ぼくのニワトリは空を飛ぶー菅野芳秀のブログ

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山菜がおいしい季節だ。

鶏舎の周辺で仕事をしていたら、幼馴染の正雄さんがやってきた。山に行って山菜をとってきたから食べに来いという。彼は山菜とりの名人だ。雪どけを待ちかねたように山に分け入り、山菜をさがす。僕もときどき彼の家に押しかけてはそのおすそ分けにあずかってきたのだが、今回はわざわざ呼びに来てくれた。これは期待できるぞ。さっそく仕事をたたんで彼の家に向かった。

やっぱりね。テーブルいっぱいにワラビ、ミズなどの定番に、アイコウ、シオデ、シドケ、それにまだ見たこともない山菜の数々が並んでいる。
「これは何だか知っているか?」「今度はこっちを食べてみろよ。」
すすめられるままに口に運ぶ。いいねぇこの香り、この微妙な味わい。野菜とは違う独特の風味が口の中いっぱいに広がっていく。まだ日が高いけど、山菜と焼酎を交互に口に運んでいるうちに、酔いがまわってきた。なんというか・・・今日はいい日だよ。

 ところで・・と、正雄さんが話しだした。
「この山菜が食べられるということが分かるまで、つまり他の多くのものは食べられないということが分かるまで、いったいどのぐらいの人が犠牲になったんだろうか?」
 すごい話になってきた。想像がつかないけれど、ある草を食べてお腹が痛くなったり、ゲリで苦しんだりという体験は嫌になるぐらい繰り返してきたはずだ。亡くなった人もいただろう。もちろん、二度と同じ苦しみをしないように、親から子に、あるいは周囲の人たちに一生懸命伝えようともしてきたに違いない。でも、それらの情報が伝わる領域には当然かぎりがあり、幾度も同じような悲惨な体験をあっちの村で、こっちの集落でと繰り返しながら、少しずつ選びとる知識を積み重ねてきたということか。

それは食べ方にも言えて、たとえばワラビをそのまま食おうとしても、とても苦くて食えたものじゃないけれど、やがて今に伝わっているように、灰をいれて湯がけばおいしくなるという食べ方を発見するに至る。苦いからといって捨てなかった。あきらめなかった。あきらめずに何とか食べられる方法を見つけようとしてきた。
全ての植物は、人間が食べられるものと食べられないものとに分けることができるが、食べられるものとして分類されてきた植物の一つひとつのなかに、飢えと背中あわせにものを食べてきた人びとの、命がけの体験が宿っているということなのだろう。

なぁ、正雄さんよ。なんだかこの目の前の山菜がいとおしくなってきたよ。変かもしれないけど・・食べながら・・涙が・・。
もうすっかり酔っぱらっちまった・・・。









 田植えの最中だ。田んぼの周りにはオオイヌノフグリ、忘れな草、我が家の周辺にはつつじ、すもも、かりんなどの様々な草木が花を咲かせていて、疲れた身体を慰めてくれる。

 久しぶりに花に誘われて、さくらんぼの木の下でポーズをとってみた。のどかなひととき。でもひとたび苗代に目をやれば、僕ののびやかな心がかき乱される。

 原因はスズメ。育ててきた稲の苗を突っついては、次々とダメにしてしまうのだ。その被害が少しだけならばかわいいスズメ達のこと、大目にも見るのだが、全体の一割にも及ぶとなると限度を超える。

「モミをねらっているのだよ。芽が伸びて葉が茂ってしまえば来なくなるさ。」
被害の出始めの頃、近所の人達はそう言って慰めてくれた。ぼくもいままでの経験からいってその見方に間違いあるまいと思っていたのだが、甘かった。葉が茂り、苗となって田んぼに植えることができるようになっても被害が続いた。

大きな声を出したり、ほうきを振っておどかしたり・・・。そのときは追い払うことができてもすぐにまたやってくる。きらきら光る「防鳥テープ」を張り巡らしてみた。苗代全体に釣り糸を張ればいいと聞いて、それもやってみた。でも全くといっていいほど効果はなかった。大切な苗代はさながらスズメ達の日常的な食卓か、いい遊び場となってしまった。にぎわいながら木々と苗代の間を往復している。

