ぼくのニワトリは空を飛ぶー菅野芳秀のブログ

ぼくのニワトリは空を飛ぶー菅野芳秀のブログ
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我が家の前に広がる水田はおよそ800ha。見わたす限りが田んぼだ。その田んぼ、ちょっと前までは、一面むせかえるような緑だった。今は急速に黄色へと変わりつつある。秋が来たのですねぇ。

 白になって、緑になって、黄色になって、白になるものな〜んだ?答は田んぼ。
 じゃ、白になって、青になって、赤くなって、白になるものは?答は山。
風景の支配的な色が変わるとき、子どもを相手にこんな「なぞなぞ」を出していた。じっさい、季節の変化に合わせて、前に広がるだだっ広い水田と後ろに横たわる朝日連峰が、広大なスケールでその色合いを変えていく。

そんな中に入っていると「オレの年収は同世代のサラリーマンの1/3にもみたないけど・・・まぁいいかぁ。」こんなおおらかな気分になっていくんですねえ。

でな、季節の変化にともなって音も変わっていくんだよ。田んぼを中心に振り返ってみると・・・春、雪解け水が用水路を流れ始める音。とどろくトラクターの音。「ちょろちょろ」と田んぼに水が入る音。かえるたちの大合唱。夏、せみたちの鳴き声。田んぼを渡る風がサラサラと硬質の音を出すようになれば稲刈りの季節、秋だ。

 白いお米は、それらの音を吸い込んで成長する。ふくらんだお米は、ふるさとの音のパッケージ。パキッと割って耳元に持っていってごらん。カエルやセミの声が聞こえるぞ、なんてね。(ここのあたりがちょっとはずかしい)

 もうじき稲刈りだ。今年、2.2haの僕の田んぼには殺菌剤、殺虫剤を使用しなかった。お盆のころまでは順調に成育してきたのだが、その後、急速に「いもち病」がでてきた。これはカビが作り出す病気で、高温多湿の気候が続くと発生する。それにかかると稲は成長途中で枯れていく。

 堆肥を多く入れすぎたのかな。肥満した人がどちらかといえば病気にかかりやすいように、稲も栄養過多は病気に弱くなる。春先の堆肥散布のときはその辺を考えながら施したのだが・・・。

 農協の技術指導員は「農薬を制限した人や使わなかった人にずいぶん被害が出ているよ。」と教えてくれた。
 「当たり前に農薬をかけておけばいいものを。」まわりからこんな声が聞こえてきそうだ。いもち病にかかった田んぼを前に、環境や食の安全性を説いてもほとんど説得力がない。農薬を制限してお米を作る運動全体が笑われているようでとても辛い。

 被害を補償する「農業共済制度」というのがあるが、それに該当するには、共済組合に被害届を出して、幾人かの農民評価員に見てもらわなければならない。彼らは田んぼをくまなく診て回りながら評価を下す。その間中、ぼくはさらし者になっている気分になる。被害届け、出すのは止めようかな。なーに、その分、酒を制限・・・無理かな。

 全部の田んぼに被害がでたわけではない。また、LLの網目を通っていくおコメしか発送しないので、病気にかかって未熟に終わったお米は消費者に届くわけではない。発送するのは健康なお米だけだ。消費者には迷惑をかけないが・・それでも悔いが残る今年の米作りとなった。

 白になって、緑になって・・・なんて言っている場合じゃないよなぁ。
 
 
 

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いきなりで申し訳ないが、WTOは人々を幸せにはしない。それは分かっていた。

でも、その上でどうするんだ?どんな社会や暮らしを作っていくんだい?問われていたのはそこである。

私がかかわっている地域づくりの中にもその問題意識が常にあった。嘆き節ではなく、批判にとどまるのでもなく、もう一つの社会や人々のつながりを育む。こんなことを常に念頭に置きながら取り組んできた。

3月の14日から8日間、AFEC(アジア農民交流センター)主催の農民交流の旅に参加してきた。ここでは詳しい事情説明は割愛するが、タイ・イサーンでも、日本とは違う困難のなかにあって、「造りだす」、「産み出そう」とする多くの人たちに出会えた。嬉しかったし、力をもらえた。「タイ東北農民の旅」のおもしろさ、醍醐味はここにある。

「むらとまちを結ぶ市場」、「共同農場」、「100年の森構想」に「タイ・レインボープラン」・・・。これらは、世間的に見ればとるに足らないぐらいに小さいものだろう。しかし個人的実感からいえば、巨大なWTOの中に芽生えた希望だ。
(これらの事業については改めて報告しましょう。)

