ぼくのニワトリは空を飛ぶー菅野芳秀のブログ

ぼくのニワトリは空を飛ぶー菅野芳秀のブログ
ログイン

眠っていた服の整理をした。

そのほとんどが古くなったもの、色落ちしたもの、シミができたものなどで、捨てずにしまい込んでいたものだ。それというのも農作業用に回せばまだまだ使えるからで、洗っても落ちない油じみなどもあるが、それだけなら作業着として全く問題はない。破れて役にたたなくなるまでまだまだ使い続けることができる。こんな風に見ていくと捨てるものなどはほとんどなくなってしまう。
 靴下もそうだ。片一方に穴が開いても捨てることはない。穴の開いてないものを持ってきて新しく組み合わせればいいだけのこと。

 「あれ、菅野さん、新しいファッションですか?」
左右違う模様の長くつを履いて町に出た時などはこんな声をかけられたりもする。そうかファッションになるか!確かに人目を引くだろうな。 

 世は断捨離だという。でも、いったん買ったのであれば、後は使い切ればいい。そして補充しないことだ。そうすれば自然にモノが減って行く。まだ使えるのにあえて捨てるのは私にはなじめない。少なくとも農村では昔からこのように暮らして来た。こんな考え方の底流にあるのは「足るを知る」暮らし。

 近年、大企業の社長の年収がどうだの、資産家の娘がこうだのという話も耳にするが、金銭的豊かさは人を育てない。過剰な資産は子々孫々に渡っておバカさんを作るだけだ。不幸の種をつくるだけだ。
「子孫のためには美田を買わず」といった西郷さんではないけれど、もしそんな資産があったなら苦しんでいる人たちにあげればいい。その結果、やがて資産家の子息が我々農家のように、いつか使う日のことを考えて、段ボールに古い作業服を貯めだしたとしたら、それはまともな道に立ち返れたということではないか。めでたし、めでたしということだろうな。






我らの松尾君が本を書いた。
「居酒屋のおやじがタイで平和を考える」(1,600円:コモンズ)。

「イサーンの百姓たち NGO東北タイ活動記」に次ぐ、タイと日本をつなぐ草の根民衆運動の実践本として2冊目の本だ。
著者の松尾君は神奈川県横須賀市で「居酒屋・百年の杜」を営んでいる。それが本業ではあるが、彼には世に知られたもう一つの顔がある。それは彼がタイ語通約の達人であるだけでなく、今も日本と東北タイをつなぐ市民、農民活動の第一人者であるということだ。
同時に彼は「アジア農民交流センター」の事務局長でもある。私もその一員だが、そう聞くとどっか堅苦しく、とっつきにくい印象を持つけれど、決してそんな人ではない。何しろ居酒屋のおやじなのだから。長い交流を続けて来た日本各地の百姓を始めとして、多くの人たちからは「まつおくん」と親しまれ、東北タイの人々からも「ゲオ」と愛称で呼ばれる、とにかく「良い奴」なのだ。
日本でもタイでも彼を悪く言う人はまずいない。でも、たいがい「良い奴」が書いた本ってつまらない、読みたくない本が多いと相場が決まっている。しかし、物事には例外はあるもんだ。この本がまさにそれ。読んでみて面白い。そして勉強にもなった。東北タイの人々の現状とその取り組みが、彼の暖かい目線を通して見事に描かれている。
タイへの第一歩が寿司屋のアルバイト先で、そこから長い付き合いが始まったというのも彼らしい。やがてJVC(日本国際ボランティアセンター)の活動に関わり、JVCタイの現地代表として東北タイの農民の「生きるための農業」を支援してきた。
この本に書かれているそれらの実践は、日本とタイの普通の人たちが産みだした最良の実践記録なのではないかと思う。
ぜひ、一読を勧めたい。





もし、あなたが稲作農家の友人でしたら、ぜひ、この文章を最後までお読みください。決して長い文章ではありません。

以下

春。なんといっても我が家は米の生産農家だ。雪解けと同時に気持ちは高ぶり、田んぼに向かう。
作業の手始めは種籾の消毒作業だ。種籾に付着している「いもち病」、「バカ苗病」などの雑菌を退治する重要な仕事で、この作業をおろそかにすれば、苗の生育にダメージを与えるだけでなく、秋の収量にも大きく影響する。このため、多くの農家は完璧を求めて農薬を使っているが、我が家では30年ほど前からそれをやめ、薬によらない方法でおこなっている。

