ぼくのニワトリは空を飛ぶー菅野芳秀のブログ

ぼくのニワトリは空を飛ぶー菅野芳秀のブログ
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しばらく休みます。

どうしてかって?
税金の申告作業のためなのです。
本当にこの実務が苦手で負担なんですよ。
1月の元旦に「今年は早めに始めよう」と誓ったはずなのに、もう2月。
まだ何にもやっていません。

こうなると何というか・・自分がいやになりますね。
自分に自信を取り戻す・・・コトなんかできないけれど
何とか頑張んないとナ。

明日から月曜日まで、長井市でレインボープランがらみのシンポジューム
があり、ほとんどそれで終りでして、そこからですよ、本格的に開始するのは。

でね、その間、どうかブログをご覧になっている皆さんで、にぎやかして
ください。

私も時々見にまいります。

また、気が変わり、すぐに新しい文章に更新するかもしれません。その辺は気楽にさせてください。

 申し訳ありませんが、よろしくお願いします。

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 ドイツ全土から、2007年1月1日よりゲージ飼いのニワトリ達がすっかり消えた。全ては大地の上で飼育されている。ヨーロッパ全体では2012年から実施するという。いい話ですよ、人間であろうがなかろうが、幸せにつながる話は歓迎だ(「ゲージ飼いは法律違反」バックナンバー)参照。

 確かに世界中の生き物達の中でゲージ飼いのニワトリたちほど不幸な動物はいない。羽を持っていても飛ぶことはおろか、広げることすらできず、足があっても歩くことができない。お日さまを拝むことも、風をうけることもなく、両脇に隣人の体温を感じ、対面に自分と同じように苦しむ同輩を眺めながら、長い一日を過ごしている。うわぁーぁ、やりきれないねぇ・・・。

 彼らを生き地獄から救ったのは消費者運動だという。ドイツ政府に働きかけ、実現した。自分達が手にする食べ物の質を問題にするだけでなく、そのつくり手の状態にまで思いの範囲が及んでいるということか。

 他方、日本の消費者運動はどうだろうか。残念ながら自分達が食べる卵の安全・安心を問題にしても、ニワトリ達をゲージから解放しようという声は聞いたことがない。思いはそこまで到達していない。自分(達)に、問題のない食べ物が手に入るなら、それから先のことには...ということか。

 話が変わって、日本の米作りの現場。東北農政局が発表したH18年度の生産原価は15,052円/60kg。農家がJAに売り渡す価格は12,000円/60kg前後。作れば作るほど赤字が出てしまう。H19年もH20年も同じだった。こんな原価割れの米作りが数年続いている。農家の平均年齢は67歳。当然のことながら若がえる兆しはまったくない。いまさら転業もできないから・・という年寄り達の思いだけが継続の原動力だ。(これもバックナンバー参照)

 我が村も都会の生協と米作りの提携を行っている。農薬や化学肥料を減らした米作りで、ここでの取引価格は市場の実勢価格プラス1,000円加算だ。30年前は22,000円/60kgに1,000円加算だったが、今日では12,000円に1,000円加算。加算したとて生産原価に遠くおよばない。

 ニワトリ同様、思いは生産現場まで到達していない。

少なくとも生産原価を割るような価格ではなく・・と思うが、依然として変わってはいない。すでに農家にとって、農協を通じた生協との提携は「希望」ではなくなっている。そこに出荷しても暮らしていけないのだ。「オールタナテイブ」はその外にある。

 生協に代表される日本の消費者運動。合併につぐ合併で、運動体というよりも事業体としての性格が強くなり、動きがとれなくなっているようにみえる。

 今は時代の転換期。もし、食の安全、環境、持続性、循環・・・の時代的要請に応えたいという気概があるのならーといえば偉そうだけどータマゴやお米に限らず、生産現場を知り、そことの関係をもう一度問い直すことから始めなければならない・・・。どうだべな。
  
 だけどなニワトリたちよ。
 かの国のように消費者運動にだけ頼っていてはいかんぞ!
 自分でなんとかする道をみつけなければな。
 自力解放の道を・・よ。
 何ができるかって?
 自分で考えるんだよ!
 
 俺達だってその道を歩もうとしているんだからさ。

 なんとかなるさ。
  なんとかするんだ! 

