代も務めていた。 一栗兵部高春 が反乱を起こした際には、これを追討し功があった。赤川右岸にて堰の開削工事を進めていたが、最上家改易により中断となった。この堰は約100年後に完成、現在も庄内平野を潤しており、因幡堰と呼ばれている。
2017.06.19
庭月広綱(にわつきひろつな)
生年不明~慶安三年(1650) 佐々木氏(鮭延氏)の一族。理右衛門。庭月楯(鮭川村庭月)の楯主として1千石を領す。 鮭延秀綱 が 最上義光 に攻められた際、同じく攻撃を受け降伏した。広綱は所領を安堵され、その後も最上家家臣となった秀綱に仕えた。
2017.05.04
野辺沢康満(のべさわやすみつ)
天正十年(1582)~寛永三年(1626) 野辺沢満延 の子。のち光昌(あきまさ)。遠江守。 最上義光 の長女 松尾姫 を娶った。父の死後に家督を継ぎ野辺沢城2万石の城主となる。慶長出羽合戦では、長谷堂城救援のため出陣、続いて上杉領であった庄内地方を攻略した。慶長十九年(1614)には、義光の跡を継いだ 最上家親 の命により、義光三男 清水光氏 の居城である清水城を攻め落とした。最上家改易後は熊本藩加藤家に預けられた。
2017.04.17
成沢光氏(なりさわあきうじ)
生年不明~没年不明 成沢道忠 の子。名は邦綱(くにつな)とも。 氏家守棟 の子・ 光棟 が十五里ヶ原の戦いで戦死したため、守棟の養子となり氏家家を継いだという説がある。左近と号し尾張守を称したという。慶長出羽合戦では、長谷堂城救援のため出陣した。最上家家老として1万8千石を領したという。
2017.04.10
17件中/11件~15件