それは「温湯法」と呼ばれている方法で、モミを60℃の温度に10分間浸すだけの簡単な方法だ。60℃という温度は生玉子が白く固まり、ゆで卵に変質していく温度。種にとっても危険な温度なのだが、漬け込む時間を守りさえすれば、ほとんど農薬使用と同じぐらいの効果を上げることができる。更にこの方が農薬代はかからないし、使用後の廃液に頭を悩ますことも環境を汚すこともない。私がこの方法に改めたのはある事件がきっかけになっている。その事件とはこんなことだ。

「チョット来てみてくれ。大変なことになった。」緊張した表情で我が家を訪ねてきたのは近所で同じ米づくりをしている優さんだった。急いで行ってみると優さんの池の鯉がすべて白い腹を上にして浮いていた。その数、およそ60匹。上流から種モミ消毒の廃液が流れてきて我が家の池に入ったに違いないと優さんはいっていた。こんなことになるとは・・それらの鯉は優さんが長年かけて育てて来た自慢の鯉だった。

農薬の袋には、魚に対する毒性があるので使用後の廃液は「適正に処理するように」と書かれている。農協も、河川に直に流さず、畑に穴を掘り、そこに浸透させるようにと呼びかけていた。でも、畑に捨てたら土が汚染し、浸透させれば地下水だって汚れかねない。また浸透させたつもりでも雨が降って、再び表面水となり流れ出すことだって充分考えられる。たいがいの農家は廃液を自分の農地の下流に捨てていた。一軒の農家の下流はもう一軒の農家の上流にあたる。そんな数珠つながりが上流から下流まで続いていた。更にひどいことに下流では飲み水にも利用している。そのため、廃液をどうするか。種モミの殺菌効果は完璧だが、毎年おとずれるその処理に頭を悩ましていた。そんな中での優さんの事件だった。


そこでであったのが「温湯法」である。この方法を教えてくれたのは、高畠町で有機農業に取り組む友人。方法はきわめて簡単で、しかも、単なるお湯なのだから環境は汚さないし、薬代もいらない。モミの匂いを気にしなければ使用後、お風呂にだってなってしまう。なんともいいことずくめの方法なのだ。
 へぇー、こんな方法があったんだぁ。始めて知ったときは驚いた。いつのころから行われていたのか詳しくは分からないが、あっという間に広がっていくだろうと思っていた。もちろん私も近所の農家に進めてまわったのだけれど、我が集落で同調する農家はごく少数。どうも私には技術的な信用がないらしいとしばらくの間、あきらめていたのだが、先日、農業改良普及センター経由で山形県のうれしいニュースにであえた。

 山形県では「温湯法」で種子消毒をする面積はずいぶん増えて、全水田面積の28%に及ぶと言う(平成29年)。少しずづ増えてはいると思っていたのだが、これほどまでとはおもわなかった。いらっしゃったのですねぇ。ねばり強く環境を壊さない農法の普及に取り組んでいた方々が。久しぶりにいい気持にさせていただきました。俺もあきらめずにがんばるべえ!そんな気持ちになりましたよ。

まだまだ毒性をもった膨大な量の廃液が日本の河川から海へと流れて行っている。どうぞ皆さん!お取引のある農家があれば、くれぐれも農薬に寄らない「温湯法」を進めてください。必ずお近くに「温湯法」の農家がいるはずですから。今年はまだ間に合います。



長年、農業に就いてつくづく思うことは、「土はいのちのみなもと」ということだ。

かつて山形県でキュウリの中からおよそ50年前に使用禁止となった農薬の成分が出てきて大騒ぎになったことがあった。50年経ってもなお、土の中に分解されずにあったのだろう。そこにキュウリの苗が植えられ、実がつき、汚染されたキュウリができてしまったということだ。また、隣の市では、かつてお米からカドニュウムがでたこともあった。
つまり、作物は土から養分や水分だけでなく、化学物質から重金属に至るまで、いい物、悪い物を問わずさまざまなものを吸い込み、実や茎や葉に蓄えるということだ。それらは洗ったって、皮をむいたってどうなるものではない。何しろ作物に身ぐるみ、丸ごと溶け込んでいるのだから始末が悪い。土の汚れは作物を通して人の汚れにつながっていく。
いま、土の弱りも深刻だ。60歳を超えた人ならばそれでも仕方がないとあきらめもつくが、これからの子どもたちを考えれば、ことは深刻だ。