(写真は我が家の前に広がる雪原・・東を眺める)




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寒いですねぇ。
今日(1月15日)の最高温度が氷点下ですよ。一日中吹雪でした。
さて、あるところで話しをする機会があり、そのテープを起こしたものが送られてきたんですね。あんたの話だ。要約の添削、校正をやってくれと。
 どんなところで話したのかといいますと、それが・・改良普及所の職員とか、農水省統計事務所の人たちとか・・農家とか。昔のことでいえば社会党支持の農業関係の人たちでした。
 いつになく堅い話ですが・・まぁ、いいじゃないですか。お酒でも飲みながらお付き合いください。

(写真は今の我が村。後ろは朝日連峰です。ダブルクリックしてみてください。)
 

 農の現場から−大いに議論し、我々の到達点を対案に!
              −レインボープランの経験からー   菅野芳秀 

【はじめに】

 山形県長井市で、水田2.6haと自然養鶏といって、鶏をゲージではなく自然に近い状態で放し飼いにし、水田とニワトリとの循環農業をやっています。長井市は米沢盆地の穀倉地帯の中にあります。約3000ha
の農地があり、その9割が水田です。私のいる村落は、44戸でほとんどが農業に携わっています。

【高齢化と米価格の低迷のなかで】

会合などで公民館に集まると、かつては30代、40代が一線で頑張っていましたが、今はそのまま60代、70代です。

村の農民の平均年齢は67歳。全国的にみても同じくらい。農業に携わる者が一番多いのは70〜74歳だそうです。

山形県の主要作物は米。それは風景をみればわかります。その人たちが第一線で米を作れるのはあと10年もない。80代になったら自分の作物は作れても、他人のものまで作れない。

2006年に東北農政局が発表した米の生産費は15,052円です。私どものところで農家が農協に売り渡す価格は12,000円ちょっとです。農水省が発表した生産原価よりさらに3,000円ほど下回っています。米作にかかるコストを考えれば、つくらないほうがいい。

農水省の統計によると、水田農家の平均時給は179円だそうです。こんなことで暮らしが立つわけがない。後継者が消え、高齢化はますます進むだろう。

すでに日本の農業は、後戻りできない、修復不可能な領域に入ってしまったとさえ思えます。農業の危機といいますが、危機なんてもんじゃありません。ガラガラという崩壊の音が聞こえてくるようです。

「ときが来る。トキになる」という言葉は私の造語です。食、農、いのち、循環の時代がやってくる。だけど俺達百姓は佐渡の「朱鷺」になっちゃうよと。
やがて農の時代が来るでしょう。しかし、そこには農家はいない。農民はいない。農の時代は来るが農家と農民の時代は来ない、そういう未来を描かざるを得ません。

【難局には「対案」を持って参加する】

ですが、そんな中でも私たちに何が必要かと言えば、依然として「対案」、断乎として「対案」だと思います。。「愚痴じゃなく対案を」。今のようでないもうひとつのあり方を農業の現場から示すことです。

よく柿の種の話をします。こんな話です。12月頃になると、熟した柿がぽとぽと落ちる。カラスが留まっては落ち、風が吹けば落ちます。この落ちそうな柿に尋ねてみます。「今の心境を教えてほしい」と。柿は、「危機だ。俺たちには未来がない、落ちて破裂して終わりだ。」と言うでしょう。
柿が予想したように、やがて落ち、柿の実の物語は終わります。だけど、今度は柿の種に聞いてみます。種は「これから俺たちの時代が始まる。希望が近づいている」と言うに違いがありません。

つまり、同じ柿の中に同時に進行する二つの物語があります。実の立場から嘆くのか、それとも種の立場に立ってこの局面に参加するのか・・・この違いは大きい。柿の種の立場からこの難局に参加する。「対案」を持って参加することが、私たちに求められている。そう思います。

NHKの大河ドラマの「篤姫」の中に、難局に「対案」を持って参加しようとした田舎侍たちが出てきます。そういう先人を範として、この局面に参加すること。いま方向性を失っている人たちをこれ以上批判しても始まらない。それとは別の文脈で、それ以上の情熱とエネルギーをもって柿の種、希望の芽を育てていかなければならないと思うのです。今までの取組みの中で育んできた世界観の中味が、実践的に試されているのだと思います。末席ながら農民運動に参加してきたものとして切実にそう思います。

【対案への条件】

さて、これからご紹介いたしますのは、山形県長井市で地域を上げて取り組んでいるまちづくり、生ゴミと健康な農作物が地域のなかで循環する地域づくりにかかわる話です。レインボープランという名の、その事業の立ち上げにはたくさんの人たちがかかわりました。私もその中の一人でした。私は農民として、レインボープランの中に、地域と農業の未来を築き上げようという、自前の「対案」を重ねていました。20年前のことです。
 1989年頃、GATTの話が出たあたりから、今の農業の状況は予見できました。その時に私は「対案」の必要性考え、その中味と建設の条件について考えていました。GATTを反映した政府の農作物貿易自由化政策に反対しているだけでは、ただジリ貧になっていくだけであって、重要なのは反対を通して何を実現していくのか、何を育んで行くのかだ、と。

「対案」として成立するためには、時代的な条件があります。私は7つの枠組みを考えていました。この7つを重ねた向こう側に見える岸辺が、私たちが到達すべき世界であると。

今は時代的転換期。開発と右肩上がりの発展史観に支えられた、目先の経済効率を第一とする社会から生命系の循環と持続性を第一とする社会への大きな移行期。「対案」はそれを内包したものでなければならない。