そんなスズメ達をこの冬のあいだ中、ずーっと僕が援助していたのだから情けない。

僕は雪におおわれた冬の間、さぞひもじかろうと、鶏舎に入ってニワトリ達のエサをついばんでいるスズメたちを、追い払わずに見逃してきた。彼らがえさを作る作業小屋にも入ってきて原料を食べている時だって、僕はそれを追い出したりはしなかった。そのことでスズメたちはずいぶんと助けられたに違いない。元気に冬を越せたはずだ。なのにというべきか、その結果というべきか、いま彼らは活発に僕を困らせている。そう思うと複雑な気分だ。

「いいか、よく聞けよ。『舌きりスズメ』の話しを知っているか。お前達の祖先は決して恩をアダで返したりはしなかったぞ。立派な祖先を持ちながら、どうしてお前達は僕を困らすのだ。」

しかし、よく考えてみれば、スズメ達は、自分達が生きるために目の前の食べ物に手を出しているだけだ。ただそれだけのことだ。それを「恩」だ「アダ」だと言わずに、僕は僕で生物の一員として、自分達の食べ物を守るために、スズメ達を追い散らかすだけでなく、場合によってはやっつけてしまえばよかったのだ。切羽詰っていたら必ずそうしただろう。そうしなかったのは、決して優しさからという類のものではなく、「食」に対する切迫感という点で、それほど深刻ではなかったからだ。

「食」の前ではスズメ達より僕の方が甘かった。
冬の鶏舎でも苗代でも、スズメ達の気迫勝ち。
そういうことだよ、よしひでくん。








 僕は約200軒の方々に週二回、曜日を決めて玉子を配達している。

「ねぇねぇ、おかぁさん。いまとっても気持ちのいい風が通り過ぎて行ったよ?」「そうね、今のは春風よ。」「ふーん、さわやかだね。」
「おかぁさん、今のも春風?」「なにいっているの。いまのは菅野さんが玉子を持って通り過ぎていっただけじゃないの。」「ふーん、でも気持ちいいね」・・・

バカだと思うでしょう?確かにそうかもしれない。こんなことを楽しく空想しながら家から家に、玄関から玄関へと玉子をもって走り回っていたのだから。20年前。まぁ、若いときというのは往々にしてそんなもんだ。

さて作物には育てた者の世界観が反映する。すこし気取った言い方をすれば、玉子は玉子であるだけでなく、玉子というかたちを借りた僕自身の世界観でもある。
この玉子をただ市場に出荷するだけで終わりなら、つくり手の苦労や感動は何ひとつ食べる側には伝わらない。いったん市場のフィルターにかけられ、スーパーの店頭に並んでしまえば、個性の失われたただの卵だ。玉子ではない。

ニワトリ達をどんな風に育てたのか。そしてどんな玉子ができたのか。ニワトリと僕とのあれやこれやの物語をささやかなメッセージとともに伝えたい。更に言えば、農民と消費者というだけでなく、同じ時代に生きる者同士、あるいは同じ地域社会の中の生活者と生活者という共感のなかで、食べ物としての玉子を渡したい、そう思っての宅配だった。

 玉子と一緒に「通信」を配る。一、二ヶ月に一度集金に伺う。そんな中でのやり取りが僕の養鶏のエネルギー源となってきた。

 食べ物をめぐる、最も豊かな関係といえる「地産地消」。これを実現していこうとする農業を称して「地域社会農業」というらしい。
 今までの地域農業は、地域社会を相手にせず、すべて東京、大阪などの大都会とつながろうとしてきた結果、足元がおろそかにされ、地元にはいつしか外国産の農作物が並んでいた。

 「地域社会農業」とは生活者の観点に立って、いま住んでいるところを天国にしていこうとする農業であろう。その意味では、私の養鶏は地域社会農業のささやかな実践といえるのかもしれない。

「ねぇねぇおかぁさん。あの腰を曲げて鼻を垂らしながら玉子を持ってふらふら歩いているおじいさんはだぁれ?」「うん、あの人は菅野さんといってね・・・」。
20年後はこんな感じかな。






 


