最上義光プロジェクト
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◇最上家家臣団(か行)
小柳重保(こやなぎしげやす)
生年不明~天正十二年(1584) 外記を称す。天正九年(1581)三月、雄勝郡仙北攻めにおいて先手を務め、その功により薄井村など七つの村を賜った。天正十二年(1584)四月、小野寺家との合戦の際に深手を負い、湯沢の地で亡くなった。重保の四歳の娘が残されたと知った最上義光は、 楯岡満茂 に娘の養育を命じ、後に秋保主馬の弟を娘に娶せ、小柳家の婿養子とした。
2019.02.01
川俣貞次(かわまたさだつぐ)
生年不明~没年不明 主膳正を称す。武蔵国川俣城の城主であったが、天正十一年(1583)家臣の裏切りにより川俣城が落城、姻戚を頼って最上家に仕えた。慶長出羽合戦後は、庄内尾浦城主・ 下次右衛門 の奉行として尾浦に居住した。千三百石を賜っていたという。最上家改易後は庄内藩酒井家に仕えた。
2019.01.10
笠原隆元(かさはらたかもと)
生年不明~没年不明 笠原隆親 の子。葛西・大崎一揆では、父と共に宮崎城に立て篭もるも、奮戦及ばず城を落ち延びた。のち出羽楯岡に来て、父・隆親は、楯岡城主・ 楯岡満茂 に召し抱えられたが、隆元は、名を宮崎太郎左衛門に改めて楯岡に土着し、楯岡笠原氏の祖になったという。
2019.01.07
笠原隆親(かさはらたかちか)
生年不明~没年不明 民部少輔を称す。大崎家旧臣で加美郡宮崎城主を務めた。妻は 小国光基 の娘。葛西・大崎一揆では、伊達政宗率いる鎮圧軍を相手に宮崎城に立て篭もるも、奮戦及ばず城を落ち延びた。岳父・小国光基を頼ろうとしたが、迷惑がかかるとして出羽仙北地方に逃れたという。のち出羽楯岡に来て、楯岡城主・ 楯岡満茂 に召し抱えられ、名を笠原織部と改めた。
2019.01.06
加藤源右衛門(かとうげんえもん)
生年不明~慶長六年(1601) 慶長出羽合戦の庄内攻略戦において、 里見義近 とともに軍奉行に任じられた。酒田城を攻めた際、守りが堅く攻めあぐねていたため、諸将に先駆けて塀を乗り越えようとしたところを、鉄砲で眉間を打ち抜かれ戦死した。
2018.04.24
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