ぼくのニワトリは空を飛ぶー菅野芳秀のブログ

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下の文章は「虹色の里から」(朝日新聞山形版)に掲載されたものです。2年前ですがある全国紙の山形版に、レインボープランはうまくいっていないという特集が組まれたことがありました。それに対する反論を朝日新聞紙上に書こうとしたのですが、最初にだした原稿ではあまりにもリアルすぎるという担当記者からの指摘をうけ、少しオブラートに包んで書いたのがこの文章です。


レインボープランがスタートして7年目に入っている。ありがたい激励がほとんどだが、まれに参加農家が減っていることを指摘する声や、生ごみ堆肥の有効性について疑問視する声もないわけではない。

 レインボープランのまちづくりは、白紙の状態に絵を描くのと違って、人びとが暮らしているただ中に、市民主体で、循環のシステムを築いていこうとする事業だ。当然すんなりとはいかない。

 以前も今も、あっちにぶつかり、こっちにぶつかりの連続で、いつも課題は山積だ。利と理が衝突することもある。問題がでればみんなで時間をかけ、ゆっくりと考えていけばいい。それらは未来にむかっての必要なプロセスであり、肝心なのはいつもこれからという姿勢を保ち続けることだと思っている。参加農家の問題もそういうこととして取り組んでいる。

でも、生ごみの堆肥化自体に問題があるかのような見方は明らかに認識不足だ。よく指摘される問題は効果と塩分の二つ。

 まず効果についてだが、堆肥には「作物の肥料として」と、「土づくりとして」の大きく二つの用途がある。窒素成分の低い生ごみ堆肥は土づくりに最適だが、肥料としてなら豚や牛の堆肥の2倍以上は必要だ。それに比べて畜産堆肥は窒素が多く、作物への肥料効果は高いが、土づくりとして使う場合は藁や草、落ち葉などを大量に混ぜ、窒素分を薄めて使うことが求められる。               
 ちろん生ごみ堆肥にも肥料効果はある。森の木々はいってみたら「生ごみ」をエネルギーにして成長しているのだから。要はそれぞれの堆肥の特性をおさえて上手に使うことが基本だ。このことを取り違えた議論が多い。

 塩分の問題はよくいわれることだが、その含有量は酪農堆肥とさほどかわらず、露地での使用にはなんの問題もない。雨が降らないハウスでの使用にあたっては一年ぐらい外に晒してからというのは、畜産堆肥と同じだ。
そもそも私たちが毎日の食事で使っている程度の塩分は土にとって大きな問題ではない。自動車もさびつくほどの潮風があたる海岸端でさえ、田や畑を耕しながら人びとの暮らしがつづいている。潮風によって田畑の土が壊れたと言う話はきかない。

 東京農工大の瀬戸教授は、生ごみ堆肥に含まれている塩分を30年分投入した野菜の成育調査において、発芽、成育になんの問題も無かったという研究成果を発表した。教授は生ごみを堆肥にするための疎外要因はなにもないと結論づけている。

 生ごみを燃やせば猛毒のダイオキシンが発生する。土から生まれたものを土にもどすことが循環型社会の基本である。そうはいっても人間社会は一筋縄ではいかない。当然のことを当然の状態にもどすことにおいてすら、さまざまなためらいがあるということか。





それぞれの地域にはその地固有の風土があり、暮らしがあり、それに見合った食材と食べ方がある。それを「郷土食」というのだそうだ。その郷土食は近年、ファスト・フードやたくさんの冷凍食品などに押され影が薄くなっていた。でも最近その存在がみなおされてきたという。

「なんといっても健康が第一だよ。だから郷土食。」と若い友人はいう。
私はその郷土食で育てられてきた。思い出すことができる夏の郷土食といえばナスの漬物、蒸したナス、ナスの煮物、炒めもの、キュウリの漬物や煮物など、買ってきたものはほとんどない。旬の野菜というと聞こえはいいが自分の家の畑で採れたものばかり。ほとんど毎日が同じもののくり返しだった。