東京からは桜が散ったという便りが届いているのに、こちらはまだ桜どころか梅の花も咲いてない。でもようやく鶏舎の周辺から雪が消えた。

 ニワトリ達は久方ぶりに鶏舎の外に出た。あいにくの小雨模様。それでもほとんどが外で遊ぶ。土の上はほぼ4ヶ月ぶりだろうか。一気に駆け出すもの、飛ぶもの、土をついばむものなど様々だけど、みんながうれしそう。雪に閉じ込められて、ずーっと鶏舎のなかだったのだから無理もない。退屈でもあったろう。さぁ春だ。思いっきり遊べ!なんだか見ている僕の方もウキウキしてくる。

だけど一方で、ゲージの中で飼われている大部分のニワトリ達にとっては、あいかわらず冬も春もない切ない毎日が続いている。さぞや「むなしい人生だ」と力を落としているに違いない。苦しいだろうなぁ、つらいだろうなぁと思っていたら、とても興味深いニュースが飛び込んできた。
ドイツでは2007年1月1日をもって、採卵鶏をゲージで飼うことが法律で禁止されるという。これによってニワトリ達は自然な方法でエサや水をとり、砂浴びができるようになるということだ。EU全体でも2012年から実施するという。これはすごい。とてもいいニュースだ。

ヨーロッパでは以前から「動物福祉」という考え方を育ててきていて、ニワトリだけでなく、牛や豚など家畜全般に対して、なるべく苦痛を与えない環境で飼おうとしてきた。
やっぱり、かの地の人々にはかなわないなぁ。家畜に思いやる気持ちが国を動かすほどの世論になっているということかぁ。

他方、日本ではどうかといえば、ニワトリ達のまわりに、そんな風は少しも吹いていない。比較的敏感な生協などでさえ、たまごの安全性にはこだわっていても、ニワトリ達をゲージから解放しようという取り組みまでは聞いたことがない。

どうしてだろうか。何故、日本ではこのような世論がそよとも起こらないのだろうか?日本人は冷たい民族なのかい?いやいや、僕は決してそうは思わない。
原因は、ただやたらに忙しいからだと思う。たとえば都会で働く多くのサラリーマンにとっては、隣人にさえ、ある場合は自分の家族に対してだって思いを寄せる余裕がないほどの毎日だと聞く。とても家畜にまでは及ばないということだろうか。

家畜たちをゲージ飼いの世界に追い込んでいるものは「経済効率」というモノサシだが、そこから、彼等を自由にしようとしたら、まず我々自身が自由にならなければならないということだろうか。
うわっ、根が深いぞ、これは。困った。どうしましょうか?






 吹雪の中、鶏舎に入っていくと、スズメとニワトリがエサを分け合っていた。いいぞぉ、生き物同士だ。困っているときはこれでなければいけないな、ウン。見ている僕の中にも、ほのぼのとした思いがうまれてくる。

 ひよこ屋さんがやってきたのは去年の春ごろだったかな。彼は外で遊んでいたニワトリ達をみながら「ずいぶんとのどかな風景だねぇ。ところで伝染病対策はどうしている?」と聞いてきた。ゲージ養鶏のようにかごに入れ、宙に浮かしているのと違って、同じ地面をたくさんのニワトリ達が踏む。伝染病が広がりやすいのではないかというわけだ。

 「このように遊ばせておくこと自体が対策かな。あとはきれいな水と新鮮な空気、それにいい食べ物だね。自然養鶏を始めてから20年になるけど、伝染病はただの一度も経験していないよ。」と答えたが、彼はとても考えられないことだとしきりに首をひねっていた。でも事実なのだから仕方がない。

 そのひよこ屋さんがスズメとニワトリが一緒にいる目の前の光景を見れば、きっとまた「伝染病の・・・」といいだすだろう。昨年の「鳥インフルエンザ」以来、指導機関も防鳥ネットだ、窓なし鶏舎だと野鳥に対する警戒を呼びかけ、補助金を出してニワトリ達をいっそう自然から切り離し、隔離する方向へ誘導しようとしている。

 「だけどね、ひよこ屋さん・・・」とやっぱりいいたいよな。人工的に隔離されたニワトリ達がいともたやすく死んでいくのは病気への抵抗力が弱いからだと思うよ。これを更に隔離する方向に進めたのではもっとひ弱なニワトリができてしまうだけだ。悪循環だし、そもそもそんな卵はおいしくないよ。