1つ目は生命系の原理に立つ農業の確立。
2つ目は多様な人たちが自分らしく生きていく村社会・地域社会を築くこと。

最初、私たちは生命系の原理に立ちながら、循環型の農業をやっていくのだ。食のみならず、環境の点でも人類的課題の求める方向で力を発揮していかねばならないのだと強調していました。ところが女性たちから「農法の問題だけを強調しても仕方がない。それを誰と築いていくのか。今までの男中心のあり方を変えなければ、女性は寄り付かない」との指摘を受けました。

確かに農法の問題とそれをつくっていく人の問題は別々の問題ではない。私たちは農業を通じて、お互いの違いを認め合い、両性が幸せになっていく道を築かなければならない。障害者、外国人を含め、社会的マイノリティとともにその道を築いていくことが大事だ。

3つ目には地域の自立と自給です。当時、先に述べたように、GATTという形で、巨大アグリビジネスによる農作物の世界市場支配が始まっていました。それを受けて、当時の私は、近隣の農民仲間とともに、“まず「国家自給」があるのではなく、その前に「地域自給」を。地域自給圏のモザイク的集合体としての日本列島の自給を、というのが順序だ。よって「地域農業と地域社会」の結合を。その視点に立って、大都会に一元的につながれてきた生産地と消費地の関係の転換を。地域の自給をまず実現し、その「余ったもの」を大都会へ”と主張していました。それらを織り込んだ「地域の自立と自給」。これが3つ目の条件です。

4つ目には民主主義。5つ目には地球的視点。6つ目には異文化との交流。7つ目には開かれた家族農業を基本とするということでした。

4,5,6の説明は省くとして、7番目のことに関しては、GATTからWTOへと至る中で、アグリビジネスに対抗できる勢力は、世界的にみても家族農業だろう。家族農業といって も社会に開かれた家族農業、暮らしと共にある農業と言う意味合いでした。

【快里(いいまち)デザイン研究所】

 田植えをしながら・・草刈をしながら・・いつも頭の中は「対案」をどう実行に移せるか・・。このことばっかり考えていました。世間にむけて、あーだ、こーだと理屈を言ってまわってみても、同じような人間がこじんまりと集まるだけ。そんなスケールでは何にもかわりません。どうすればいいか・・・何を架け橋にして・・・。あるとき「これだ!」とひらめくものがありました。生ゴミです。同じ市内のまちの消費者の一軒一軒の台所から出る生ゴミを分別収集し、堆肥原料とする。その堆肥を活用して作られた作物をまちの台所に戻す。生産者も消費者も農と食に参加する地域ぐるみの取り組み(やがてこの構想はレインボープランと名づけられます)。これによって・・・もしかしたら・・農業が変わる、地域が変わる。もっといえば、WTO(当時はGATT)下の、地域から始まる数少ない防衛策の一つとなるのかもしれない。

 そんなある日、思わぬ声がかかります。1988年に長井市の企画課が、市民に住みたくなるまちを自由に構想してもらおうと、「まちづくりデザイン会議」が設立されました。1990年にはその構想を更に発展させようと「快里(いいまち)デザイン研究所」がつくられました。私にもその研究所の一員として参加するよう要請があったのです。

 「デザイン会議」の農業部会の提言の中に「土が弱っている。土作りをしたくても家畜がいない。堆肥原料がない。」という生産者の声がありました。他方、消費者からは「地元の作物を食べたいが、どこにも売っていない。スーパーにあるのは遠隔地のものばかりだ。同じものが長井にあるはずなのに、海外のものも並んでいる。」という声がありました。田舎の市場にも海外の作物が侵入してきている。農家が国家自給率の少なさを嘆く前に、しなければならないことがここにある。

【深刻な土の弱り】

一方、農家の声として出された土の弱りの問題は深刻です。
ここに「食品成分表」の1954年の2訂から2000年の5訂までの、野菜のもつ成分の移り変わりをピーマンで比較した表があります。この表を見ると、食べられる部分100g中に含まれるビタミンAの成分値は1954年には600単位あったものが、2000年には33単位になっています。おそらく見た目は同じみずみずしいピーマンだと思うのですが、ビタミンAをピーマンから取る限り、18個食べなければ昔の1個にならない。更にビタミンB1は3分の1に、B2は半分以下に、ビタミンCは3分の1になっている。同様に、カルシウム、リン、鉄、ナトリウムなどのミネラルについても、その含有率は大きく低下しています。これはピーマンだけに限りません。ほとんど全ての野菜にいえることです。

どうしてこんなことになったのか。それは土の弱りと関係します。いうまでもなく、1954年頃は堆肥で作物を作っていました。1961年の農業基本法以降、機械化、化学化、単作化が推進され、化学肥料や農薬に頼る農業に変わっていきました。そして土がどんどん弱り、それに合わせて作物の持つ栄養分、おそらく生命力も弱っていったのだと思います。