当時、郷土食という気取った言い方はなかった。あったとしてもそれは貧しさの別の表現だったと思う。今でもわが家の食事はそのころとあまり代わってはいないけれど。そんな身からすれば若い友人の言葉にいささか思いは複雑だ。
ふ〜ん、健康にいいってかぁ。そりゃそうだろう。でも大丈夫かい、質素だよ、と人ごとながら心配になる。

そんな折り、長井市の西根地区公民館から郷土食の調理本である「里のめぐみ」が発行された。作成したのは地区の60代、70代の四人の女性達。夏の郷土料理を食べながら、冊子の完成を祝いたいという案内をいただき参加した。出された献立は、お赤飯、くじら汁、だし、みずのおひたし、つけものなど。
        
「生まれて始めて取り組む、慣れない作業でした。郷土の素朴な料理や味を若い人達に伝えたい」とご婦人方の弁。

「残しておきたい郷土の料理」という副題のついた冊子を手にとり、めくってみる。「ふきのとう味噌」から始まるおよそ40品目。酢の物、あえ物、煮物、佃煮、炒り物、からめ物・・・そこには春、夏、秋、冬と季節ごとに分けられた様々な料理が丁寧な調理法と解説つきで書かれていた。

驚いた。質素だなんてとんでもない。限られた食材に加えられた多様な調理、工夫のかずかず。たしかにわが家の夏の郷土食といえば、ナスずくしだったが、一年を通してみればやっぱりいろんな物をたべていた。

ところで、郷土食というのはそれこそ何百年もの間、親から子、姑から嫁へと伝えられてきたものだった。しかしいま、郷土料理の本を都会の人達へではなく、おなじ郷土で暮らす人達にむかって発行しようとするのは、その伝達が立ち行かなくなっている現実があるからだろう。

この本の発行によって、若い人たちの中にも作ってみようという人が増えるかもしれない。そうあってほしいと思う。地元の風土に根ざした食の技(わざ)。このまま忘れられてしまうのはいかにもおしい。

冊子の問い合わせ;西根地区公民館(0238−84−6326)















 高校時代の三年間は、いい意味でも悪い意味でも、俺たちのその後の人生にずいぶん影響を与えているよね。えっ、その中の特に何がですと?笑うなよ、いいかい。それはな・・・こい・・koi・・恋。恋なんだよ。

 少し大きめの制服を着た同級生の中から、一人の女性の姿を眼で追うようになったのは一年生の夏ぐらいからかなぁ。

 以来、卒業までの三年間、悲恋、破恋、恥恋、笑恋、大失恋の数々。

 あまり胸はってよそ様に語れるものはないけれど、胸の中にはいつも特定の人がすんでいたよ。
廊下ですれちがった時にわずかに眼があっただけで、どんな部活の苦しさにも耐えられると思ったし、そこにほんの少しの笑顔でも付け加われば、それこそ一週間は天国に昇ったような気分が続いたね。

 当時はやった「高校三年生」という歌の中に「ぼくら、フォークダンスの手をとれば・・」という歌詞があったけど、そのフォークダンスが何日も前から楽しみで、前の日は念入りに髪を洗い、ツメをきり、と・・。でもね、笑っちゃうのは、イザその娘との番がまわってくるとガチガチになりながらも、わざとそっけなくするんだよね。ばかだねぇ、若いねぇ、かわいいねぇ、あのころの俺、俺たち。

 俺たちは三年間の中で、異性とのつきあい方を学んだと思うよね。想像をやたらふくらませ、美化しすぎることなく、また、その逆でもなく、様々な失恋や悲恋の中から、等身大の異性との関係のとり方、つきあい方を学んだんだと思うんだ。

 もっとも、俺の場合はまだまだ勉強が足りなかったとみえて、卒業後も悲恋、破恋・・は続くんだけどさ。

    






 今月の10日、長井市西根地区の公民館で、「菜の花の村・未来づくりの会」の新年会がおこなわれた。

 菜の花を楽しみ、その実であるナタネを搾って油をとり、使った後の廃食油を精製して車を走らせる。そんな目的をもった20名の老若男女が集まって会を結成したのは昨年の9月初旬のことだ。