土を喰う。そう、私たちはお米や野菜を食べながら、それらの味と香りにのせて、その育った所の土を喰っている。私たちはさながら土の化身だ。このように土の健康は即、人間の健康に結びつく。食を問うなら土から問え。いのちを語るなら土から語れ。健康を願うなら土から正そう。生きて行くおおもとに土がある。そういうことだ。まさに土は世代を越えたいのちの宝物だ。 

 さて、近年、外国から多くの農作物が入ってくるようになった。いま国の食料自給率は39%。大雑把に言って60%は諸外国からの作物だ。それらの作物を食べながらさまざまな国の土を食べているということだ。当然のことながらその土の汚染も、疲弊もわからないままで。
 
 他方で、海外から押し寄せる作物の安さに引きずられ、国内の農業はより一層コストの削減をすすめざるをえない。農法は農薬、化学肥料に更に傾斜し、土からの収奪と土の使い捨て農業が広がっていく。

 私たちに求められているのはこのような土の収奪と使い捨ての道ではなく、時代に抗い、土を守り、その上に人々の健康な暮らしを築いていく。大げさに聞こえるかもしれないが、そんな人間社会のモデルを広くアジアに、世界にと示していくことこそが我々の進むべき道ではないのかと思うがいかがなものだろうか。

 これをグローバリズムに対する百姓の一つの答えとして、私はその道を歩んで行きたい。



「農民講談師」

しばらく前のこと、携帯電話をみたら「03-0000-0000」の着信暦があった。
「先ほどお電話いただきました菅野と申します。ご用件はなんだったのでしょうか?」
「あのう、失礼ですがどちらの菅野さまでしょうか?」
電話の相手は受付係のような感じだ。そうか、向こう様は会社なんだ。
「山形県の百姓です。30分ぐらい前にお電話いただいたようですが・・・。」
「そうですか。それではしばらくお待ち下さい。こちらでお調べいたします。」
「ありがとうございます。ちなみにそちら様はどのような会社なのでしょうか?」
「はい、『東京○△』ともうしまして芸能プロダクションです。それではお待ち下さい。」

なに!芸能プロダクション?
そのような職種に友人はいない。ということは・・・会社の業務としてわざわざ電話をくれたということか。
だとすると・・・もしかしたら・・・おれに?そうか。時代はついにここまで来たか。やって来たのか。

「青年達よ。無くなったって誰も困らない虚飾の文化(仕事)の中で、貴重な人生をこれ以上浪費するのはやめよう。自分を擦り減らすのはやめよう。田園まさに荒れなんとす。日本を土といのちから問いなおそう。築きなおそう。農業と農村は君達を待っている。」

 プロダクションに興行実務を依頼しながら、俺は百姓として、百姓のままで、広く全国にこんなメッセージを飛ばし続ける・・・うん、いいかもしれない。

 今だから言うけれど、今は亡き作家の井上ひさしさんは誰よりも農業の大切さを知っていた方だったが、かつて彼が主催する「生活者大学校」で3度ほど講師を務めたことがあった。何回目かの時か、井上さんは私にこう話された。

「菅野さん、あなたの話は一つの芸になっているよ。さらに磨いて農民講談師となり、農の大切さを訴えながら、全国を話してまわったらどうだろうか?」、「え、こうだんし?」「うん、玉川ナニガシとか、一龍齋ナントカとかの、あの講談師だよ。いけると思うよ。」
大作家の井上さんから直にいただいたご助言。かなり、グラッときましたよ。

 実際、今までもいくつかのラジオに出て、久米ひろしさんや伊奈かっぺいさんなどと「土、いのち、農、」の話をする機会があったのだけれど、局の人に言わせればけっこう評判は良かったという話だ。自分で言うのも変だけれどナ。
 まあ、他にも、そんなこんなで、さまざまな手ごたえを感じてきたのだけれど、まさか、大きな波がこのような形でやってこようとは・・・。農民講談師・・本気で考えてみようかな。

 絶滅危惧種になりかけている農民、崩壊目前に追い込まれた農村。これによって日本農業のみならず日本そのもの崩壊が近づいているのかもしれない。こんな時だから、ここはひとつ、覚悟を決め、これからの人生を講談師にかけてみようか!まだ時間はある。

「あのう、菅野さま。ただいま調べましたが社員の中には該当者はいませんでした。申し訳ございません。間違い電話だったかと思います。」
「えっ、間違い電話ですか?」
「はい、菅野様は当社のオーデションをお受けになりましたか?」
「オーデション?いいえ、なにも特技はありませんので。」
「それではやはり間違い電話だったと思います。大変ご迷惑をお掛けしました。」
「えっ、あ、えっ、そ、そうですか・・」