よく子どもたちがキレやすいとか、粘り強さがないとか、授業中落ち着きがないとか言われ、その原因を家庭教育のせいにする話を聞きます。でも、多くは食べものの問題だろうと思っています。子どもたちはその成長期において、栄養分が1/2,1/3と低下した作物を食べ、自分の身体を作らざるを得ない。こんな食べ物で健康な身体になれるだろうか。どっしりとした精神が育つだろうか。キレやすい子どもの背景には、弱った土と養分の低下した作物の関係があるように思います。

この問題は土に有機物を投入し、土を肥やすことで解決しますが、最小コストで最大利益を上げようとする市場経済の下では難しい。市場ではなく、生産者と消費者との新しい関係のなかで、課題が共有され、解決への道が始まるだろうと思います。それはレインボープランの課題となっていきました。

【実現への一歩】

まちづくりデザイン会議の会議録には、生産者から堆肥の原料を、消費者からは地元の作物を・・という声があがっていました。「快里デザイン研究所」に参加した私はそれを受けて、生ゴミを活用する構想を提案しました。消費者が有機肥料・堆肥の原料としての生ゴミを分別収集し、農民の土作りを支え、農家がその堆肥を活用し、できた作物をまちに送ることで台所の健康な食生活を支える。あわせて地域自給を高めていく。今風に言えば、農業を基礎とする循環型社会。この構想は他の所員から肯定的に迎えられ、「レインボープラン」と名づけられました。もし、実現すれば、生ゴミを媒体として、さまざまな新しいつながりを築いていくことができる。生ゴミはあくまでも架け橋。その活用を通して、まちとむら、生産と消費、農業と台所、今と未来が新たに出会うだろう、そこからまた何かが生れていく。
「対案」実現への可能性が出てきた。ここから、デザイン研究所の仲間達とともに、実現への歩みが始まります。

【道が拓かれて・・】

 デザイン会議の仲間達とであい、私の荒削りな構想が、更にきめ細かいものに仕上げられていきました。そしていよいよ実現への働きかけが始まりました。市民、商工会議所や病院・・地域を支える中核的団体、行政、農協へと働きかけていく。
 必要な全ての人、団体、機関の参加を獲得し、市民を事務局とするレインボープラン推進委員会ができたのは1991年。堆肥センターが立ち、事業が実行に移されたのが1997年。ここまでの話の中に、血沸き、肉踊る話や涙をさそう話がたくさんありますが・・止めておきましょう。以来、レインボープラン推進協議会のもと、市民と行政がイコールの立場で話し合いを重ね、少しずつ修正を加えながら今日に至っています。

【レインボープランとそのいくつかの成果】

 長井市の人口は約3万人。世帯数は約9千。まちの中に5千世帯、周辺部に4千世帯。レインボープランは、まちの中の5千世帯から出る生ゴミ(年間1千トンほど)を堆肥の原料として集め、籾殻と畜糞を加えて発酵させ、堆肥を作る。それを農家が活用し、農薬、化学肥料を制限して米や野菜を作り、できた作物を町の台所に運ぶ。まちの消費者は堆肥の生産者。村の生産者は堆肥の消費者。それぞれが生産と消費を分かち合い、地域社会と地域農業が循環的関係の中で結ばれていく。この地域ぐるみの事業は、農業政策であり、環境政策であり、食料政策であり、住民自治を高めていこうとする地域政策でもある。行政の縦割りではくくれない、各課横断の、生活者の政策だということでしょう。もちろん、まだまだ課題が多く、発展途上ではありますが・・。

7つの「対案」の視点から見て、どこまで歩んで来たのかを考えれば、まだまだ未熟です。課題としてあげられてきた経済的成果もまだまだです。しかし、いくつかの重要な成果を残しています。

レインボープランをすすめているのはレインボープラン推進協議会。50名ほどの市民が五つの委員会に分かれて、事業の推進に智恵と汗を提供しています。ここでは市民と行政が同じ地域の生活者として、イコールの形で協議し、決定を分かち合っています。行政主導ではありません。(住民自治・民主主義)

稼動して12年目にあたる今年、まちの台所の生ゴミはほぼ全量堆肥の原料となっています。市民は生ゴミの分別が堆肥づくりであることを知っています。その意味で市民の台所と地域農業がより近くなりました。(生命系の原理)

レインボープラン作物は、三つのルートでまちの中に戻ります。一つはNPO市民市場「虹の駅」やスーパーのレインボープランコーナーなどを通して。二つは学校給食。三千名ほどの子どもたちの学校給食は米飯給食ですが、お米はレインボープランです。旬の作物も活用されます。三つめは食品加工品。レインボープラン豆腐や納豆、味噌、饅頭、酒、クッキー、蕎麦、ラーメンなど。みんな長井でとれた農作物を原料としています。このように地場の農業と地場の食品加工業が生ゴミを通してつながっていきました。(地域の自立と自給)

堆肥の量に限りがありますが、レインボープランは長井市の環境保全型農業にも大きな一石を投じています。レインボープランはもとよりゴミ対策が主ではありませんが、生活系可燃ごみが30数%減りました。(生命系の原理)

