ぼくのニワトリは空を飛ぶー菅野芳秀のブログ

ぼくのニワトリは空を飛ぶー菅野芳秀のブログ
ログイン

積雪は150cmほどになった。昨日、今日は吹雪。玉子を配達しようと車で外に出たが、雪はうなりうをあげてかぶさってくる。雪に襲われている・・そんな感じさえするほどだった。1m先も見えない。こんな時には動いてはだめだ。車を止めておさまるのを待つ。ライトを点けて、オレはここにいるよとアピールしながら。

吹雪のときでもニワトリ達は元気だ。鶏舎は透明のビニールでおおわれていて、お天道様の光は入るが吹雪は入ってこない。一坪に10羽、鶏舎のなかで走ったり、恋をしたり・・と、寒いだろうが、冬に負けることなく春を待っている。

きのうの朝、雪を掻き分け、エサを与えようと鶏舎に近付いていった。するとにぎやかな小鳥たちの声が聞こえてきた。中に入っていくと、おどろいた小鳥達は一斉に鶏舎の中を飛び回る。スズメだ。30〜40羽はいる。ニワトリ達と一緒にエサを食べていた。

別な鶏舎にもそっと行って見る。ここにもスズメ達がきていた。冬以外の季節には、スズメは入ってこない。たとえ来たとしても、ニワトリ達はその侵入者を追い出そうとする。これは何度も見かけたことだ。でも、今は冬、そして外は吹雪。

「大丈夫だ。安心してこごさ居(え)ろ。いっしょに喰うべな。」こんな感じなんだべか。鳥たちの友情。いい光景ですよ。人間的というか、人間の我々がわすれてしまったもの・・・というか。

これがもし、ゲージ(カゴ)飼いの養鶏場ならばどうだろう。ニワトリ達は「おいで、一緒に・・・」というだろうか?たぶんいわないだろう。「ここはやばいぞ。つかまる前に早く逃げ出せ!」たぶんこっちの方だろうなぁ。

 話はわき道にそれるが、実際のところゲージ飼いのニワトリほど不幸な生き物たちはいない。この地球上で一番不幸だと思う。動物園の像だって鎖の長さほどの自由はある。金魚鉢の金魚でさえもっと自由だ。ただ毎日立つか座るか。常に隣人の体温を両脇に感じながら、歩くことも、羽を伸ばすことさえできず、ストレスで自分の羽をむしりながら・・・、毎日、毎日卵を産んでいる。卵はストレスのかたまりだ。どうしてこんな飼い方ができるのか。なぜ平気でこの卵を食べることができるのか。わっからなーい!話が止まらなくなってしまいそう・・・本流にもどそう。

 
我が家のニワトリが「安心して一緒に食べよう」と呼びかけることができるのは(・・と勝手に思っているわけだけど)、自分たちが幸せだからだよね。

 鳥のインフルエンザ対策から言えば、あまりいいことではない。息子も野鳥が入って来ないように、あっちこっちの穴をふさいでいたのだけど・・。でも、いいじゃないか。

ニワトリ達だって、インフルエンザの危険をみんな知りながら、あえて迎え入れているのかもしれないぞ。

だったら・・・・・なっ・・・、いいじゃないか。いいよな。かかったら?そん時はそん時だべぇ。

写真は、外のスモモの木に一旦引き上げて、オレの様子を眺めているスズメたち。小さくてわからないかな。写真をダブルクリックすれば大きく拡大できる。そしたらわかるよ。写真は白黒のように見えますがカラーなのです。

...もっと詳しく




 えーつ、なしてこげに反響あんなだべ?