それらの事業は「充足経済」「足るを知るくらし」の考え方と対になっていて、足腰の強さを感じた。しかしすんなりとはいかないだろう。それは我々とておなじ。どんな壁にぶつかり、どう克服してきたのか。これらはこれからの交流の中心課題になっていくだろう。

体調不良の中、ヘロヘロになりながらの八日間だった。仲間たちには心配かけたが、もう完全復活。農作業にまちづくりにと、真っ黒になりながら走り回っているよ。

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以上は、AFECの機関誌「百姓は越境する」に、800字の制限で書いたものですが、何のことやら・・何を言いたいんだい?、今までとは勝手が違うんでないか?・・でしょう。

近いうちにもう少し詳しく、経過を含めて報告したいと思います。



 「僕のニワトリは空を飛ぶ」の24話に同じ題名の文章がありますが、今回は本筋は一緒ですが、中味はちょっとだけ変えています。以前のものを読まれていない方はどうぞお読み下さい。前のものは読んだよという方は、新しいものはもう少しすればでますので、おまちください。

      <土を喰う話> 

 我が家には約1、000羽のニワトリたちがいる。彼らは四面金網の開放鶏舎で暮らしているが、ローテーションに従って三日に一度は外にでる。
 外では太陽の陽射しを受けながらのんびりと羽を伸ばし、かけっこをしたり、虫を追いかけたり、草を食べたりして暮らす。時には柵を乗り越え、畑の方にも入り込んできて自給の野菜を食べつくしてしまうこともあるが、ま、愛嬌だ。そんな彼らのくらしを眺めていると、私の気持ちものびやかに解きほぐされていくように思える。

 ニワトリ達は土が大好きだ。鶏舎の外に出されたときは例外なく土をついばむ。砂浴びといって、パッパッと土を全身にかける。ニワトリのくらしそのものが土と一体だ。

 ところで土と一体であるという点では、作物もそれを食べている人間も一緒だ。
作物は言うまでもなく土の産物であり、よってその育った場所の土の影響を全面的に受ける。私がそういうのは、必ずしもかつて理科で習ったようなことについてだけではない。
 以前、山形県でキュウリの中からおよそ40年前に使用禁止となった農薬の成分が出て問題になったことがあった。40年経っても土の中に分解されずにあったのだろう。そこにキュウリの苗が植えられて、実がつきふくらんで、汚染されたキュウリができたというわけだ。お米からカドニュウムがでたこともある。

 作物が土の中から吸収するものは養分、水分だけではない。良いものも悪いものも、可能なもののすべてを吸い込み、実や葉に蓄える。

土を喰う。そう、私たちは作物を食べながら、その育った所の土を喰っているといえる。

 スイカを食べながらスイカの、かぼちゃを食べながらかぼちゃの・・・それらの味と香りにのせて、周辺の土を食っているというわけだ。
汚染を土から吸収した作物は、洗ったって、皮をむいたってどうなるものではない。何しろ身ぐるみ、丸ごとなんだから。

 作物を通して私たちは密接不可分に土と結びついている。私たちの身体は土から組み立てられ、土から食べ物をいただき・・さながら土の化身だ。どんな動物も、植物も汚染された土を喰っては生きられない。

 食を問うなら土から問え。いのちを語るなら土から語れ。健康を願うなら土から正そう。そしてくらしはきれいな土の上に、である。生きて行くおおもとに土がある。
そうゆうことだと思うのだが、どんなもんだべ?ご同輩。

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田植えが終わってほぼ一ヶ月。サクランボはひどい不作だ。暖冬と寒い春が影響したらしい。米はどうなるだろうか。いまのところ順調に成育しているが、世界的に穀物が高騰している。環境異変やバイオエネルギーへの転用などでトウモロコシが値上がりし、そのあおりを受けて大豆も高騰。消費数量の確保は大丈夫なんだろうか?この上に今年、国内の米が不作だったらどうなるだろう?日本人、パニックにならなければいいが・・・。

ところで、アクシデントがありましたよ。自然養鶏30年の僕でも初めて遭遇した出来事でした。それは・・ま、ゆっくりお付き合いください。
以下・・・

ニワトリを飼っている。その数1000羽。彼らは昼、ローテーションに従って外で遊び、草を食み、虫を追いかけ、夜は四面金網の鶏舎の中に入って休む。私はできる限り自然に近づけて飼うように心がけてきた。健康な玉子を得たいためだ。