この事業の中から2つのNPOが生まれました。先にあげた「レインボープラン市民市場・虹の駅」。「虹の駅」はレインボープラン作物の直売所機能をもちますが、市民理事のほか、20名ほどの消費者・市民が運営に参加しています。もう1つのNPOは、農家と40人ほどの消費者が参加して運営されている「レインボープラン市民農場」。50aほどのハウスと露地を使ってさまざまなレインボープラン野菜を栽培しています。(地域の自立と自給・開かれた家族農業)

子ども達への格好の地域学習の教材を提供しています。長井市の子ども達は、学校の授業でレインボープランを学んでいます。(地域の自立と自給)


【全国、海外・・タイへの波及】

レインボープランには今でも全国から多くの視察者がまいります。海外にも波及しています。たとえばタイ。タイ東北部の二つの町で、生ゴミと健康な野菜が地域のなかで循環する、それもレインボープランという名前の事業が稼動しています。

タイは農作物の輸出国です。キャッサバやサトウキビ、米、ジュートなどで農地が占められています。それらが好調なうちはいいけれど、世界不況の中で輸出価格が下がると、にわかに生活が厳しくなり地域経済は混乱する。つまりグローバルな市場経済の中で、タイの農民も翻弄されています。その様な状況から脱却すべく、輸出のための農業ではなく、暮らしのための農業、生きるための農業を求め、農民と消費者が連携し、世界市場から切り離された生活圏の自立・自給を目指す動きが始まっています。タイの農民たちもまた新しい方向を目指そうとしています。

タイと日本。輸出国と輸入国の違いはあっても市場経済に翻弄されている地域と地域が、相互に交流し合い、生活圏の自立と自給を目指す、新しい国際交流が生まれています。(地球的視点、異文化との交流)

【風前にともし火を】

およそ20年間、この危機を時代の転換期ゆえの危機と捉え、「対案」をもって時代に参加しようと考え、歩んできました。しかし、WTO交渉の進行する局面でどうなのか、長井やタイのレインボープランも、各地のさまざまな「対案」も、嵐の中の小船のように、大波にもみくちゃとなることは避けられないでしょう。それでもなお、くどいようですが、私たちは「対案」をかざして、この難局に参加していくことが求められています。もともと平穏無事な成長などはありえません。私たちが蓄積してきた世界観の中味が問われています。

今は時代の転換期。
風前にともし火を!
新しい希望を作り出す柿の種に!!

皆さん、ともにやっていきましょう。

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新年、明けましておめでとうございます。

 皆さまは新年をどのように迎えられましたか?
元旦の朝、我が家の裏にそびえる朝日連峰の中に入り・・・といいましても深い雪の中、ほんの裾野に立っただけなのですが、山の神様に初詣に行ってまいりました。

私が山の神様と呼んでいますのは、山の土と微生物達のことです。それらはこの地の循環の母体です。微生物・・・とても小さな、そして不思議な生き物達。イノシシやサルは朝日連峰にはいないように、生物は自然環境の地域変化に合わせてすみ分けている。微生物ならもっと細やかに・・・。その範囲は「三里四方」。地元の微生物。

自然界にあっては一つのいのちの終りは、もう一つのいのちの始まり。土となり養分となって、新しいいのちに役立てられていく。参加していく。有機物の循環、いのちのめぐり。太古の昔からこの地の循環をつかさどってきたのは、地元の微生物たち。山の神様。

人間が生れると、およそ3日以内に、その地の微生物が体内に入るといいます。以来、生きている限り、身体の中に生息し、体内の循環を回してくれる。内の微生物界と外の微生物界は同じもの。身体の内と外を循環し、通い合う山の神様たち。だから私たちは自然の一部。「身土不二」。

 新年は山の神様たちにおまいりすることから始まりました。もう、15年ぐらいになりましょうか。

 静まりかえっている森。遠くから沢の音が聞こえました。

 今年もよろしくお願いいたします。



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 あけましておめでとうございます。
今月3日pm13;00より、久米宏さんの「ラジオなんです」
が放送さます。
オレが出るんですよ。再放送なんです。
30分ぐらいの楽しい時間でした。
よろしかったらお聞きください。
 まずはお知らせまで。
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 大変長らく留守にしていました。ようやく外の仕事はひと段落、まだ年賀状は書いていませんがそれは例年のことで、1月になってから書けばいいや
。やれやれです。
 家主が不在の間、山さくらさんや種子原人さんにルスを守っていただきました。ありがとうございました。
 さて、書きたいことがたくさんたまっているのですが、肝心の「地域のタスキ渡し」について、まだ書いていないことに気づきました。一度正面から書いておく必要がありますよ、これは。なぜならばこの「地域のタスキ渡し」こそ、私の原点だからなんですよ・・・なんてね。気負ってみても今はそんな時間はない。だから・・・、以前、朝日新聞の山形版に同じ題名で書いたものがあるんですね。もう少し若い頃のものなんです。同じことなのでそれを掲載させてください。ちょっと硬い文章ですけどがまんしてくださいな。