 2.6ヘクタールの畑に種をまき、生育状態を見守りつつ始めての新年をむかえた
2、6ヘクタールという面積は決して小さくはない。昨年、ナタネ油用の栽培面積が山形県全体で5ヘクタール弱しかなかったことを考えれば、お分かりいただけるだろう。初めての年としてはいいスタートがきれたと思う。菜の花の成育も順調だ。みんなの気分はいい。

「春になって花が咲いたらきれいだろうね。」「花畑のまん中にゴザを敷いて酒宴というのはどうだろうか。」鍋をつつきながら、話題はとっくに5月にとんでいる。
そんなとき「これから先の菜の花の栽培だけど・・・」と言葉を選びながら話しだしたのは、会の世話役の敏夫さんだった。

 菜の花の栽培は転作作物として補助金の対象にはなっていない。そのため収入はナタネの販売利益だけだが、粗収入はうまくいって10アールあたり6万円ぐらいしか見込めず採算があわない。この現実の中でこれから先どうすすめるか。敏夫さんの話はこういうことだった。
栽培面積がふえている滋賀県などでは県や町の補助金をあてて小麦などと同じ10アールあたり10万円になるように不足分を補っているという。

 しかし山形県にはその仕組みがない。いくら菜の花畑がきれいで、ナタネ油が安全でおいしくてもそれだけでは栽培は広がらない。その話を聞きながら「理と利の調和」ということを考えていた。
私は地域づくりには理念と利益のほどよい調和が大切だと思っている。このことは25.6年ほど前の減反拒否の手痛い失敗から学んだものだ。

 理念の正しさだけでは仲間は増えず、地域を変える力にはなれない。理念の示すところには同時に利益があるということが、運動のダイナミズムを獲得するうえでは大事だ。これがなければ事業は広がりにくいし、継続しづらいだろう。

 生活している立場にたてば、このことはしごく当たり前のことなのだが、その渦中にいると時には見えにくくなることがある。

 ささやかな利益でいい。なるべくならそれを自力で確保したい。簡単なことではないことは分かっている。その難しさが「未来づくり」の醍醐味でもあると思えるのだが、現実には敏夫さんの話をどう受けとめたらいいのか。


 置賜農業高校飯豊分校生が日本学校農業クラブ全国大会のプロジェクト発表文化・生活部門で「食物アレルギーの理解を求めて」という実践発表を行い、最優秀賞を受賞した。昨年の東北大会優秀賞に続いてのこと。

小さな分校の大きな快挙である。

学校農業クラブというのはあまり聞き慣れないが、全国の農業関係科目を学ぶ11万人の高校生の全国組織だそうだ。飯豊分校の実践がそのトップに立った。

 地元の人達が集って開かれた「祝う会」で彼らの発表を聞き感動した。生徒達は実に堂々としている。内容もすばらしかった。

 その活動を紹介しよう。
スタートは食と健康の視点から玄米に着目したことだった。その効果と活用の実態を調べようと様々な分野の人を訪ね話を聞いた。その結果、玄米の良さに一層の確信を持つが、食べにくいということから敬遠されている現状を知る。そこで学校で作っていた無農薬玄米を使い数々の玄米料理のレシピをつくる。更にレパートリーを広げ玄米ケーキ作りに挑戦。地元のお菓子屋さんと協力して商品化にも成功する。保育園の依頼を受けて自分たちのつくった玄米ケーキを園児たちに提供するようになった。

 子どもたちはとても喜んでくれたが、中に食物アレルギーのために食べることができない園児がいることを知った。そんな子にこそ玄米を食べてもらいたいと、アレルギーの原因となる卵や小麦、乳製品を除いたケーキを作ろうと決意する。地元のケーキ屋さんからは「卵などがなければケーキは膨らまない。無理だ。」と言われたが、失敗を重ねて6ヶ月後、ついに成功する。
何度かくじけそうになったというが、苦しむ園児たちを助けてあげたいという思いが勝ったということだろう。

 更にそれにとどまらず、アレルギーを持つ子どもたちのことを少しでも知ってもらおうと紙芝居を作成し各地で上演する。食と健康の問題を地域の中で広く訴えるために町民に呼びかけ、玄米フォーラムも開催した。