 自然に近づけて飼う養鶏は、自然の方からも近付きやすいのだろう、これまでも何回か「けもの」の襲来を受けてきた。その一番はタヌキ。「ぼくのニワトリは空を飛ぶ」のバックナンバー第一号にその顛末気を書いている。タヌキをひっぱたいて帰してやることで、あそこには行くな、やばいぞという仲間へのPR効果をねらったのだったが、その期待もむなしく、奴は繰り返しやってきてはニワトリを食べていった。捕まえてお灸をすえること三度。それでも懲りずにやってくる。もうたまらない。戦略を変え、車に積んで遠くの山に放逐してきたのだった。それからしばらく静かな日々が続いていた。

 早朝、まだ薄暗い時刻、奴は突然やってきた。大騒ぎするニワトリたち。フトンからガバッと飛び起きて懐中電灯片手に鶏舎に走る。しかし既にやられた後だった。金網を噛み破り、押し広げて侵入した跡がある。タヌキの場合は穴を掘って侵入してくる。被害にあうニワトリは一回に一羽。しかしこの被害は明らかに違う。鶏舎の周りに10羽前後のニワトリが散らばっていた。タヌキの仕業ではない。もっと、どう猛で、力のある「けもの」だ。一週間に一度ぐらいの割合でニワトリ達は大きく騒ぎ、何度かやられた。すでに被害は30羽近くになっていた。

 ようし、来るなら来てみろ。罠を仕掛けて待った。数日たって、早朝、奴がやってきた。ニワトリ達が騒いでいる。鶏舎に向かって走っていった。まだ薄暗い鶏舎の外を、見たことのない「けもの」がぴょこぴょこと罠を引きずりながら逃げていく。奴だ。逃がしてたまるか。ようやく追いつく。「バシッ、バシッ」思い切りひっぱたいた。倒れた「けもの」をまじまじと眺めた。何だこれは・・・。大きさは中型犬ぐらいか。尻尾をいれなくても頭からお尻までで70cmぐらいはある。大きい。色はベージュに灰色が入っている。足が長いので犬とは違う。これは何だ?キツネか?キツネだ。動物園以外で見るのは始めてだ。なおも逃げようとするので、罠がらみ杭を打って固定した。
 
側によっても、奴は観念したようにじっとしている。歯をむき出して威嚇するタヌキや猫とはえらい違いだ。どうしよう。捕まえては見たものの始末に困った。

そういえば昨日、両親は「お稲荷様」におまいりに行ってきたばかりだ。このままやっつけてしまったのでは親不孝者の批難を浴びかねまい。

「そんなもの同情してはだめだ。逃がしたとしても、またやってきてニワトリを殺すぞ。」朝、話を聞いた両親は、お稲荷様に行ってきたばかりとは思えない言葉を放つ。

タヌキの場合は、ひっぱたいても、ひっぱたいてもやってきた。たぶん、PR効果はゼロだった。古来、キツネはタヌキよりも賢いという。PR効果を期待できるかもしれないが、逆に罠にかからないようにして、上手に目的を達成する事だってありうるだろう。

結局、これもひっぱたいて遠くの山に放逐してきた。それからほぼ二週間。まだ新たな被害はでていない。

でもなぁ。タヌキもキツネも必死なんだよな。生きるために必死、食べるために必死。いのちがけなんだ。自然はみなそうだ。動物だけでなく植物もぜーんぶそうだ。生きるために、山の木々も、道端のくさ草も、その辺の虫もみんな必死で命がけ。例のタヌキ、ケツをひっぱたかれたぐらいで、再びやってこなくなることを期待したオレの方がオオアマだったのかもしれない。今はそう思っている。

そこでな。とってつけたようだけど、オレ思うんだ。人間も食い物がなくなればいつだってタヌキやキツネになるだろうって。なにしろ自給率は北朝鮮の半分なのだから。

 食べ物に囲まれている農家は格好の標的になるだろう。田畑の作物を守ろうとしても危なくて近づけない。そうなれば終わりだよな。世も末だ。そうなっても、オレんとこには来るなよな。


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 タイから帰ってきました。元気です。さっそくそのおもしろかった報告をやろうと思っていたのですが、他方でレインボープランについての文章依頼の締め切りが迫っていて、まずそれにかかりました。「玉子を売る」も中途ですが、ま、おいおいやっていきます。