新年そうそう、びっくりするやら忙しいやら・・・。

 ことの発端はTBSラジオの知人から電話が入ったこと。

「あっ、菅野さん。あのね、久米宏さんの番組に出ていただきたいんですけど。はい、知っているようでよくは知らない職業の人、それも現場で働いている方にお願いして久米さんと対談するという番組なんです。ええ、今までは左官屋さんとか、新幹線の売り子さんとか、さまざまな職種の方々に出ていただいています。農民は初めてです。田んぼやニワトリの話、レインボープランのことなどをざっくばらんにお話していただけませんか?」

番組の名前は「久米宏 ラジオなんですけど」。
赤坂のTBSに出向き、生で話をするということらしい。おっもしろそう!二つ返事でOKした。

「そげな服装で行くのか?それじゃやっぱり百姓だって馬鹿にされっぞ。靴も一番いいもの履いていけ。ひとは足もとをみるんだからな。」さまざまな忠告をする88歳の母親の言葉を背中で聞きながら雪の中を駅にむかう。

 「打ち合わせは別にありません。思うがままに話してください。ただ30分はすぐに終わってしまうので、後でこれを話そうなんて思わずに思いついたらすぐに話したほうがいいですよ。」
TBSで知人の話。なるほどね。
「それに久米さんは、本人以上に相手のことを勉強してこられます。菅野さんの書いた『生ゴミはよみがえる』(講談社)はとっくに読まれていますし、ブログも見ているはずです。でも、対談の場には一切のメモは持ってこられません。しっかり勉強し、後は自然にということでしょう。」
そうか。対談の達人の背後にはたくさんの準備の時間があったのか。

久米さんがはいってきた。オレも立ち上がって握手。「いやー大きいですねぇ。」ま、どなたとあってもまずはここから始まる。黒っぽいセーターに同じようなズボン。普段着っぽいラフな感じ。(母親の助言をいれずによかったよ。)ニコニコ笑いながら話す様子はTVで見るとおりの人だ。

スタジオの中に通される。TVでよく拝見する女子アナの小島慶子さんはオレの隣。久米さんは机を挟んで向かいだ。様子はこんな感じ。
http://www.tbs.co.jp/radio/kume954/guest/index-j.html
(この中のバックナンバーから「菅野芳秀」をみてください。)

 対談はリラックスした雰囲気で続いた。話題を終始リードするのは久米さん。それに応えているうちにオレは気づいたね。この方はオレの3年前のブログの文章まで読んでいる。恐るべし久米宏。

あっという間の30分。終わって一人新宿にでた。そこで電話が鳴る。「何かあったのかい?あなたのブログへのアクセスが1,000を越えたよ。」友人からだ。「えーっ、まさか・・。」別な友人からも「ブログが・・交通事故にでもあったのかい?」
番組ではブログの話は一切しなかった。それでもこの数。尋常ではない。いつもの一日のアクセス数は30から40ぐらいなのだから。それが1000を越えているって!恐るべしラジオ。

家に帰ってきてパソコンを覗く。たくさんのメールが入っていた。
玉子がほしい。食べてみたい。どうしたら手にはいるのか。送ってほしい・・・という問い合わせの数々。すごいことになっている。どうすんべ。

息子が22歳で就農し、自然養鶏の羽数を少し増やしていた。その分の新しい売り先をどうするか、頭を悩ましていたときだったので、グットタイミングではあったのだけれど・・。

一パック送れ。四パック送れ・・・・。いただいたご注文は一様ではない。
近所の魚屋さんから色んな大きさのダンボールをもらってきた。他の農作業の合間をぬって、切ったり、貼ったり、加工したり、新聞紙をつめたり・・・20個、30個・・・と小荷物が出来上がっていく。

1月12日から22日ぐらいまでの10日間は嵐のような日々でした。恐るべしラジオの力。

「 早速昼に皆で生卵かけご飯をいただきました。“美味いッ”と中3の息子と女房、続いて高3の長女。
彼ら曰く、何でも『味の素や鰹節を入れないのに美味いんだよ』との事。
私も食べさせていただきまして率直な感想として今まで食べていた玉子の生臭さと何とも言えぬ食後の胃袋の重たさが感じられなくとにかくおいしいと感じました。」