こんな一連の活動が受賞の対象となった。

これは高校を地域に開き、地域の課題を地域の人達とともに考え、その参加のもとに組み立てられていく新しい教育実践なのではないだろうか。高校の授業の中に地域を活かすというような、よく聞く領域を越えている。生徒もすばらしいが、それを支え、指導する教師の力量と情熱、それに学校全体の協力体制もみのがせない。この受賞は飯豊分校全体が評価され獲得した賞といえるだろう。

残念ながら現代は「食についても学ばなければいのちが危ない時代」である。農業高校は職業としての農業後継者を育てるだけでなく、いのちのみなもとである食や環境について考える生徒、人間を育てる場として今後ますますその役割が大きくなっていくだろう。

飯豊分校はその先頭を歩んでいる。








 長井市ではレインボープランという名の生ごみと農作物が地域の中で循環するまちづくりをすすめているが、この事業に国内だけでなく外国からの視察者も多い。

先日、タイの東北部にあるカラシン県ポン市から市長一行がやって来た。

 すでに同じタイ国のコンケーン県ブアカーオ市では「レインボープラン」という名の、同じ事業が始まっているが、ポン市でもこのプランを実現しようと市長自らが視察に出向いて来られたというわけだ。

 タイでレインボープランを求める背景には環境や農業、食料のどれ一つとっても日本の私たちより深刻だという状況がある。たとえば農業だが、輸出用の商品作物を増産しようと農薬と化学肥料を多投してきた結果、土が疲弊し、満足に作物が育たなくなっている農地が増えているということだ。

「化学肥料によって栽培された作物を食べ続けてきたことも一因だと思いますが、人びとの免疫力が低下しています。糖尿病、高血圧、ガンなどの病気も増えてきました。私はいま市民の健康を、食の面から守ることが行政のとても大切な仕事だとおもっています。そのためにも是非レインボープランを実現したい」と市長は語る。

 日本の場合も輸出こそしなかったが、堆肥から化学肥料へと農法を変え、タイと同じように効率と増産による最大利益を追い求めて来た結果、土が疲弊し、それが主な原因となって作物の弱りを引き起こしてきた。

「食品成分表」(女子栄養大学出版部)によって1954年と、約50年後の2001年のピーマンを比較すると、100gあたりに含まれるビタミンAの含有量は600単位から67単位へとほぼ1/9に激減している。ビタミンB1も0,1mgから0,03mgに、ビタミンB2は0,07mgから0,03mgへ、ビタミンCも200mgから76mgへと、のきなみ成分値を下げているのだ。

これには驚かされる。

 今の私達がビタミンAをピーマンからとろうとしたら54年当時の9倍の数を食べなければ同じ分量にはならない。成分の下落は他の野菜にもいえること。身体は全て食べ物からつくられていくことを考えれば、この数値の低下はちょっと恐ろしい。

 ポン市の市長が指摘するように、作物の質の低下は、それを食する者の免疫力、生命力にも大きな影響を与えるだろう。

政治や行政の最大の課題は、人々の健康、すなわちいのちを守ることである。そのいのちを支えるのはいうまでもなく食べものだ。その食べものを育むのが土であるならば、土を守ることは第一級の政治課題でなければならない。ポン市の市長さんの話を聞きながらそんなことを考えた。
 
ぜひ成功して欲しい。俺たちもこれからだ。





 田植えの季節が終わった。今年も田んぼの主役は年寄り達だった。    

今年75才になる我が集落の栄さん。彼は5年前の70才の時、自分の田んぼ1ヘクタールの他に、近所の農家から60アールを借り受けるほど米作りに情熱を燃やしていた。でも、この春、借りた田んぼをもとの農家に返したという。

どんなにかがっかりしているだろうと、田んぼの水加減を見ての帰り、栄さんの家によってみたら、想像していたよりずっと元気だった。

「足腰が痛くてよぉ。これがなければまだまだおもしろくやれるんだがなぁ・・」 
「自分の田んぼはつくれるのかい?」
「あたりまえだぁ、だまってあと5年はできるぞ。生きているうちは現役よ。」
まだまだ意欲は衰えていなかった。やっぱりこの世代の人達は今の若い衆とモノが違う。