 求められていることは自然の遮断ではなく、できるだけ自然のなかで、自然とともに飼い、ニワトリの本来もっている生命力、抵抗力を高めていくことで病気を克服することさ。そんなニワトリが産んだ玉子だからこそ、おいしいし、身体にもいい。スズメだって自然の一部だ。一緒にいたっていいんだよ。

 こんど彼が来たら、こんなことを言ってやろうと思っていたら、「北朝鮮に鳥インフルエンザ発生。10万羽を処分」のニュース。うわっ、またか。
 だけどね。うふふ、負けないよ。この機会をつかまえてね、日本国中のニワトリが、自然ともっと近付いて暮らせるように変えてやろうと思っているんだからさ。

そうだよね、同志諸君。
 





                    
自然養鶏に取り組むようになってからほぼ20年になる。その間、へぇ〜と思う「小さな発見」がいくつかあった。「山の神様」との出会いもそんな発見の一つだ。ちょっとしたことがきっかけだった。僕が親愛を込めて「山の神様」と呼んでいるのは地元の微生物のことだ。

ある日、鶏舎から外に出たニワトリ達をぼんやりと眺めていたら、多くのニワトリ達が土を突っつき泥水をすすっていることに気がついた。鶏舎の中にはエサがあるし、きれいな地下水が間断なく注いでいるのに何を求めての土や泥水か?しばらく思いめぐらした後、僕の得た結論は、単に水分や土中のミネラルを取り込もうとしているだけでなく、それらの中に含まれている「地元の微生物」を体内に取り入れ、身体の内と外との調和をはかろうとしているのではないかということだった。

それぞれの地域には、その地その地の環境に見合った「地元の微生物」がいる。わずか1gの土の中に数億とも数十億ともといわれるおびただしい数の微生物たち。そのもの達は土だけではなく、大気中にも、植物の上にも、水の中にも、僕達の皮膚にも、体内にも・・・と、どこにでもいてくれて、生きている者たちの生命活動を支えている。

人間の赤ちゃんは生まれたときは無菌状態だが、三日の後には必要な微生物が体内にそろい、以来いのちが尽きる日まで連れ添ってくれるという話しを聞いたことがある。
人間だけでなく地域の動物達も、草や水、あるいは土を通してその微生物を体内に取り入れ、身体の内と外(自然)との「調和」をはかっているのだろう。

むかしから「三里四方の食べ物を食べよ」というのは、それぞれの地域の「地元の微生物」に依存して暮らすこと、あるいは「微生物による調和」の大切さを教えたものだろうと思っている。

僕はエサを醗酵させて与えていた。醗酵させたほうが無駄なく吸収できるためだ。当時、醗酵菌は県外の(富山県の)ものにたよっていた。
しかし、よく考えたら、ニワトリの周辺には朝日連峰の微生物、体内には富山県の微生物。このような組み合わせは自然の動物にはありえないことだ。ニワトリ達はこの不調和を是正しようとして、土や泥水を食べようとしたのかもしれない。そう考えた。

自然との調和は健康の源であり、いい玉子は健康なニワトリから産み出される。この地域の微生物でエサを醗酵することはできないだろうか?それができたらニワトリ達の生態と自然とのハーモニーがしっかりと築かれ、養鶏の枠の中とはいえ、さながら野生のタヌキやヤマドリたちと同じ世界が実現できるはずだ。地元の微生物をいただきに行こう。

パワフルなのはやはり森の中。山に分け入り、ラーメンどんぶり一杯分ぐらいの腐葉土をいただいてきた。それを大きなバケツでそれぞれ6杯ぐらいの米ぬかとノコクズとでまぜ合わせ、小山状態にして様子をみた。腐るなら嫌な臭いを出すだろう。醗酵ならかぐわしい香りを放つはずだ。どきどきして見守った。3日後の朝、シャッターを開けたらエサ場の中いちめんにいい香りが広がっていた。小山に手を入れてみる。熱い。60度はあるだろうか。なんと力強い醗酵だ。

それは同時に、太古の昔から生命の循環をつかさどって来た地元の微生物との感動的な出会いだった。僕は思わず、「これは山の神様だ。」とさけんでいた。あなたはこのときの僕の喜びを想像できるだろうか?

