最上義光プロジェクト
search
プロジェクトからのお知らせ
▼最上義光
□最上義光略年表
□最上義光の功績
▼最上家の人々
○父・母
○弟・妹
○奥方
○息子・娘
○最上家一門
◎最上家歴代当主
▼最上家武将列伝
☆最上四天王
◇最上家家臣団(あ行)
◇最上家家臣団(か行)
◇最上家家臣団(さ行)
◇最上家家臣団(た行)
◇最上家家臣団(な行)
◇最上家家臣団(は行)
◇最上家家臣団(ま行)
◇最上家家臣団(や行)
◇最上家家臣団(ら行)
◇最上家家臣団(わ行)
▼最上家関連人物
▼最上家用語の基礎知識
プロフィール
お問合せ
Home
/
◇最上家家臣団(さ行)
坂光吉(さかあきよし)
文禄四年(1595)~延宝八年(1680) 坂光重 の嫡男。九郎右衛門。父とは別に140石を給されていた。最上家改易後も長谷堂に居住していたが、寛永十四年(1637)になって、父・光重とともに置賜郡荒砥に移住する。のちに米沢藩上杉家に召し抱えられた。
2017.05.24
坂光重(さかあきしげ)
天正四年(1576)~寛文三年(1663) 坂光秀 の甥。光秀の弟・備前守の長男。光秀の二男とする説も。はじめ重内を名乗る。慶長出羽合戦の際は、狸森楯(上山市狸森)の楯主を務めたという。光秀の没後に坂家の家督を継いで長谷堂城主となった。光秀と同様に光重の肖像画も現存しており、坂家に伝わっている。
2017.05.20
坂光秀(さかあきひで)
生年不明~元和二年(1616) 紀伊守を称す。慶長出羽合戦に長谷堂城への援軍として参陣し、戦後、酒田東禅寺城主となった 志村光安 に代わって長谷堂城主となった。光秀の妻は光安の娘であるといわれている。 最上義光 の側近として、徳川家や公家などへの使者をたびたび務めた。光秀の菩提寺である長谷堂の清源寺には、彼の肖像画が伝わっている。
2017.05.18
鮭延左衛門尉(さけのべさえもんのじょう)
天正十四年(1586)~慶長十七年(1612) 鮭延秀綱 の嫡男。名は左右衛門(さえもん)とも。慶長出羽合戦(長谷堂の戦い)にて初陣を飾る。奥羽永慶軍記には、この戦いでの上杉軍本陣に迫る勇猛な活躍ぶりが記されている。一方、鮭延越前守聞書には、敵陣に深入りして散々に攻められ、父・秀綱が助けに入って、一緒になった退いたとある。のちに家督を継ぐことなく、若くして亡くなった。
2017.04.30
進藤安清(しんどうやすきよ)
生年不明~慶長十九年(1614) 亀ケ崎城主志村家の家老。但馬守。進藤楯(酒田市中野俣)の楯主。庄内川北地域の検地を担当するなど、庄内支配の実務を担当した。 最上家親 の家督相続に反対した 一栗兵部高春 に、鶴ケ岡城下の 新関因幡守 邸にて襲撃され、主君・ 志村光惟 とともに命を落とした。
2017.04.23
37件中/31件~35件