 集落44戸のうち20戸が生産農家で、主な働き手の平均年齢は64才と高齢だ。

 私が26才で農業に就いたときは、若い方から数えて三番目だった。若いということで寄り合いの時などは年輩者から「机をだして。」「灰皿ないよ。」と指示され雑用係を務めていた。そのときから28年たった。いまも私は若い方から数えて三番目だ。54才の私は、60代、70代の先輩のもと、同じように皿だ、箸だと率先して動かなければならない。おそらくは10年後も。あまり考えたくはないが。

 「俺たちはよう、若い者たちをいたわっているんだよ。」そう話すのは74才の優さんだ。毎朝4時半には目が覚めるけど、家の若い衆を起こしてはならんと、しばらくじっとしていて、田んぼにいくのは5時半をまわってからだという。それもそっと。
そばにいた優さんの奥さんが笑いながらつけたした。
 「私も、朝ごはんを出したり、掃除したりと、嫁を起こさないように注意しながらやっているよ。」
 外に出てからもな・・と優さんはつけ加える。「勤めに出ている村の若い衆を起こさないように、遠い方の田んぼに行って草刈り機械のエンジンをかけるんだ。」

村では年寄りはいたわられるものという、よそで普通に聞く話は通用しない。我が集落の水田は、栄さんや優さんが現役でいる限りは大丈夫だ。

だが、もう一つの現実もある。栄さんは今年、畔草に除草剤をまいた。除草剤をまけば、畔の土がむき出しになり、崩れやすくなるのだが、足腰の痛みにはかなわないということだろう。

緑が日々濃さを増していく6月の水田風景。そのところどころに、除草剤による赤茶けた畔がめだつようになってきた。これもまた、高齢化する農村と農民の現実である。

10年後、どういうたんぼの光景が広がっているのだろう。
















今年の4月から、22歳の息子が一緒に農業をやっている。うれしいような、切ないような複雑な気分だ。
 何故って?うーん、例えていえばこんな感じかな。

嵐の海。難破船から次々とボートに乗って脱出していく人びとがいる。ぼくはこの難破船に残ることを決めた。他にも残る人はいるが大半は高齢者だ。するとそこに一人の若い男がやってきた。「お父さん、俺も残るよ。」よく見たら息子だ。「えっ、お前も残るのかい?」
ま、息子の決めたこと、尊重しようと思っているけどね。

それにしても・・・と考え込んでしまうよ。
この国の食べものや農業の実情はどうみてもおかしい。そして、そのことに「こんなことじゃダメだ」という声は上がらない。このこともおかしい。

例えば「飢餓の国」とマスコミで報じられる北朝鮮。多くの人は「北朝鮮の人はかわいそう」とテレビを見ているけれど、その穀物自給率は53%。日本はその半分の27%。ひとたび天変地異が起きれば、かの国以上の惨状を呈するであろうことは、容易に想像できるのだけど、誰も不安に思ってはいないようだ。おかしい。

例えば、この国の農業に従事している者の平均年齢は60歳代後半で、最も多い年齢層は70歳から74歳だということ。おじいさんとおばあさんが支えているんだよな。これっておかしい。でも、それなのに人々が先ざきのことをまったく不安に思っていないみたいだ。これもおかしい。

あるいは、前回書いた「野菜の質の低下」(24回)。こんなものを国民は広く食わせられているのに、「これじゃ、寿命をまっとうできなし、子どもも育つことができないじゃないか。」とは誰もさわがない。これはおかしい。

ニワトリも牛も豚も狭いケージ(カゴ)に入れられて、身動きできない状態で飼われているのに「かわいそうだよ。彼らにも人生がある。もっと広い所に飼ってあげようよ。」という声は聞かない。ペットには向けることができる思いやりも、彼らには働かない。彼らの不幸は我らの不幸。いのちはみんなつながっているというのに。これもおかしい。