さっそくそれをエサ全体に混ぜた。エサは同じような香りを放ちながら醗酵していった。これでようやく野生と同じ「調和」が実現できる。僕のニワトリは地鶏になれる。そう確信できた。

その日から今日まで、ニワトリ達は山の神様のお世話になっている。おいしい玉子を産んでいることはいうまでもない。








 第4回の「にわとりの断食」を覚えておいでだろうか?最後にこう書いている。「若返るためだとはいえ、ニワトリ達に断食をしいてきたこの僕は、当然のことながらそのつらさを一度体験しなければなるまいと考えている」と。
 多くの方はこれを、きっと言葉だけのことと思っていたと思う。やったのですよ。それに近いことを。それもニワトリ達と同じ2週間。ねらいは、50代後半に向かっての「からだのギア・チェンジ」。

 彼らと違うのは 一日に必要なビタミン、ミネラルを錠剤でとり、プロテイン(タンパク)は牛乳瓶1・5本分ほどの水に溶かして飲むというところ。三度の食事はそれだけで、あとは水かお茶。それ以外は一切の食べ物、飲み物を口にせず、カロリーを遮断する。
  どこかの「道場」か病院に入り、世間から隔離されてということならよく聞く。でも食べ物に囲まれた自分の家でというのは果たしてできるだろうか。こんな不安があったが・・・やれたのですねぇ。

 食事を取らないようになってからの3、4日間が一番つらかった。そのつらさが、日を負うごとにどんどん増していくだろうと思っていたら、そうではなく、ちょうど朝食と昼食抜いた午後3時頃の空腹感がずーっと続くだけ。これはちょっとした発見だった。
  当然のことながら、頭から食べ物が離れない。食事時になれば家族は僕に関わらず食卓をかこむわけで、家の中のどこにいても魚を焼いたり、うどんのだしをとるなどのいい匂いが漂ってくる。あらゆる所から食べたい気持ちが刺激される。

ところが、5日目ぐらいになると少し感じが変わってくる。たぶん、空腹に慣れ、余裕のようなものができてくからだろう。家族の食卓のすぐそばにいても、ゆっくりと新聞が読めるようになった。おもしろいのは、自分の身体の主人公は自分の意志であるという満足感がうまれてきたことだ。

意志が「止めとけよ」といっても、「もう一杯」、あるいは「もう一つ」というように、身体の方が言うことを聞かないということがよくあった。ところがこの頃になると、自分の意志が身体を完全にコントロールしているという充実感、何かすがすがしい自信のようなものが生まれてくる。これは新鮮な体験だった。
14日間を通して雪下ろしや、ニワトリ達へのエサやりはいつもどおりにできた。カロリー以外はきちんととっていたからだろう。少し動作がゆっくりとなったり、時にはふらつきもしたけどね。

友人達にはふざけて「志(こころざし)と体形の格差を埋めるため」と説明していたけど、確かに身体は軽くはなったから、その点での成果はあったと思う。体脂肪率も10%ほど落ちた。

病院で腎臓、肝臓、コレステロールなどの数値がどう変わったかを調べてみたら、全てにわたって改善されていて、医者は「驚きですねぇ」と信じがたい顔をしていた。なるほど、これがニワトリにとっての断食効果か。僕もなんとなく若返ったような気がしないでもない。でも、頭髪は薄いまま。彼らのように若毛が生えてきたりはしなかったよ。


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土が恋しい(済み)05,4,21

ほら、私の右手と左手を見てごらん。右手には土、左手には砂がある。土と砂では違うよね。土はやわらかい。香りがある・・・。砂はジャリジャリして硬い。香りがない・・・。土と砂を分けているものはなんだろう?それはね、植物や動物達の遺体が含まれているかどうかなんだ。そう、土は今までこの地で生きていたもの達の全ての遺体と岩石の成分でできあがっている。

地元の小学4年生の子ども達を前にこんな調子で話し出した。もっと続けよう。


岩や岩くずに最初に棲みついた始めての植物は、コケのようなものかな。それらが朽ちて少しの土ができる。その何千、何万回の繰り返しの中からやがて草や木ができ、動物達が生まれ、それらがつぎつぎと遺体となり、土となってきたんだ。タヌキもいた。カモシカもいた。旅人も、いくさで倒れた武士もいたかもしれない。数十センチという土の層は、数万、数億という歳月をかけた、生きていたものたちの体積でもあるんだね。