「私のつれあいは朝の目玉焼きや夕餉のサラダのゆで卵などの黄身を私にくれて自分は白身を食すのです。
その連れ合い曰く
「このたまごならもう黄身をあなたにあげない。
私がいつも卵の黄身を食べられないわけは黄身が脂っぽくてドロッとして重たいからいやだったのです。
このたまごは黄身も白身もさらっとしてさわやかなのでまるで新しいたべもののようです。」
どうやら私と同じ印象だったようです。」(原文のまま)



寄せられたメールの一部です。ありがたいですね。ありがたいですよ。ほんとに。
他にもたくさんいただきました。なんか百姓やっていてよかったな。自然養鶏やっていてよかったよ。そんな気持ちにさせられましたぞ。

今日のブログはいつになく素直な感じでおわります。そうさせてください。
メールから転載させていただいた方には申し訳ありません。お許しください。

スタジオの写真は撮らなかったので、冬の鶏舎の中で野菜を食べるニワトリの様子にしました。



...もっと詳しく




新年明けましておめでとうございます。

元旦の朝、裏山の朝日連峰の裾野に分け入り、

今年も「山の神様」に初詣に行ってまいりました。

“いのちが朽ちて土となる”

土は生きた物達の膨大な蓄積。


終わったいのちたちはことごとく土となり養分となって、

新たないのちに活かされていきます。

いのちのめぐり、いのちの循環。

私が「山の神様」と呼んでいますのは、

この地域のいのちの母体である土と微生物たちのことです。


真っ白い森は、凛とした静寂の中にありました。


今年もよろしくお願いいたします。

...もっと詳しく




 えっ、まだ11月ですよ。こんなに雪が降っていいのかな。20cmは積もった。まだ畑には大根や白菜がある。雪をかぶれば甘くなっておいしいとはいうけれど、収穫作業は大変だ。困った。写真?いま、そんな余裕はありません。とりあえず、車のタイヤをスノウタイヤに変えてきた。明日は玉子の配達日だから。今できることは・・・寝よう。
...もっと詳しく

 何年ぐらい前になろうか・・・僕がまだ洟垂れ小僧だったころのことを思い出す。

 当時はどの家でも、家の中の囲炉裏やかまどで火を炊いてご飯を作っていた。その煙が家々の屋根から立ち上っていく。だから夕方になると村はうっすらと煙でおおわれていた。

 男の子は坊主頭、女の子はおかっぱ。子ども達は風邪をひいているわけではないのに一様に洟を垂らしていた。それも透明なものではなく、白っぽいものだった。その洟をこするため、上着の袖はピカピカに光っていて、遊びのズボンには例外なく膝やお尻にツギがあてられていた。そんな子ども達が村のあちらこちらで歓声をあげながら走りまわっていた。

 村の中にはヤギやニワトリ、牛や馬が飼われていて、夕方になるとエサをねだる鳴き声が聞こえてくる。犬は放し飼いで、自由に歩き回り、恋をしたり、ケンかをしたり・・・、ストレスの少ない犬自身の人生を楽しんでいた。

 そういえばあのころは酔っぱらった村人がよくもたれ合いながら歩いていたっけ。どこかの家で酒をご馳走になり、「今度はだれそれの家に行くべぇ。」「いやいや、おらえさ行くべぇ。」と一升瓶をぶら下げながらふらふらと。村の中のあっちの家、こっちの家、飲みに行くところはたくさんあったのだろう。我が家にもしょっちゅう酒飲みが来ていた。

 こんな光景も思い浮かぶ。ばぁちゃん達の立ち小便。腰巻を前後に広げて、畑の方にお尻を突き出し、両足を広げて「シャーッ」と。小便をしながら道行く人たちと立ち話をしていた。「いまからどこさ行くのや。」「うん、買い物に。お前もえがねがぁ。」「うん、えぐ。」なんてな。そんな光景になんの違和感もなかった。ごく当たり前のことだった。

 お金のかからない、自給自足のくらしだった。モノはないけれど、のどかでのんびりとした時間が流れていた。貧しかったのだろうが、子どもも大人もどこかで将来に「希望」をもっていた。