おかしいけれどそれが現実だ。そんな中に新しい農民として旅立っていく息子の人生を考えるとちょっと心配かな。

でもね、いのちの源である土を守り、その上に生命力あふれる作物をつくる。大地を踏んで飛び回るニワトリを楽しみ、コロンと産んだ玉子をいただく。それらを人々に分け与える。

このように、「土」と「いのち」と「食べもの」の健康な関係を何よりも大切にして、汗を流して働くかぎり、人々に必要と認められる生き方はできるだろう。決して贅沢はできないだろうが、それはそれでいい。

大丈夫だ。難破船にだって、必ず道はあるはずだ。信じている。







あなたは土を喰ったことがあるだろうか?あるわけがないって?いやいや、いつだって食べていると思うよ。茶化しているわけではなく。ぼくにはそう思える。というのは・・・

田んぼの刈り取りがすんだ今ごろになると、ときどきカドミウムに汚染されたお米が見つかって大量に焼却処分されたという話が報道される。当然のことながら、稲が重金属であるカドミウムを作ったわけではない。カドミウムに汚染された田んぼがあって、そこで育った稲がそのカドミウムを根から吸収して白いお米に蓄えたということだ。
一昨年、山形県では栽培されたきゅうりから40年前に使用禁止となった殺菌剤の成分が出て問題となったことがあった。これも、土の中に残っていた農薬を根が吸収してきゅうりに蓄えたというわけだ。
つまり、作物は土から養分や水分だけでなく、重金属から化学物質まで、いい物、悪い物を問わずさまざまなものを吸い込み、実や茎や葉に蓄えるということだ。土の現状がそのまま作物に反映されていく。

ぼく達は、かぼちゃやスイカやブロッコリーを食べるけれども、それはそれぞれの作物の味と香りにのせて、育ったところの土を食べているのと同じだ。言い過ぎだって?いやいや、ぼくにはそうとしか思えない。
 以前、農薬が心配だからと、トマトの皮を厚くむく友人がいたけれど、もし土が汚れていれば皮をむいたところでどうなるものではない。身ぐるみ汚れているのだから。そう、洗っても洗っても決して落ちることがないのが土の汚れから来る作物汚染だ。それと分かれば捨てることもできるが、これも他の農薬汚染と同じく、見ても食べても決してわからないから始末が悪い。

さて、アジア各国やアメリカ、南米各地の作物が大量に出回っている。安い。国内産の何分の一かの価格だ。でも、だからといって買って食べてみたいとはとうてい思えない。いま見たように、ぼく達はそれらの作物を食べながら、中国やアメリカやアルゼンチンの土を食べることになると思うからだ。それらの土が食べてもいいほどに安全かどうかは誰も知らない。
土の汚れは作物の汚れ、作物の汚れはそれを食べる人間の身体の汚れにつながっていく。
「身土不二」という言葉がある。身体と土は一つであり、両者を分かつことはできないという意味合いをもつ言葉だ。前回、土の弱りは身体の弱りを引き起こすと書いたが、そのこととあわせて考えれば、全く土と身体は不可分であることが実感できる。

食を問うなら土から問おう。健康を築くなら土から築こう。いのちを語るなら土から語ろう。どうせ喰うならいい土を喰おう。切実にそう思うがどうだろうか。









我が家の家族は野菜が好きだ。80代後半になる両親、われわれ夫婦、それに一緒に農業している20代の息子も食事のたびに山盛りの野菜料理をせっせと口に運ぶ。今朝の食卓も野菜づくしだ。大きな器にだいこん葉やかぼちゃの煮物、春菊とくきたちのおひたしなどの野菜料理が盛られ、テーブルいっぱいに並ぶ(写真)。いつか、東京から来た友人が「毎日この量をスーパーから買い込んだとしたらすぐに家経費が底をついてしまうな。」と笑っていた。

しかし、こんな野菜好きのぼくでも、東京で食べる野菜を一度もうまいと思ったことがない。食堂に入っても、飲み屋に入ってもそう思う。出てくるもののほとんどが、ぺらぺらしていて味がなく、紙を食べているような感じなのだ。さらにいえば、野菜の中にパワーが感じられない。