畑に大根の種をまく。この大根の生長を支えるものは、かつてその場所で土となった全ての生き物たちだ。幾百万、幾千万の生き物達が作り出した力によって、大根は成長していく。大根のなかに、タヌキや旅人や武士など、かつて生きていたものたちが参加していくといってもいい。私達は大根を食べながら、同時に大根の中に活かされているおびただしい生命、あるいは生命のつながりをいただいているんだね。

空を飛ぶ小鳥も、森を駆けるウサギも、道端の草も、たくさんの生命の集まりだ。それは僕達自身にも言えることだよ。
やがて、いま生きているもの全てが朽ちて土となる。でもそれで終わりではない。その土からまた新しい生命がうまれてくる。
つまり、これから生まれてくるものたちは、僕たちを含む、全ての生命の集積として、生命を得て成長していくんだ。 このように、生命がかたちを変えながらめぐって行く所、生命の循環の場が土なんだ。


さあ、外にでてみよう。スズメが飛んでいるよ。草や木が茂っている。これらは太古の昔から続いている生命の集まったもの。それを見ている君も膨大な生命のあつまりだ。
土の上に、土とともに、土に感謝して生きる。僕はこんな気持ちを大切にしたいと思っているんだ。


だいたいこんなことを話して小学校をあとにした。でもね、最後まで話さなかったことがあるんだ。それはね、もう終わりかなと思ったとき、病院をこっそりと抜け出し、裏山めざして歩いて行こうと思っていることなんだ。行き交う人に「ワラビになるんだ。」「ブナに参加するから」と笑顔で説明しながらね。そうしなければ生命のめぐりの帳尻が合わないもんな。


相変わらず、あたり一面が雪の世界。ニワトリたちも僕も、もう2ヶ月以上土をふんでいない。土が恋しい。





 







二十歳そこそこの頃、とても貧乏だった。よく「カップめん」の安売り品を箱ごと買ってきては、そればっかり食べていた。これってけっこう辛い。食べ始めて4,5日過ぎた頃から事態はどんどん深刻になっていく。お腹がすいても食べたいなんて思わなくなる。でも、他に食べ物がないのだからしょうがない。がまんして食べ続けていると、やがてカップにお湯を注ぎ、立ち上がるニオイをかいだだけでムカつくようになる。栄養のあるなしに関係なく、同じものを食べ続けるというのはなかなか大変なことだ。
こんなことを書いたのは、ゲージに飼われているニワトリたちの食生活が、まさにあの頃の僕と同じだと思えるからだ。

彼らの食べているものは「配合飼料」。トウモロコシや大豆粕、魚粉、カキガラなどにビタミン、その他が添加されているもの。当然のことながら、おいしさというより産卵効率を考えての組み合わせだ。
小さなかごに閉じ込められて、大きなストレスに耐えているのだから、せめて食事ぐらいは楽しいものをと思うのだが、そうはなってない。成長に合わせて、配分上の多少の違いはあっても、生まれてから死ぬまで、毎日、毎日ほとんど同じものを食べ続けなければならないのだ。

ニワトリに味覚を感ずる力がないのならばこれでも救われるのだろうが、彼らにはちゃんとその力はある。大変だねぇ、つらいよなぁ。 
かごのストレスに加え、食のストレス。そんな身体からしぼり出される卵はとてもおいしいとは思えないし、ニワトリそのものに同情してしまい、食べたいとも思えなくなるよ。家畜福祉という観点からしても決してほっといていい問題ではないと思う。

 さて、僕のニワトリたちはどうかというと・・・いろんな物を食べているぞ。まずは定食として、おきまりのトウモロコシ、お米くず、カキガラなどだが、それに加えて日替わりランチがある。その代表はほぼ毎日でる学校給食のお惣菜の残りだ。きのうはひじきの煮付けと焼き鯖、今日はコロッケとジャガイモサラダだった。100羽あたり、大きなタライに山盛りにあたえるのだが、待ちかねていたよと一斉に飛びつき、わずか一時間ほどでたいらげてしまう。お次は野菜サラダ。これも給食調理場から出るもので、今なら白菜、レタス、キャベツの外葉、にんじんの皮などだ。これも大好物。他には、おそば屋さんのかつお節のだしガラ、てんぷらの揚げかす・・・。周辺からいろんなものを集めてきてはどんどん与える。春から秋にかけては、日がな一日、土や草を突っついているから、まだ不足しているものを、自然の中から探しているのだろう。