A、生ごみ堆肥化に取り組む背景

山形県長井市では、レインボープランという名の、生ゴミと健康な
農作物が地域のなかで循環するまちづくりに取り組んでいます。この事
業が生まれた背景は大きく分けて二つです。

一つは「土の力の衰え」です。日本の農業が生産性と効率性を優先し、化学肥料と農薬を中心とした農法に変わってからずいぶんたちました。その結果、ある程度生産力は増大しましたが、他方でいのちを育む土の力の衰えや、作物汚染への不安が増大してきました。
土の回復には堆肥が必要です。すべてはここから始まります。その堆肥原料として、これまで役に立たない物として燃やされていた、まちの台所の生ゴミに着目しました。

 二つ目には「食への不安」です。地元の作物は遠くの大消費地を目指し、わが町のスーパーには大消費地からの転送品が並んでいました。同じものが地元でもとれるのに。市民の中に、新鮮で安心できる地元の作物がほしいという気持ちが高まっていました。
 この二つの背景を受けて、まちが堆肥を作り、村が作物をつくる、循環のまちづくりが動き出しました。

B、市民主体のまちづくり

レインボープランは行政主導ではなくあくまで市民主体の事業として成長してきました。
 2,3人の市民から始まった呼びかけに各界、各層の人たちが次々に応え、事業の調査検討に向けた受け皿が形成されました。そのもとに行政やJAが参加し、市民と行政のイコールの関係が形成され、地域が動き、地域が少しずつ変化しながら今日に至る。こんな過程を歩んできたのです。レインボープランは市民(住民)運動への行政(からの)参加と言われる所以です。

このような過程を歩むにあたって、女性の働き、その発言はとても大きな力をもっていました。当時、女性たちの中心になって活躍した方は、「単純なゴミ処理ではなく、自分たちの口に入るものに台所から参加する、そんなプランだから一生懸命になれたのだ。」といいます。

プランの趣旨をきちんと理解したこと、その上で、話し合いに充分な時間をかけたこと、行政がそれを粘り強くまったこと、これらが女性を始めとする市民パワーの盛り上がりの背景にあると思います。

C、土はいのちのみなもと

「土はいのちの源」という考え方こそ、この事業の核心です。生ゴミの堆肥化事業の中にこの考え方がなければ、それは単なるゴミ処理でしかありません。「使い捨て社会」の延命策として、いのちの場である田畑をゴミ捨て場にする、そんな事業になってしまいます。

 私たちが目指すのは、そういうことではありません。生ゴミを分別することから始まる、まちの台所からの土、農、食への参加です。消費が単なる消費に終わるのではなく、生産の場に戻り、いのちの場に参加していこうとする、土を基礎とした循環型社会への合流なのです。「ゴミ捨て」か、消費の現場から土とのいのちの関係を築こうとする事業か。この二つの流れを分かつものこそ「土はいのちの源」という理念であり、私たちの生命線ともいうべき考え方なのです。
 

(注)レインボープランとは;
山形県長井市で始まった台所の生ゴミを活用するまちづくり。市街地に住む5,000世帯の生ゴミを堆肥原料として集め、できた堆肥を活用して作物をつくり、その作物を再びまちの台所で消費しようという循環の事業。




 
タイにいってきます。

期間は今日(3/15)から22日まで。
アジア農民交流センターの事業です。
アジア農民交流センターとは下のアドレスを検索してもらえば分かります。

http://afec.hp.infoseek.co.jp/books.htm

村から村へ、地元の住民、農民とともに、リュックを背負って訪ね、交流して歩く旅。宿泊場所も半分は農家です。

タイの二つの市で「レインボープラン」への取り組みが始まっています。
これは、長い日本ータイ農民の交流の成果です。

ODAでなく、一時的な「支援」活動でもなく、それぞれがそれぞれの地域の
生活者として、それぞれの地域に主体的、自発的にかかわって行く。そんな経験交流の中から生まれた「レインボープラン」です。

これは同時に、国境を越えて交わされる農民、住民の交流事業を我がことのように取り組んでくれた多くの個人、団体の成果でもあります。

今日から始まる旅に、色んなジャンルから20名ほどの方々が参加されます。
さまざまな厚みのある課題の交流が行なわれるでしょう。
タイで待つ、友人達の顔が思い浮かびます。