 長井市ではレインボープランという、生ゴミと農産物が地域の中で循環する事業が行われている。
私はこの事業に参加して15年(当時)になるけれど、それは、農作業の合間をぬって飛び回るとても忙しい日々だった。そんな私を支えてくれたものは「地域のタスキ渡し」という世界だ。耳慣れない言葉だと思う。何しろ私の造語なのだから。

 私にも後継者として期待されながら農業を嫌い、田舎から逃げ出したいと一途に考えた青年期がある。幾年かの苦悩の末の26歳の春。逃げたいと思う地域を、逃げなくてもいい地域に。そこで暮らすことが人々の安らぎとなる地域に変えていく。その文脈で生きて行くことが、これから始まる私の人生だと考えるに至り、農民となった。その転機を与えてくれたのは沖縄での体験だった。

 76年、25歳の私は沖縄にいた。当時、国定公園に指定されているきれいな海を埋め立て、石油基地をつくろうとする国の計画があり、予定地周辺では住民の反対運動が起きていた。私がサトウキビ刈りを手伝っていた村はそのすぐそばだった。小さな漁業と小さな農業しかない村。

 村からは多くの人が安定した生活めざして「本土」へ、あるいは外国へと出て行っていた。「開発に頼らずに、村で生きて行くのは厳しい。だけど・・」と、村の青年達は語った。「海や畑はこれから生れて来る子孫にとっても宝だ。苦しいからといて石油で汚すわけにはいかない。」

 このように子孫を思いながら反対する。これはほとんどの村人の気持ちだった。その上で「村で暮らすと決めた人みんなで、逃げ出さなくてもいい村をつくって行きたい。俺たちの世代では実現しないだろうが、このような生き方をつないでいけば、何世代かあとには、きっといい村ができるはずだ。それが俺達の役割だ。」

 この話を聞きながら、わが身を振り返り、私は大きなショックを受けていた。彼らは私が育った環境よりももっともっと厳しい現実の中にいながら、逃げずにそれを受け止め、自力で改善し、地域を未来に、子孫へとつなごうとしている。
この人達にくらべ、私の生き方の何という軽さなのだろう。この思いにつきあたったとき、涙が止めどもなく流れた。泥にまみれながら田畑で働く両親や村の人達の姿が浮かんだ。

 それから数ヵ月後、私は山形県の一人の百姓となった。
村には以前と同じ風景が広がっていた。しかし、田畑で働くようになって始めて気がついた。開墾された耕土や、植林された林など、地域の中のなにげない風景の一つひとつのものが、「逃げなくてもいい村」に変えようとした先人の努力、未来への願いそのものだったということに。それらの努力と願いの中で私は守られ、生かされていたのだ。

 風景はあたたかな体温をともなって優しくせまったくるのを感じた。ようやく「地域」がわかった。そして私は「地域」が大好きになり、同時に肩にかかっている「タスキ」を自覚できるようになった。
その後の、減反反対や農薬の空中散布反対運動、そしてレインボープラン・・・。

 私をこのように動かすものは、地域の風土の中に流れる先人の体温と、私の身体にしっかりとかかっている「タスキ」への自覚である。



・・・ということなんですが、少し、肩に力が入いりすぎていますね。若いですねぇ。カッコつけてますねぇ。

 表現はゴツゴツしてるけど、趣旨はお分かりいただけるかと思います。百姓仲間の友人がいいます。「菅野は農業をやりたくて農民になったのではなく、地域を変えたくて農民になったんだよな。」って。きっかけはその通りでしたね。これが私のベースです。

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いつ根雪がきてもおかしくない時期になった。村人は毎日、天気予報を気にしながら冬の準備を進めている。

冬の準備・・、その筆頭は越冬野菜の取り込みだろうな。大根、高菜、白菜、ブロッコリー、カブ、ネギなど、畑の作物が雪でおおわれる前に屋敷の中に取り込む。雨の日の畑仕事はやりにくく、野菜はいつまでも乾かない。晴れの日を選んでの作業となるが、それがなかなか来ない。午前中に晴れていても午後は崩れてしまい、一日中晴れというのはめずらしい。西高東低・・冬型の気候は裏日本にとっては本当にやっかいだよ。それでも何とか収穫し、野菜は凍らないように貯蔵する。

第二は漬物づくりかな。南国の方達には分からないだろうねぇ。この漬物が冬の間の大切な野菜という地域。畑は厚い雪でおおわれているのだから。取り入れた大根や、その葉、高菜、白菜などを、軽く天日にあてて干し、漬け込む。漬物作りには家ごとにコツがあって、どちらかといえば年期の入った年寄り達の仕事だ。我が家の漬物には熟した柿の実がたくさん入っていて、まろやかな味となっている。うまいぞぉ。

第三は庭木や屋敷の雪囲いだろう。我が村は雪積1m50cmほどになる。手をうたなければ、雪の重みで庭木が折れてしまう。そこで、丸木や板を組み合わせての雪囲いとなるのだが、これが始まると、冬はもうすぐそこっていう気持ちになりますね。