 「雑食性のニワトリには『雑』といえるほど多くの種類の食べ物を」だ。そのためにはニワトリにあわせて僕が動かなければならないけどね。でもそこから産まれる玉子はおいしいぞぉ。






          タヌキを捕まえた(済み)
ついにタヌキを捕まえた。まるまると太っている。これまで十数羽はやられていた。その度にくやしさがつのり、今度捕まえたら絶対に許してはやらないぞと心に決めていた。まぁるい目で僕を見つめ、許しを乞うている。でも、もうだまされないぞ。そう、実はいままでに何度もだまされてきた。

 僕は自然養鶏といって、約1,000羽のニワトリ達を地面の上に飼っている。 彼らは100羽づつに分けられ、普段は四面金網の鶏舎のなかで過ごしているが、ローテーションにしたがって3〜4日に一度は外に出て遊ぶ。もちろん夜は鶏舎の中だ。

 ニワトリ達がタヌキの被害にあうようになったのは昨年のちょうどいまごろからだ。深夜から明け方にかけてやってきては厳重に回してある金網を強引にこじ開けるか、土を掘って鶏舎の中にはいろうとする。
「クワー、クワー」というニワトリの突然の叫び声に、何度か飛び起きて駆けつける。しかし大概はやられた後だった。

タヌキを見つけた時もあった。追いかける僕の走力を見透かしたようにゆっくりと逃げていくその後ろ姿がにくらしい。
以来、長いことタヌキにほんろうされる日々が続いたけれど、今年の春、ようやく捕まえることができた。トラバサミに足がはさまれ動けない。

「いいか、お前の仲間達に伝えろよ。二度とあそこへは行くな、行ったら痛い目にあうぞ、と。」僕はタヌキに向かってとくと教え、頭を「コチン」とたたいて放してやった。タヌキを一匹やっつけてしまうよりも、この模様を大勢の仲間達に話してもらった方が効果が高いと思ったからだ。

でも、教え足りなかったとみえて、数日後にまたやって来た。そして再度捕まえた。同じタヌキかどうかは分からないが、今度は前回よりももっと念入りに教え諭し、ボーンと身体を蹴り飛ばして放してやった。近所の人たちはなんと間抜けなと笑ったが、僕はまだ彼らの経験を教訓に変える力を信じたいと考えていた。しかし、やっぱり被害は収まらなかった。そして今回である。

もう説教はいらない。教訓は不要だ。タヌキの頭を思い切りたたいて気絶させ遠くの山に捨ててきた。

殺さなかったのは秋のタヌキはまずくて食えないという話をきいたからだ。タヌキはやっぱり最後までタヌキだった。








外は吹雪だ。粉雪がうなりをあげて通り過ぎていく。男は作業小屋のシャッターを開けて外を眺めている。ほほにつき刺さる粉雪が痛い。無精ひげにくっついた雪は半分凍っている。片手で一方の鼻の穴をふさぎ、「ヒー」と手鼻をかむ。鼻水は吹雪と合流し霧のようになって飛んでいった。男の手にはどぶろくとソーセージ。グビッとどぶろくを飲む。パキッとソーセージをかじる。男は目を細めて満足そうにうなずき、ボソッとひとことつぶやいた。「春はまだ遠いな。」目の前を吹雪が走っていく。

これなんですよ、僕がやりたかったことは。ニワトリの肉でソーセージを作り、やがてこのイメージの中に納まりたいと思っていたんです。

ニワトリは生まれてから二年半ほどたった頃、その役割を終えて肉になる。玉子を産み、肥料をつくり、最後には肉となって僕たちを支えてくれる。ニワトリ達に感謝しつつ、思い出をたどりながらその肉をいただく・・・・と。
こう書けばどっかしんみりとした感じになるが、そんなことはありません。しみじみとした気分を追っ払ってくれるほどにうまいのですよ。この肉が。

どんな味かと問われれば、「この世の味とはとても思えないほどの・・・。」 
そのおいしさは、スーパーの食肉コーナーに並んでいるブロイラーとは比べものにならない。ブロイラーは生まれたときはたった40グラム。わずか二ヵ月後には三キロ弱となって出荷される。さらに言えば出荷七日前までは薬漬けだ。
かたや僕のニワトリは生まれてから二年半、土の上を走り回り、じっくりと身体をつくっての二キロ弱。薬はゼロ。充実度合いが違うね。