この場での報告をお待ち下さい。



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かるーいお茶のみ話です。ぼくの文章はどれをとってもそんなモンなんですが、これは特にそう。申告のための作業が終わってほっとしていたら、ふっと、書きたくなっただけなんです。「ほっと」で「ふっと」なんですよ、あくまで。誰にでもある青春時代の・・・。
 
早朝の4時、18歳の私は、自転車に270部ほどの新聞を積み、まだ暗い東京の住宅街を走っていた。途中で自転車を止め、新聞を一抱え持っては路地を抜け、階段をかけ上がり、ハッハッハッと息をはずませ、配ってまわる。まだ日が昇らない暗い家並みのなかに「沈丁花」の香りが漂っていた。

 朝刊と夕刊の間に大学に通い、日曜日は集金で終わるそんな日々の始まり。新聞店の二階の作業所に作られた二段ベットのひとつがぼくの部屋。作業所とはカーテンで仕切られた一畳半のなかに小さな机をおいて本を読み、その下に足を突っ込んで寝る。汚れた窓を開ければ、隣の飲み屋の排気口があって、たえず、焼き鳥の黒い煙を吐き出していた。

 それでも東京のひとつひとつの風景が面白く、出会う人それぞれが新鮮に思え、決してつらくはなかった。なによりも、ここからぼくの人生が始まっていくのだと、「青雲のこころざし」に燃えていたのだから。 

 すでに兄を私大に送っていた我が家の家計はきびしく、どう考えても大学への道は閉ざされていた。そもそも高校を卒業すれば農家を継ぐ、それが普通高校に通う条件となっていて、進学は高校入学の時からあきらめざるを得ないとおもっていた。

 そんなぼくにも大学への道があるのだと、小躍りするような世界に出会えたのは、もうじき高校三年生という年の三月だった。なにげなく新聞をめくっていたぼくの目に、「朝日新聞奨学生募集」という囲み記事が飛び込んできた。そこには授業料、初年度納入金、衣食住など、大学に通う上で必要なほとんどのものが補償されると書かれていた。条件は東京での新聞配達。大学に行けるかもしれない!

 ぼくは高校一年からの勉強をやり直した。浪人する余裕はなく、時間が足りない・・・。どうせ農業だからと、それまでほとんど使わずにさび付いていたぼくの記憶装置は、ぎしぎしいいながら動き出した。

 今年も「沈丁花」がその甘い香りを放ち始めている。その香りのなかでぼくは40年前の「春」を思い出す。

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もう少しの間お待ち下さい。
ただいま申告のために、伝票を整理したり、領収書をあつめたり・・格闘中です。

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1983年の冬、最初に導入した160羽のニワトリたちが少しずつ玉子を産み始めたころ、ぼくは三日後に予定していた「玉子の試食説明会」のチラシを持って町に出て行った。
 それまでにずいぶんとチラシを作ってはまいてきたけれど、自分自身の為にまくのは初めての経験だ。
 行きつけの床屋さん宅前を会場として借り、周囲100軒ほどの住宅にチラシをまいて歩いた。妻は
「まだ160羽のニワトリしかいないし、100軒もまいたら注文に応じ切れなくなるんじゃないの?」とのんきなことを言っている。

 当日の朝、産みたての玉子をカゴいっぱいに入れ、皿、醤油、箸などをもって出かけていった。少し小雪が降っているが、問題はない。会場となる床屋さん前に舞台を作り、皿を並べ、玉子を割って展示した。さて何人来てくれるか。
 予定の時間となった。誰も来ない。三十分ほど待ってみても誰も来ない。床屋さんのご夫婦が心配して見に来てくれた。

「やっぱりなぁ。玉子の為にわざわざ家から出てくることはないかもなぁ。どれ、どれ・・」と言って玉子をひとつ食べて「『商(あきな)いは飽(あ)きない』と昔から言うんだから・・」などと慰みを言って帰っていった。
 結局、雪の上で一時間ほど待ったが、誰も来なかった。皿の上の玉子は半分凍っていた。

 玉子をそのままもって帰ったのを見た両親は
「やっぱりダメだったべぇ。値下げするんだあ。このままなら家中が玉子だらけになるぞお。」
 なにも儲けようと思って価格を決めているのではない。産卵率、生存率、経費などから割り出して決めているのであって、まだ一個も売れてないのに値下げしましたでは、笑い話にもならない。