 まだ庭木の雪囲いをやっていないのは、44戸の集落の中で我が家だけとなっていた。これがせつない。仕事が遅れているのが一目瞭然。何度か雪がふっていた。いかにも横着げで、だらしなく見える。

 「おい、早くやらないとまにあわねぇぞぉ。」と近所のオヤジ達がひやかして行く。分かっているんだよ。

 雨が降っていたけれど、やるしかないな。合羽を着ながらの作業となった。一本、一本と、丸太を運び、組み合わせていく。冷たい雨の中、鼻水たらしながら、ようやく夕方にはおわったよ。金沢の兼六園のような芸術的なものではないけれど、仕上がってみると、なかなか風情がある。

だいたいこの三つが終われば、やれやれとなるのだが、我が家の場合は、これでもまだ半分だ。鶏舎の雪囲いが残っている。

それに、畑にはまだ大根が・・・。はやく、はやく・・、雪がくるまえに・・・。分かってはいるんだけどね。 

 (写真は我が家の庭。山さくらさんのご要望に応えて)


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 秋から冬に向かう今の季節は、壮大な「いのち」の交替期だ。
森の木々はすっかり葉を落とし、草ぐさは朽ちようとしている。

自然界全体で見れば、一つの生命の終りは、もう一つのいのちの始まり。

 やがて、それぞれが土に戻り、養分となって新しい「いのち」に役立てられていく。新しい生命に参加していく。加わっていく。いのちのめぐり、いのちの交替期。土はその舞台。

 朝日連峰のすそ野、雑木林に分け入る。
モクモクとしたやわらかい落ち葉の床。土の感触が伝わってくる。
あたりを包んでいる甘酸っぱい香り。草や葉、たくさんの生物達が土に戻ろうとして放つ醗酵の香りだ。

それらが私を柔らかく包みこむ。呼応する身体とこころ。ゆったりとした、しみじみとした感動が湧いてくる。

秋から冬、それはとても哲学的な季節だ。

(バックナンバー「シーッ静かにしよう」にも同じ世界があります。)
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我が家の後ろに連なる朝日連峰の木々はすっかり葉を落としています。風景は冬直前。明日にも雪が落ちてきてもおかしくはない、そんな時期にはいっています。

村の隣人達は既に庭木の雪囲いを終えて、越冬野菜の取り入れに精を出しています。だけど我が家はまだ冬の準備は何ほどもできていなのですよ。私はあいかわらず、帳簿の整理や玉子の配達、集金などの軽労働。重い農作業や冬の準備は息子一人がやっているためなのですが、あせりますね。あせるよ。雪の前になんとか・・・との思いがふくらんできました。明日からでも作業に参加するつもりです。

元気です。
腰の調子はだいぶもどってきました。ほっとしています。
でもなかなかブログを更新することができませんでした。
理由はいくつかあるのですが、なかでもお米の発送業務がけっこう忙しかったということでしょうか。次にくるのは怠け者だということでしょう。
だいたい、「明日できることは今日するな」のほうですからね。それでなんとかなってきているのですからおかしなもんです。

私が田植え直後に動けなくなってしまったことで、今年の米作りはほとんど息子と応援の友人がやってくれました。おかげさまで今までにないぐらいのいいお米ができました。皮肉なものです。食べていただいた方々からは「おいしい」という評価をいただきました。

おいしさのもとは、息子達の的確な作業。まずこれをあげなければなりません。そうしなければバチがあたりますよ。つづいて二種類の堆肥を施したことです。肥料効果の高い「醗酵ケイフン」と、土作り効果の高い「レインボープラン堆肥」。土を豊かにすることが作物づくりの基本ですからね。よろこんでもらえるお米ができて本当によかったです。

今はpm11;30。外は暴風雨、荒れ模様です。ニワトリ達も寒いだろうなぁ。早く彼らの住まいにも雪囲いしてあげなければ・・・。
でも、この天候であした農作業できるかなぁ。




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 4日ほど温泉にいってきます。腰の回復にいいと聞きましたので。
もう少し長くいければいいのですが、何かと・・な。
コメントへの返事を求められているのもありますが、そういそがないですよね。

では行ってきます。
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 今日で稲刈りが終わりますが、農繁期はまだ続きます。ブログはなかなか書けません。そこで、昨年ある雑誌に書いた文章をここに載せました。これなら他にもあります。2,3日後、また違った文章を載せますのでおいで下さい。えっ、この話は以前見たぞ、同じような文章はのっけているではないか・・・とか、いい分はおありでしょうが、ま、いいじゃないですか。


 我が家の農業経営は、水田2ヘクタールに畑が少々、それに自然養鶏900羽。山形県の朝日連峰の麓、純農村地帯の一隅で農業を営んでいる。80代の両親と50代の我が夫婦。そこに昨年4月、農業専門学校を終えた息子が帰ってきた。以来、今日まで、田んぼだ、畑だ、ニワトリだとよく働いている。