 それからずいぶんと時が流れた。イガグリ頭やおかっぱの子ども達、洟を垂らして外で歓声をあげて遊ぶ子ども達はいなくなった。ヤギもニワトリも、牛も馬も消えてしまった。村を歩く酔っ払いも、立ち小便のばぁちゃんもいない。

 そしてただむやみに忙しい。子ども達から大人まで、あわただしく暮らしている。村人どうしの関係もずいぶんと希薄になった。大人達の口から希望を語る言葉は聞かれない。モノはたくさんあるけれど、みんな・・・あんまり幸せそうではない。

 おーい!もどってこいよぉー!ヤギもニワトリも、牛も馬も、イガグリ頭やおかっぱの少年少女も・・・酔っ払いも、立ち小便のばぁちゃんもみんな戻ってこい。もう一度やり直さないかぁー!

...もっと詳しく




 26歳で農業に就いたとき、まず当たり前の農民になることが僕の課題だった。6年後、今度は僕らしい農業をつくろうと思い、まず手始めにヤギを飼った。

「これでオレも有畜複合経営の仲間入りだ。」と百姓の友人達に胸をはったのを覚えている。仲間達は軽く笑ったがオレの気分は高揚していた。ぼくはそのヤギにピョンという名前をつけた。

 農作業に出かけていくときはいつもピョンを連れて行った。田んぼでは首にかけた縄を解き、ポンと尻をたたいてやる。ピョンは嬉しそうに駆け出して行く。遠くにいっても呼べば僕をめがけて走ってくる。僕が仕事をしている間、ピョンは草を食いながらのんびりとした時間を過ごしていた。

 お昼が近付き帰る時間になると、ぼくは「ピョン!」と大きな声で呼ぶ。ピョンは思い切りこちらに向かって走ってくる。そしてきまって5mぐらい手前で止まるのだ。いつもここから難儀する。

 ピョンには分かるのだ。自由の時間に終わりが来たことを。
「オイ、帰るぞ。こっちに来い。」
僕が近付けばピョンは離れる。なかなか捕まえることができない。しばしのあれやこれやの駆け引きの後、やがて彼女を捕まえて首に縄をつける。でもこれでひと段落とはいかない。トラクターの荷車の上に乗せるのがまた一苦労。

 ピョンは手にしたしばしの自由を奪われまいと、荷車に乗るのを懸命に拒否する。あわよくば逃げようとさえする。僕に何度も頭突きをかます。蹴りをいれる。

腹へっているのに、くたびれてもいるのにピョンとの格闘はなかなか終わらない。真昼間、広い田んぼのなかでのこと。1m90cmの大男とヤギとのこの模様は遠くからでもよく見える。恥ずかしいし、あせりもする。でもピョンはそんなことはお構いなしに執拗に抵抗し続けるのだ。

 オレはピョンのこの抗い続ける姿勢が好きだ。

いくら家畜に身をやつしていても、手にした自由を制限しようとする者には全力で抵抗し続ける。相手はいつも「えさ」を与えてくれる人であっても、たとえそれがとてもかないそうにない大男であったとしても、である。

「妥協はできない。絶対にゆずれない。」

いつも、いつも、あきらめることなくそう思っていたのだろう。ピョン、お前はたいしたもんだ。

 さて、ヤギのピョンの話はこれで終わりだ。ところで話は変わって、オレ達のことなんだけどな・・・頭突きの話だよ、オレタチノ。いっぱい飲みながら話そうか。







稲刈りはもうじき終わります。
それでも農繁期はしばらく続きますが
ブログに向き合える日はもうすぐです。
もちょっと、お待ち下さい。
今日もくったびれたぁー。
...もっと詳しく

我が家の前に広がる水田はおよそ800ha。見わたす限りが田んぼだ。その田んぼ、ちょっと前までは、一面むせかえるような緑だった。今は急速に黄色へと変わりつつある。秋が来たのですねぇ。