東京で暮らしている人たちはいつもこんな野菜を食べているのだろうか。それとも、ぼくが行くところがそんなところなのか。その点はよく分からないが、もしこんなものをいつも食卓にあげているとしたら大変だ。子どもたちが野菜好きになるわけがないし、そもそも体がもたない。病気になってしまうだろう。それにしても、この野菜はいったい何なんだ。

なるほど、原因はこれか。そう気付くことがあった。まず、「食品成分表」に基づいて作成されたこの表を見てほしい(表参照)。

ビタミンAでみれば、1954年のピーマン一個が今の約10個分に匹敵するのだ。他のビタミンも全て半分か、1/3に減っている。この表にはないがミネラルもことごとく半分か1/3に減っている。この傾向はピーマンに限ったことではなく、全ての野菜にあてはまることだ。原因は何か。それは「土」の疲弊にある。

1954年まではほぼ堆肥だけで作物を作っていた。だが、60年代に入って軒並み、化学肥料と農薬を中心とした栽培方法に転換していく。これによって急激に土が変わり、作物の質が落ちて言った。紙を喰うような味気なさの原因は土の力の凋落にある。ぼくはそう確信した。

弱った土からは弱った作物が育つ。これは間違いない。その弱った作物を食べ続けることで生命力、免疫力が低下する。集中力も続かない。たぶんこれも間違いのないことだ。

大人達も心配だが、問題は子ども達だ。1/3や1/10になったからといって、今の子ども達に昔の3倍、10倍の野菜を食わせることは困難だ。脆弱な食材から身体を組み立てていくしかない。「アトピー」、「落ち着かない」、「すぐに切れる」などの子ども達の「症状」の背景には作物の質の低下があると思われる。大丈夫なのかい,東京の家族は。

我が家の作物は長年にわたって堆肥を投入した土で育っている。ニワトリたちのフンも一役かっている。そうしてできた1954年の野菜たちだ。うまさのもとはここにあった。

さて、だからといってあなたも農民になろうと呼びかけたりはしないぞ。やりたい人はやればいいが、もっと、違うやり方があるように思えるんだ。それは何かって?それはな・・・自分で考えなさい。







悲しい物語を中心にオンドリの話が続いた。これだけで彼らの話を終わりにしたとすれば、きっとオンドリたちの中から抗議の声が上がるに違いない。
「俺を説明するのに交尾の話だけで終わりなのかい?水臭いじゃないか。」と。

 そうなのだ。彼らと長年付き合ってきたぼくは、折にふれて示す彼らの魅力ある行動をたくさん見てきたし、ほとほと感心させられたことも一度や二度ではなかったのだから。確かにそれを書かなければ片手落ちになってしまう。

なかでも鶏舎から外界に出たときの「危機管理」は見事なものだ。

ニワトリたちは午後になるとローテーションにしたがって鶏舎の外にでる。お日様の暖かい陽射しのもと、草をついばんだり、砂浴びしたりしながらのんびりと過ごす様子は、見ている僕にとっても気持ちがいい。そんなのどかな光景を壊すのは野良猫などの闖入者だ。

 たとえば猫が来たとする。危険が近付いたと判断したオンドリは大きな声を出し、あたりに散らばっているメンドリたちに警告を発する。メンドリたちは一斉にオンドリの周りに駆け寄る。彼は彼女たちをかばうようにして、外敵をにらみつける。両者の間にしばし張り詰めた緊張が続いた後、ほとんどの場合、猫は手出しできずに退散してしまうのだ。オンドリは再び悠然と草をついばみ始める。それを見てメンドリたちも安心したようにまた周辺に散らばっていくのだ。この「危機管理」の見事さよ。

こんなこともあった。ぼくの子ども達が小学1,2年生のころのことだ。働いているぼくの傍で、子ども達は棒切れを持ってニワトリを追いかけ回して遊んでいた。のどかなひととき。「ヒエーッ」突然あがった子どもの悲鳴にあわてて振り向くと、オンドリが子どもめがけて強烈なとび蹴りを食わしている。一度、二度、三度・・。ぼくは思い切り駆けていって子どもを抱きかかえた。すでに身体のあちこちが傷ついていた。