煮物、鍋物、うどんに、揚げ物。何に利用しても料理の味を数段引き上げること請け合いだ。鶏肉といえばブロイラーしか知らない子ども達に一度食べさせてあげたいね。きっとびっくりするだろう。

さて、その肉をソーセージに加工して、想像した絵の中に納まりたいと思った僕はさっそく作業にとりかかった。鶏肉の漬け込み、羊腸への詰め込み、燻製・・と、子ども達から両親まで家族みんなの応援を得て、ほぼ三日後、ようやく出来上がった。いい味だった。使った調味料はコショウぐらい。ほとんど肉だけなのに、どんなブランドものにだって負けない味に仕上がっている。

僕はさっそく夢を実現しようと作業小屋のまえに立ったのだが、道を通る近所の人を呼び込んでは「どうだ?うまいべ?」と評価を強要して、家族のひんしゅくをかっただけで終わってしまった。まぁ、そんなもんだ。

それはそれとして、健康ないのちを持ち、充実して成長してきたものは、それ自体としてのおいしさを充分に兼ね備えているものなのだとつくづく思う。








「うわっ、何だこりゃ。こんなもの食えない。」

この間、公民館事業の打ち上げですき焼きを食べようと卵を割ったときだ。小鉢の中に落とした黄身の色を見て思わず声を出してしまった。鮮やかなだいだい色。こんな色は自然じゃない。明らかに着色されている。隣で食べていた友人は何事かと思い、僕の小鉢をのぞいてきた。いや、あのね・・・。

たまごの黄身の色が着色料でコントロールされている話しはあまり知られていない。ほとんどの人は自然の色だと思っている。ところが・・・、こんなことがあった。

以前、エサとして買い求めていたアメリカ産トウモロコシに、遺伝子を組み換えたものが混ざりそうだということで、使用を中止したことがあった。代用品は「くず米」。しかし、全く予想外の所から別の問題が起こった。日を追うごとに玉子の黄身の色がうすくなっていくのだ。「たまご焼きにしても黄色いものができないよ。」「弁当のおかずがおいしそうに見えない」
玉子をとってくれている方からこんな声が届けられるようになった。

黄身の色の濃淡は、ニワトリがエサとして取り込んだ色素によって変わる。トウモロコシの黄色だけでなく、緑の草などを食べても色は増す。だから、いつもよりたくさんの草をせっせと運んだのだが色は上がらなかった。お米のもつ白っぽい色が黄身の色を淡い方に引っ張っていくのだろう。
玉子を食べてくれる方たちに訳は説明してあるのだけれど・・・少々つらい。

僕のこんな状況を聞きつけてやってきたのがエサ屋さんだ。
そんなの簡単ですよ、といいながら出したのが赤い「パプリカ」の粉が入っている子袋と、さまざまな黄身の「色見本」だった。

「菅野さんのたまごは特別なたまごですから、黄身はこの辺の色に仕上げた方がいいのではないでしょうか・その場合はエサの中にこの色素を○%入れればOKです。」
知らなかった。そんな世界があったのですねぇ。もちろん僕は使わなかったけど、ちょっとグラッとはきましたよ。

 その後、遺伝子組み換えではないトウモロコシが手に入るようになって、この問題は一段落するのだけれど、今日のたまご生産の実情を垣間見た思いがした。
以来、外でたまごを食べる機会がある時は黄身の色を注意して見るのだが、このところ色素が入っていると思えるたまごがずいぶん目に付くようになってきた。鮮やかすぎる。

消費者はこんなものを求めているのだろうか。エサ屋さんは、人は黄身の色の濃いほうがおいしそうに思うものだと言っていたが。

加工食品には添加した着色料を明記しなければならない規則がある。でも殻の表面にそんなものを書いてあるたまごなんて見たことがないから、たまごは違うのだろう。

パプリカが入っているからといって別に実害はないじゃないかと言われれば確かにそうだろうが、我々の食べ物はどんどんわけの分からないものになっていっている感じはする。鮮やか色のたまごにはニワトリさんもびっくりだろう。少なくても僕はそんなたまごは食べたくはないなぁ。