 更に二日後、公民館から借りた拡声器を持って同じ場所に出かけていった。チラシなら読まなかったということはあるだろう。今度は拡声器でまわってみよう。そう考えてのことだった。ニワトリ達の産みだす玉子もどんどん多くなっていく。一日に100個以上産むようになっていた。このままでは本当に家の中が玉子だらけになってしまう。少しあせってきた。

「ただいまより、床屋さんの前にて、自然卵、『にしねの地玉子』の試食説明会をおこないまぁす。大地の上に放し飼い。お日さまを浴び、自然の草を腹いっぱい食べて大きくなったニワトリの玉子でぇす。どうかお出かけくださぁーい。」

 その時も、一人も来なかった。何でだべ?玉子に問題はない。このような玉子は求められてもいよう。その辺のことは呼びかけのチラシにきちんと書いている。拡声器の呼びかけでもはずしていない。だけど誰も来ないって、なんで?いよいよあせってきた。「たいがいの人は安売りのたまごで充分だと思っているんだよ。高い玉子なんて買ってくれんべか?」と心配していた両親の顔が浮かんだ。

 話を聞いてもらえなければ何も始まらない。来てくれなければこちらから出向こう。翌日からは、一戸一戸を訪問し、チラシを配りながら試食用の玉子を置いて歩いた。
「私のニワトリたちが産んだ玉子です。試しに食べてください。」
 十軒まわって一軒ほどが聞いてくれた。だけどほとんどは門前払い。押し売りか何かと間違えられることもあった。こんな家が続くと、気の小さなぼくのこと、チャイムのボタンを押すのも怖じ気付いてしまう。だけどやめるわけにはいかない。

 この各戸訪問は話を聞いてもらう唯一の方法で、後は数をあたるしかないのだが、反省点もあった。それは私がドアを開けた瞬間、話の聞き手が、ビックリしてしまい、うわの空になってしまうことだった。ちなみにぼくの身長は191cm、体重は当時95kgほど。ドアを開ける。聞き手はいつもの習慣どおり、訪問者の顔の辺りに視線を向ける。しかしそこには顔はない。あるのは大きな胸。あわてて視線を上に向ける。そこにはたまご、たまごとまくし立てる、ひきつった顔の男が・・・。訪問者の為に用意されていた容量はそれを見ただけで満ぱいとなり、ほとんど話など聞く余裕がなくなってしまっている様子。すぐにドアを閉めてしまうか、聞いてくれる場合でも目がうつろ。まったく話は上の空なのがよく分かった。

「それはあんたが緊張していたからでない?大きな身体と緊張した顔との組み合わせでは、知らない人がおよび腰になるのもムリないよ。」と妻がいった。なるほど、たしかにぼくは緊張していた。あせってもいた。

 次の日、一軒の玄関の前に立つ。深呼吸してチャイムを鳴らす。ドアが開く。家の人が顔をだす。一瞬、目線はぼくの胸、すぐに上に上がる。そこで待っているものは・・・。こぼれるような笑顔。昨夜、鏡の前で練習した顔面いっぱいの笑顔・・・。

このようにして一軒一軒訪問していくうちに、少しずつ購買者がうまれていったのだった。


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山形県は朝日連峰の麓、自然卵です。

妊娠されているお母さんに、お年寄りに、病弱な方に、大切な子ども達に、何よりも健康を考えておられるご家庭に・・自然卵はいかがでしょうか?

 【どんなニワトリたちが産んだ玉子か】
 
1、自然に近づけて飼っています。春から秋にかけては外で放し飼い。雪に閉ざされた冬の間は一坪に10羽以内の平飼いです。
2、 薬、添加物の類(たぐい)は一切使用していません。
3、 エサから遺伝子組み換え作物を排除しています。
4、黄身の色は自然の色です。エサに色素は入れていません。
5、 雑食のニワトリ達には「雑」といえるほど多くの種類の食べ物を食べさせています。特に緑の野菜はかかせません。
6、 メンドリとオンドリが一緒に暮らしています。全てとはいいませんが(相性の悪いものもいますので)多くは有精卵です。
7、 最後に「愛情」です。我が家の愛情をいっぱい受けて育ったニワトリたちが産んだ玉子です。

 昔は風邪でもひかなければ玉子などというものは食べられませんでした。そして今日、私たちの暮らしもそうですが、玉子そのものも大きく変わりました。ほとんどの卵は(玉子ではなく)薬漬けのゲージ飼い。黄身の色も色素で染められています。
でも、この玉子は違います。朝日連峰の四季の変化の中で暮らしているニワトリたちが産んだ玉子です。昔の「庭とり」の玉子です。生玉子や半熟でいただきますとその味の特徴がよりはっきりいたします。