 白になって、緑になって、黄色になって、白になるものな〜んだ?答は田んぼ。
 じゃ、白になって、青になって、赤くなって、白になるものは?答は山。
風景の支配的な色が変わるとき、子どもを相手にこんな「なぞなぞ」を出していた。じっさい、季節の変化に合わせて、前に広がるだだっ広い水田と後ろに横たわる朝日連峰が、広大なスケールでその色合いを変えていく。

そんな中に入っていると「オレの年収は同世代のサラリーマンの1/3にもみたないけど・・・まぁいいかぁ。」こんなおおらかな気分になっていくんですねえ。

でな、季節の変化にともなって音も変わっていくんだよ。田んぼを中心に振り返ってみると・・・春、雪解け水が用水路を流れ始める音。とどろくトラクターの音。「ちょろちょろ」と田んぼに水が入る音。かえるたちの大合唱。夏、せみたちの鳴き声。田んぼを渡る風がサラサラと硬質の音を出すようになれば稲刈りの季節、秋だ。

 白いお米は、それらの音を吸い込んで成長する。ふくらんだお米は、ふるさとの音のパッケージ。パキッと割って耳元に持っていってごらん。カエルやセミの声が聞こえるぞ、なんてね。(ここのあたりがちょっとはずかしい)

 もうじき稲刈りだ。今年、2.2haの僕の田んぼには殺菌剤、殺虫剤を使用しなかった。お盆のころまでは順調に成育してきたのだが、その後、急速に「いもち病」がでてきた。これはカビが作り出す病気で、高温多湿の気候が続くと発生する。それにかかると稲は成長途中で枯れていく。

 堆肥を多く入れすぎたのかな。肥満した人がどちらかといえば病気にかかりやすいように、稲も栄養過多は病気に弱くなる。春先の堆肥散布のときはその辺を考えながら施したのだが・・・。

 農協の技術指導員は「農薬を制限した人や使わなかった人にずいぶん被害が出ているよ。」と教えてくれた。
 「当たり前に農薬をかけておけばいいものを。」まわりからこんな声が聞こえてきそうだ。いもち病にかかった田んぼを前に、環境や食の安全性を説いてもほとんど説得力がない。農薬を制限してお米を作る運動全体が笑われているようでとても辛い。

 被害を補償する「農業共済制度」というのがあるが、それに該当するには、共済組合に被害届を出して、幾人かの農民評価員に見てもらわなければならない。彼らは田んぼをくまなく診て回りながら評価を下す。その間中、ぼくはさらし者になっている気分になる。被害届け、出すのは止めようかな。なーに、その分、酒を制限・・・無理かな。

 全部の田んぼに被害がでたわけではない。また、LLの網目を通っていくおコメしか発送しないので、病気にかかって未熟に終わったお米は消費者に届くわけではない。発送するのは健康なお米だけだ。消費者には迷惑をかけないが・・それでも悔いが残る今年の米作りとなった。

 白になって、緑になって・・・なんて言っている場合じゃないよなぁ。
 
 
 

...もっと詳しく




いきなりで申し訳ないが、WTOは人々を幸せにはしない。それは分かっていた。

でも、その上でどうするんだ?どんな社会や暮らしを作っていくんだい?問われていたのはそこである。

私がかかわっている地域づくりの中にもその問題意識が常にあった。嘆き節ではなく、批判にとどまるのでもなく、もう一つの社会や人々のつながりを育む。こんなことを常に念頭に置きながら取り組んできた。

3月の14日から8日間、AFEC(アジア農民交流センター)主催の農民交流の旅に参加してきた。ここでは詳しい事情説明は割愛するが、タイ・イサーンでも、日本とは違う困難のなかにあって、「造りだす」、「産み出そう」とする多くの人たちに出会えた。嬉しかったし、力をもらえた。「タイ東北農民の旅」のおもしろさ、醍醐味はここにある。

「むらとまちを結ぶ市場」、「共同農場」、「100年の森構想」に「タイ・レインボープラン」・・・。これらは、世間的に見ればとるに足らないぐらいに小さいものだろう。しかし個人的実感からいえば、巨大なWTOの中に芽生えた希望だ。
(これらの事業については改めて報告しましょう。)