子どもばかりではない。慣れない者が鶏舎の中に入り、それがオンドリにとって「危機」と受け取られれば、大人でさえもキックの洗礼を受け、逃げ出すこともある。

オンドリと比べれば、人間の大人ならおよそ20倍、子どもだって10倍やそこらの体重差がある。彼らから見たら、我々はほとんど恐竜のように大きいはずだ。にもかかわらず、その格差をものともせずに、身を挺してメンドリたちを守ろうとするこの勇気。この責任感。

さらに、夕方、薄暗くなるまで鶏舎に帰らないメンドリを案じて、入り口付近でいつまでも待っている姿や、メンドリ同士の喧嘩に割って入って、争いを止めさせようとしている様子などを見ていると、人間の男の方が彼らよりも「上」だなどとはとても思えなくなってしまう。

そしてね。ちょっと大げさに聞こえるかもしれないが、見ているぼくの方が、彼らから「しっかりしろよ。」といわれているようで、いささか神妙な気持ちになってしまうのだ。








今回は、前回のオンドリの話で多くの方々の涙を誘った「もてすぎるのも困りもの」の前史にあたるものだ。
オンドリの悲哀に満ちた物語はなぜ始まったのか?たくさんの方々から問い合わせが寄せられた。

それじゃ、あまりにもオンドリがあわれだよ、もっとオンドリを増やせばいいではないかと。ぼくもここのところに関しては、ぜひとも書いておかなければと思ってはいたんだ。

さて我が家のニワトリたちは一群が100羽以内で暮らしており、その中に一羽ずつのオンドリがいる。有精卵にするには10羽から20羽に一羽の割合でオンドリを入れなければならないという。ぼくはそのために一つの群れに3〜4羽の割合で飼ったことがあった。

しかし、やがてぼくはそのオンドリを減らさざるをえなくなってしまったのだ。それというのも・・・。

まだ、ニワトリを飼ってまもない頃のことだ。当時導入した15羽ほどのオンドリたちはやがて成長し、トキの声を放ち始めた。朝ならまだいい。彼らは夜中の2時ごろに鳴きだす。それもひんぱんに。鳴き声は夜の静寂を破り、ゆうに2km先までもとどくだろうというほどの大きさ。一羽が鳴き始めると他の者たちも負けずに大声を出す。オンドリたちの夜中の大合唱。
鶏舎の両隣がすぐに民家なのだからたまらない。それが始まると近所に申し訳なくて、申し訳なくて寝てなどいられなかった。

「シーッ静かにしてくれ!頼むからよ。ぼくを困らさないでくれ。」

必死で夜中の鶏舎を走りまわった。こんなことが続くと、小さな物音にも「またか!」と過敏に反応するようになる。寝不足の毎日が続いた。

昼には昼で・・・。
「よしひでー!また騒いでいるぞー。行って見てこい。」両親がたまらずに声を出す。
突然始まる数百羽のメンドリたちのけたたましい鳴き声。何事かと駆けつけてみると原因はオンドリ同士の喧嘩だ。一羽のオンドリが鶏舎の中を逃げ回っている。彼らの中に序列が決まるまで、あるいはメンドリのとりあいなど、争いがたえない。巻き込まれてメンドリたちが騒ぎ出し、鶏舎から鶏舎への大騒ぎとなって伝播していく。こんなことがしょっちゅうだった。これでは玉子を産むメンドリたちの環境にも悪い。

「申し訳ない。何とかしますから」

ぼくは、近所の人たちに頭を下げてまわった。「いいよ。ニワトリのことだもの。」と、みんな笑って許してくれたが、申し訳なさでいっぱいで、ほとほとまいってしまったのだった。
全てを有精卵にするのをあきらめよう。オンドリを減らそう。そうしなければ養鶏は続けられない。そう考え、一群に一羽のオンドリの組み合わせに変えていった。ぼくのニワトリたちが産む有精卵の割合は半分ぐらいだろうか。彼らの騒ぎはずいぶん減って、ぼくや、近所の人はようやく安心できたんだ。

だけどね、ここからオンドリの悲哀に満ちた「人生」が始まったというわけさ。





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