【価格と申し込み方法】

1、 価格は10個入りで一パック580円。何パックでもOKです。送料は10kg以内ですと県内で525円、首都圏は630円、関西は945円です。価格に送料を加えてください。

2、 申し込み方法は
narube-tane@silk.ocn.ne.jpにメールでお願いします。

【支払い方法】

振込み用紙を同封いたします。

お気軽にご連絡ください。

お待ちしています。
 



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これは今までのシリーズものとは少しばかりおもむきが違う文章です。どう違うかといえば・・ま、読んでもらえれば分かるよな。そしてね、あろうことか、この文章を今晩(1月14日)「沖縄タイムス」に投稿したのです。長すぎてダメかもしれないが、削れないんだよなぁ。以下・・・


昨年の11月中旬、私は妻をともなって沖縄を訪れた。それは20代から50代の今日までの私の人生に大きな力を与えてくれた「沖縄」へのお礼の旅だった。

私はいま、山形県長井市で農業をしている。その傍ら「レインボープラン」という名の、生ゴミと農作物が同じ地域で循環するまちづくりに取り組んできた。そのレインボープランは2003年朝日新聞「明日への環境賞」、2006年日本農業賞特別部門「食の架け橋賞」大賞受賞、また、環境省の環境白書に「循環型地域社会」の模範事例として、農水白書には「資源循環型地域農業」のモデル事業として取り上げられるなど、他にもこれまでさまざまな賞をいただいている。

私はその事業のリーダーとして18年ほど夢中で取り組んできて、昨年の夏、レインボープラン推進協議会の会長を辞めた。農業とまちづくりへの取り組みはとても忙しい日々だったが、そんな私を支えてくれたものは沖縄からいただいたおおきな力だった。

私にも後継者として期待されながら農業を嫌い、田舎から逃げ出したいと一途に考えた青年期がある。幾年かの苦悩の末の26歳の春。逃げたいとおもう地域を、逃げなくてもいい地域に。そこで暮らすことが人々の安らぎとなる地域に変えていく。その文脈の中で生きて行くことが、これから始まる私の人生だと考えるに至り、農民となった。その転機を与えてくれたのが沖縄での体験だった。

76年、25歳の私は沖縄にいた。当時、国定公園に指定されているきれいな海を埋め立てて石油基地をつくろうとする国の計画があり、予定地周辺では住民の反対運動が起きていた。私がサトウキビ刈りを手伝っていた村はそのすぐそばだった。小さな漁業と小さな農業しかない村。村からは多くの人が安定した生活を求めて「本土」へ、あるいは外国へと出て行っていた。

「開発に頼らずに村で生きて行くのは厳しい。だけど・・・」と村の青年達は語った。「海や畑はこれから生れてくる子孫にとっても宝だ。苦しいからといって石油で汚すわけにはいかない。」

その上で「村で暮らすと決めた人みんなで、逃げなくてもいい村をつくっていきたい。俺たちの代では実現しないだろうが、そのような生き方をつないでいけば、何世代か後にはきっといい村ができるはずだ。それが俺たちの役割だ。」

私はこの話を聞きながら、わが身を振り返り、大きなショックを受けていた。この人たちは私が育った環境よりもずっと厳しい現実の中にいながら、逃げずにそれを受け止め、自力で改善し、地域を子孫へとつなごうとしている。この人たちにくらべ、私の生き方の何という軽さなのだろう。この思いにつきあたった時、涙が止めどなく流れた。泥まみれになって働く両親や村の人たちの姿が浮かんだ。
それから数ヵ月後、私は山形県の一人の百姓となった。

沖縄からいただいた考え方を「地域のタスキ渡し」という言葉にし、減反反対運動、農薬の空中散布をやめようという取り組み、そしてレインボープランと・・・、「逃げ出したい地域を逃げなくてもいい地域へ」「ここで暮らすことが安らぎであり、誇りでもある地域へ」、百姓の合間をぬいながら夢中で歩んできた30年間だった。

その私が・・・、昨年の秋、「もう、(社会における)俺の役割は終わったのかもしれない。」という気持ちにとらわれ、すっかり落ち込んでしまった。目的の喪失感なのか。あなぽこに落ち込んでしまったような・・。