それらの事業は「充足経済」「足るを知るくらし」の考え方と対になっていて、足腰の強さを感じた。しかしすんなりとはいかないだろう。それは我々とておなじ。どんな壁にぶつかり、どう克服してきたのか。これらはこれからの交流の中心課題になっていくだろう。

体調不良の中、ヘロヘロになりながらの八日間だった。仲間たちには心配かけたが、もう完全復活。農作業にまちづくりにと、真っ黒になりながら走り回っているよ。

==================================

以上は、AFECの機関誌「百姓は越境する」に、800字の制限で書いたものですが、何のことやら・・何を言いたいんだい?、今までとは勝手が違うんでないか?・・でしょう。

近いうちにもう少し詳しく、経過を含めて報告したいと思います。



 「僕のニワトリは空を飛ぶ」の24話に同じ題名の文章がありますが、今回は本筋は一緒ですが、中味はちょっとだけ変えています。以前のものを読まれていない方はどうぞお読み下さい。前のものは読んだよという方は、新しいものはもう少しすればでますので、おまちください。

      <土を喰う話> 

 我が家には約1、000羽のニワトリたちがいる。彼らは四面金網の開放鶏舎で暮らしているが、ローテーションに従って三日に一度は外にでる。
 外では太陽の陽射しを受けながらのんびりと羽を伸ばし、かけっこをしたり、虫を追いかけたり、草を食べたりして暮らす。時には柵を乗り越え、畑の方にも入り込んできて自給の野菜を食べつくしてしまうこともあるが、ま、愛嬌だ。そんな彼らのくらしを眺めていると、私の気持ちものびやかに解きほぐされていくように思える。

 ニワトリ達は土が大好きだ。鶏舎の外に出されたときは例外なく土をついばむ。砂浴びといって、パッパッと土を全身にかける。ニワトリのくらしそのものが土と一体だ。

 ところで土と一体であるという点では、作物もそれを食べている人間も一緒だ。
作物は言うまでもなく土の産物であり、よってその育った場所の土の影響を全面的に受ける。私がそういうのは、必ずしもかつて理科で習ったようなことについてだけではない。
 以前、山形県でキュウリの中からおよそ40年前に使用禁止となった農薬の成分が出て問題になったことがあった。40年経っても土の中に分解されずにあったのだろう。そこにキュウリの苗が植えられて、実がつきふくらんで、汚染されたキュウリができたというわけだ。お米からカドニュウムがでたこともある。

 作物が土の中から吸収するものは養分、水分だけではない。良いものも悪いものも、可能なもののすべてを吸い込み、実や葉に蓄える。

土を喰う。そう、私たちは作物を食べながら、その育った所の土を喰っているといえる。

 スイカを食べながらスイカの、かぼちゃを食べながらかぼちゃの・・・それらの味と香りにのせて、周辺の土を食っているというわけだ。
汚染を土から吸収した作物は、洗ったって、皮をむいたってどうなるものではない。何しろ身ぐるみ、丸ごとなんだから。

 作物を通して私たちは密接不可分に土と結びついている。私たちの身体は土から組み立てられ、土から食べ物をいただき・・さながら土の化身だ。どんな動物も、植物も汚染された土を喰っては生きられない。

 食を問うなら土から問え。いのちを語るなら土から語れ。健康を願うなら土から正そう。そしてくらしはきれいな土の上に、である。生きて行くおおもとに土がある。
そうゆうことだと思うのだが、どんなもんだべ?ご同輩。

...もっと詳しく




田植えが終わってほぼ一ヶ月。サクランボはひどい不作だ。暖冬と寒い春が影響したらしい。米はどうなるだろうか。いまのところ順調に成育しているが、世界的に穀物が高騰している。環境異変やバイオエネルギーへの転用などでトウモロコシが値上がりし、そのあおりを受けて大豆も高騰。消費数量の確保は大丈夫なんだろうか?この上に今年、国内の米が不作だったらどうなるだろう?日本人、パニックにならなければいいが・・・。