 「あんなに働いてくれて悪いなぁ、もごさいなぁ(かわいそうだなぁの意)。家のためなら、うんといいけど・・。でも、よろこべないなぁ。気の毒なような、かわいそうなような・・。こんなことさせていていいものか?このまま歳とらせていいものかといつも思っているよ。」

 息子が出かけた夜に、88歳の母親はため息まじりに話す。

「家の犠牲になっているのではあるまいか。本当に百姓すきならいいけど、でもそうでなければさせられない。もごさくてよぉ、あの子のこと・・・。」

 現在の日本農民の平均年齢は60代後半。我が村の農家の平均年齢も67歳。昼間は田畑にほとんど若い人の姿は見当たらない。
お米は20年前と比べ、一俵(60kg)あたり、1万円も安い。それに3割を超える減反があり、野菜は洪水のごとく海外から押し寄せ・・と、まぁ、こんな按配だ。若い人はとても就農できない。

 百姓仲間の造語に、「とき(時)が来る。トキになる。」という言葉がある。時代は生命系の回復に向かい、農業の価値がみなおされようとしているとは言うのだが、その到来をまえに、われわれ百姓は「佐渡が島のトキ」になっちまうよ、という意味なのだけれど、実感だ。
  
 日本に農業はいらないのかい?日本の穀物自給率はたったの27%。世界でも最低ラインに近い。「飢餓の国・北朝鮮」とはいうけれど、それだって穀物自給率は日本の倍の53%だ。日本の食糧事情はすでに破綻している。輸入によって事実が隠されているにすぎない。

「もうすこし、あの子も世の中見えるようになれば、まだ歳若いから、大丈夫だから・・、何して生きていくか考えんなねごで。」

 88年間、いろんなものを見てきた母が、農業では幸せにはなれない、離れたらいいと話す言葉には説得力がある。でも、息子は充分そのことを知った上で、農業をやろうと帰ってきた。その気持ちが続く限り、それを支えてあげなければと思う。
 


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 栄作さんは現役の米作り農民だ。120aほどを耕作している。いつも早朝から田んぼや畑に出ている働き者で、仕事の終りはきまって午後の3時。あとはウイスキーで一杯始めるのが毎日の楽しみとなっている。

 その栄作さん、70代のはじめのころから「80歳までは現役だべ」と、口癖のようにいっていた。そしてそのとおり、めでたく現役のまま80歳となった。
今年は誰よりも早く稲刈りを始めている。冷やかしにいった私に、栄作さんはコンバインのエンジンを止めて話しかけてきた。

「来年から俺の田んぼ、作ってくんないか。」

 息子夫婦は勤めていて農業はやっていない。水田は彼一人の仕事となっていた。以前から、引退の時が来たら田んぼを頼むと言われていた。だけど、栄作さんの姿が見えない田んぼはどこか寂しい。

「来年もできるところまでやってみたら。途中で無理だと思えたら、オレが引き継いでやるからよ。」

 それでいいなら・・・実はやってみたい気もまだあるんだ・・と、酒焼けした頬をゆるめ、ほっとした表情でタバコに火をつけた。来年も大丈夫だ。まだまだいける。なんせ、この世代は本当に筋金入りなのだから。

 我が村は山形県の中でも屈指の穀倉地帯、置賜盆地の中にある。村の農家の平均年齢は67歳。80代の農家は他にもいるし、70代は中心世代だ。
昨年産米のJAへの売り渡し価格は60kgあたりおよそ12,000円。20年前の半分の価格。農水省東北農政局の発表した生産原価は15,052円というのだから、それよりも3,000円も安い。これでは作らないほうがむしろ生活費の節約になる。実際、栄作さんの息子は「俺たちの給料をつぎ込んで、オヤジは米つくりをやっている。」とぼやいていたっけ。ある新聞に稲作農家の時給が179円にしかならないと書いてあった。法で定めた最低賃金の1/4にしかならないという。ここまでくれば水田規模の大小ではないね。この国では米作りそのものが不可能だということでしょう。

「米作りの何がおもしろいかって?田んぼに出ているのが好きなんだよ。眺めているのがいいんだ。銭金じゃないんだ。小さい頃から親しんきた田んぼだべぇ。ここで育ったのだもの、ここで終りたいよ。」

 これはきっと栄作さんだけの気持ちではあるまい。平均年齢67歳。村の農家の気持ちもそこにある。そして年寄りたちのこんな気持ちが日本の米作りをぎりぎりのところで支えている。でも、それももうじき終りだろう。

 この現実を、たぶん知りながら、更に安い米価を農民にせまり、減反を強いてきたこの国の指導者と役人たち。そんな中での汚染米の「米ころがし」。情けない。日本が壊れていく様を目の当たりにしている思いだ。

 まだ3時には早かったが、仕事を切り上げた栄作さんの家に私も転がり込んで、ウイスキーのふたをあけた。

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