再び沖縄に行こう。私はその後の30年間、このように生きてきたという報告とお礼の旅に出よう。だれ、かれにというのではなく、「沖縄」そのものに・・感謝をこめて。

30年前と同じように沖縄は暖かく迎えてくれた。海も空も友人達も・・・。滞在した5日ほどの間、涙腺がゆるむことが幾度かあり、少しずつ元気になっていくのを感じた。

30年前にいただいた「こころざし」はまだまだ途中だ。地域をタスキ渡しする日まで、もっともっと歩み続けよう。あらためてこんな気持ちを持つことができた。

ありがとう海、空、沖縄のみなさん。ありがとう、沖縄。また助けられたという思いがある。まだまだ道は続いていく。


これだけの文章なのですが・・・。

いまかい?もちろん俺は元気だよ。アッタリマエダ!







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 あけましておめでとうございます。

 皆さんはどのようにお正月を過ごされたでしょうか?
我が家族は当然ことながら、まったく普段と変わらない暮らしでした。ニワトリにエサをやり、玉子をとってパック詰め、曜日がくればそれを配達する。変わったのは元旦の朝、お酒をいただいたのと、伝統的な風習に従って、決められた料理で食事をしたぐらいのことでしょうか。

 あらためて年頭のご挨拶をいたしますが、今回はお正月の間に読んだ本を紹介させてください。

 山形市に齋藤たきちさんという農民がおります。その方が昨年の秋「北の百姓記(続)」(東北出版企画)という題名の本を出版されました。一昨年に出された「北の百姓記」に続いてのことです。両方とも読み応えのある本です。どんな本かを「書評」風に書けば・・こんな本です。(以下)


 三十五年ほど前になろうか。まだ私が東京の学生だったころ、よく読んでいた書物の中で幾度か「齊藤たきち・山形県・農民」の著名入りの文章に出会った。
当時、私は農家のあとつぎとして期待され、農学部に在籍してはいたものの、その道がいやで、何とか田舎に帰らない方法はないものかと考えていた。そのくせ、人生の方向を見つけられないまま、成田で起こっていた農民運動などに顔をだしていた。

 その時のたきちさんの文章は、同じ農民という立場から、運動を担う成田の農民に心を寄せて書かれた、どっしりとしたものだった。農民であることに誇りをもつ、土の香りがする文章だった。
「山形にもこんな方がいるんだ。」同じ山形県人であることに親近感をもちながらも、当時の私にそれらの文章は重くこたえた。

 やがて私も農民となるのだが、その時以来ずっと今日まで、「齋藤たきち」の名前はいつも気になる存在として私の中にあった。

 齊藤たきちさんは山形市門伝で農業を営むかたわら、農民の立場から詩をつくるなどの創作活動に精力的に取り組んでいる方だ。山形県を代表する詩人で野の思想家、真壁仁がおこした「地下水」の同人でもある。

 そのたきちさんが昨年の秋、「北の百姓記(続)」(東北出版企画)を出した。一昨年の春に出版された同名の本の続編である。「あとがき」に、先に出した本には「六十年余に渡る私の『百姓暮らしの叫び』」を、このたび出した続編には「百姓としてどう生きているか」を書いたとある。

 読みながら、三十数年前の感情がよみがえってくるのを感じた。たきちさんはずっとあの時の姿勢のまま生きてこられたのだ。

 彼は単なる知識人ではない。それは彼の広い肩幅と、厚い胸、がっしりとした体躯をみたら分かる。田畑に働くことでつくられた身体だ。そこから出てくる情感、思想を詩人の言葉でつづったのがこの本である。作物や郷土に対してそそがれる目がやさしい。

 たきちさんは自らを「百姓」という。彼にとって百姓とは単なる職業なのではなく「生き方」そのものである。
まさにこの本には、土の上で懸命に生きてきたひとりの百姓、齋藤たきちの生き方があり、哲学があり、世界観があり、詩がある。
 
 そのたきちさんがついに自分を「最後の百姓」と呼ぶに至った。そこまで彼を追い詰めたものは何なのか?我々とて決して無縁ではない。

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 書評風の紹介はこれで終わりです。たきちさんは今月の21日、真壁仁を記念して設けられた「野の文化賞」」を受賞されます。

 この二冊の本は、農業に従事されている方だけでなく、広く社会人、学生にも読んでもらいたい本です。

ナンカ、オオマジメニ、カタッチャッタナ・・・。




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