ところで、アクシデントがありましたよ。自然養鶏30年の僕でも初めて遭遇した出来事でした。それは・・ま、ゆっくりお付き合いください。
以下・・・

ニワトリを飼っている。その数1000羽。彼らは昼、ローテーションに従って外で遊び、草を食み、虫を追いかけ、夜は四面金網の鶏舎の中に入って休む。私はできる限り自然に近づけて飼うように心がけてきた。健康な玉子を得たいためだ。

 自然に近づけて飼う養鶏は、自然の方からも近付きやすいのだろう、これまでも何回か「けもの」の襲来を受けてきた。その一番はタヌキ。「ぼくのニワトリは空を飛ぶ」のバックナンバー第一号にその顛末気を書いている。タヌキをひっぱたいて帰してやることで、あそこには行くな、やばいぞという仲間へのPR効果をねらったのだったが、その期待もむなしく、奴は繰り返しやってきてはニワトリを食べていった。捕まえてお灸をすえること三度。それでも懲りずにやってくる。もうたまらない。戦略を変え、車に積んで遠くの山に放逐してきたのだった。それからしばらく静かな日々が続いていた。

 早朝、まだ薄暗い時刻、奴は突然やってきた。大騒ぎするニワトリたち。フトンからガバッと飛び起きて懐中電灯片手に鶏舎に走る。しかし既にやられた後だった。金網を噛み破り、押し広げて侵入した跡がある。タヌキの場合は穴を掘って侵入してくる。被害にあうニワトリは一回に一羽。しかしこの被害は明らかに違う。鶏舎の周りに10羽前後のニワトリが散らばっていた。タヌキの仕業ではない。もっと、どう猛で、力のある「けもの」だ。一週間に一度ぐらいの割合でニワトリ達は大きく騒ぎ、何度かやられた。すでに被害は30羽近くになっていた。

 ようし、来るなら来てみろ。罠を仕掛けて待った。数日たって、早朝、奴がやってきた。ニワトリ達が騒いでいる。鶏舎に向かって走っていった。まだ薄暗い鶏舎の外を、見たことのない「けもの」がぴょこぴょこと罠を引きずりながら逃げていく。奴だ。逃がしてたまるか。ようやく追いつく。「バシッ、バシッ」思い切りひっぱたいた。倒れた「けもの」をまじまじと眺めた。何だこれは・・・。大きさは中型犬ぐらいか。尻尾をいれなくても頭からお尻までで70cmぐらいはある。大きい。色はベージュに灰色が入っている。足が長いので犬とは違う。これは何だ?キツネか?キツネだ。動物園以外で見るのは始めてだ。なおも逃げようとするので、罠がらみ杭を打って固定した。
 
側によっても、奴は観念したようにじっとしている。歯をむき出して威嚇するタヌキや猫とはえらい違いだ。どうしよう。捕まえては見たものの始末に困った。

そういえば昨日、両親は「お稲荷様」におまいりに行ってきたばかりだ。このままやっつけてしまったのでは親不孝者の批難を浴びかねまい。

「そんなもの同情してはだめだ。逃がしたとしても、またやってきてニワトリを殺すぞ。」朝、話を聞いた両親は、お稲荷様に行ってきたばかりとは思えない言葉を放つ。

タヌキの場合は、ひっぱたいても、ひっぱたいてもやってきた。たぶん、PR効果はゼロだった。古来、キツネはタヌキよりも賢いという。PR効果を期待できるかもしれないが、逆に罠にかからないようにして、上手に目的を達成する事だってありうるだろう。

結局、これもひっぱたいて遠くの山に放逐してきた。それからほぼ二週間。まだ新たな被害はでていない。

でもなぁ。タヌキもキツネも必死なんだよな。生きるために必死、食べるために必死。いのちがけなんだ。自然はみなそうだ。動物だけでなく植物もぜーんぶそうだ。生きるために、山の木々も、道端のくさ草も、その辺の虫もみんな必死で命がけ。例のタヌキ、ケツをひっぱたかれたぐらいで、再びやってこなくなることを期待したオレの方がオオアマだったのかもしれない。今はそう思っている。

そこでな。とってつけたようだけど、オレ思うんだ。人間も食い物がなくなればいつだってタヌキやキツネになるだろうって。なにしろ自給率は北朝鮮の半分なのだから。

 食べ物に囲まれている農家は格好の標的になるだろう。田畑の作物を守ろうとしても危なくて近づけない。そうなれば終わりだよな。世も末だ。そうなっても、オレんとこには来るなよな。


...もっと詳しく




 タイから帰ってきました。元気です。さっそくそのおもしろかった報告をやろうと思っていたのですが、他方でレインボープランについての文章依頼の締め切りが迫っていて、まずそれにかかりました。「玉子を売る」も中途ですが、ま、おいおいやっていきます。

A、生ごみ堆肥化に取り組む背景

山形県長井市では、レインボープランという名の、生ゴミと健康な
農作物が地域のなかで循環するまちづくりに取り組んでいます。この事
業が生まれた背景は大きく分けて二つです。

一つは「土の力の衰え」です。日本の農業が生産性と効率性を優先し、化学肥料と農薬を中心とした農法に変わってからずいぶんたちました。その結果、ある程度生産力は増大しましたが、他方でいのちを育む土の力の衰えや、作物汚染への不安が増大してきました。
土の回復には堆肥が必要です。すべてはここから始まります。その堆肥原料として、これまで役に立たない物として燃やされていた、まちの台所の生ゴミに着目しました。

 二つ目には「食への不安」です。地元の作物は遠くの大消費地を目指し、わが町のスーパーには大消費地からの転送品が並んでいました。同じものが地元でもとれるのに。市民の中に、新鮮で安心できる地元の作物がほしいという気持ちが高まっていました。
 この二つの背景を受けて、まちが堆肥を作り、村が作物をつくる、循環のまちづくりが動き出しました。

B、市民主体のまちづくり

レインボープランは行政主導ではなくあくまで市民主体の事業として成長してきました。
 2,3人の市民から始まった呼びかけに各界、各層の人たちが次々に応え、事業の調査検討に向けた受け皿が形成されました。そのもとに行政やJAが参加し、市民と行政のイコールの関係が形成され、地域が動き、地域が少しずつ変化しながら今日に至る。こんな過程を歩んできたのです。レインボープランは市民(住民)運動への行政(からの)参加と言われる所以です。

このような過程を歩むにあたって、女性の働き、その発言はとても大きな力をもっていました。当時、女性たちの中心になって活躍した方は、「単純なゴミ処理ではなく、自分たちの口に入るものに台所から参加する、そんなプランだから一生懸命になれたのだ。」といいます。

プランの趣旨をきちんと理解したこと、その上で、話し合いに充分な時間をかけたこと、行政がそれを粘り強くまったこと、これらが女性を始めとする市民パワーの盛り上がりの背景にあると思います。

C、土はいのちのみなもと

「土はいのちの源」という考え方こそ、この事業の核心です。生ゴミの堆肥化事業の中にこの考え方がなければ、それは単なるゴミ処理でしかありません。「使い捨て社会」の延命策として、いのちの場である田畑をゴミ捨て場にする、そんな事業になってしまいます。

 私たちが目指すのは、そういうことではありません。生ゴミを分別することから始まる、まちの台所からの土、農、食への参加です。消費が単なる消費に終わるのではなく、生産の場に戻り、いのちの場に参加していこうとする、土を基礎とした循環型社会への合流なのです。「ゴミ捨て」か、消費の現場から土とのいのちの関係を築こうとする事業か。この二つの流れを分かつものこそ「土はいのちの源」という理念であり、私たちの生命線ともいうべき考え方なのです。
 

(注)レインボープランとは;
山形県長井市で始まった台所の生ゴミを活用するまちづくり。市街地に住む5,000世帯の生ゴミを堆肥原料として集め、できた堆肥を活用して作物をつくり、その作物を再びまちの台所で消費しようという循環の事業。