後日、この出来事を村の百姓仲間たちに話したら、さんざんからかわれ、酒席を大いに陽気にさせて終わったよ。せっかく農民講談師、覚悟を固めつつあったのに・・。

だけどな、ま、こんな笑える話はわきに置くとして・・だ。いよいよ農業は来るところまで来てしまっている。この現実は笑えない。


  農業を通して知った、地域の微生物と人間の身体について書きました。人々の無知に乗じて、あまりにも陳腐な「除菌」宣伝が多すぎると思ったことがこの文章を書いた背景にあります。少し長いですが読んでいただけたら嬉しい。

 我が家では1,000羽のニワトリたちを大地の上で飼っている。健康でおいしい玉子を得るためだ。
ある日、鶏舎から外に出たニワトリ達をぼんやり眺めていたら、土を突っつき泥水をすすっていることに気がついた。鶏舎の中にはエサがあるし、きれいな地下水だって絶え間なく注いでいるのに何を求めての事なのだろうか。
私はそれまでニワトリたちに、餌を「石川県の菌」で発酵させて与えて来た。外には地元の菌、身体には「石川県」。こんなミスマッチは自然界にはありえない。これを是正するために地元微生物の塊である土を体内に取り込もうとしていたのではないか。そう考えた。

  この私の仮説を分かっていただくには前置きが必要となる。まず土の中の微生物。わずか1グラムの肥えた土の中に十数億余個もの微生物が存在しているという。その働きは多岐に渡る。その世界を浅学の身でとても説明できるものではないが、森の松の木の根本で息絶えたウサギが、鳥や獣に食べられたわけではないのに、いつしか解けるように小さくなり、消えていったとすれば、それは微生物たちの働きによるものだ。このことは俺にも分かる。

 人間の身体の中の彼らの働きも大きい。食べた物が胃から腸に送られ、やがて分解されて養分となり、身体に吸収されていく。これは誰でも知っているが、この行程にもたくさんの微生物が関与していて、彼らの助けがなければ食べた物を取り込むことができない。微生物の助けをかり、養分を吸収するという点では植物も動物も人も一緒。彼らがいなければいずれも存在できない。

 私は人間の身体の中の微生物たちのすさまじい数をウンコを通して知った。いいか、聞いて驚くな。先ほど1gの土の中の微生物の数を10数億と言ったけど、ウンコはそんなものじゃない。わずか1gの中に1兆個も含まれているのだ。1日500gのウンコをしたとすればその500倍の微生物(腸内細菌)が体外へと排泄されていったということになる。だからといってあわてる必要はない。体外から、あるいは自己増殖で毎日その分は補われているのだから。微生物が出たり入ったり・・人体を巡っているということか。

 彼らはいつ人の身体の中に入って来るのだろうか。このことについて、以前NHKのTVがこんな趣旨の放送をしていた。
「人間の赤ちゃんが生まれ出た時は無菌状態だが、外界に出たとたん、空気中から、母親の皮膚から、あるいは・・あらゆるものを通して、体内に侵入し、わずか3日ぐらいの間に生きるに必要な微生物が全てそろう。その日以来、ずっと人間の生命活動の一端を担ってくれる」という。
この微生物だが、全国どこでも同じだというわけではないらしい。植物や動物たちがそうであるように、微生物も気候条件によって微妙に棲み分けている。
身体の中でも、雪国の私の中に棲んでいる微生物と、温暖な地方に住んでいる人の微生物とでは決して同じではない。

 こんな話があった。来日し、私のところに長く生活していたタイ農民の友人と久しぶりにタイで再会した。彼の話によると、タイに帰った後、下痢が続いてどうしようもなかったという。
「日本の菅野のところで長く暮していたので、タイ人の俺も菅野のところの微生物の身体になってしまっていたんだ。下痢はタイの農村に帰って来てから始まった。でもそれは日本からこちらの微生物におきかえられるまでの出来事だったよ。」この話は地域と微生物と身体の関係を表していて面白い。
有機農業に「身土不二」という言葉がある。もともとは仏教からきた言葉だそうだが、身と土(自然)は一つであるということだ。つまり、人間はその地域の自然の一部だから、この自然と調和して生きることが大切だと教えている。この言葉の字面だけを見ると分かりにくいが微生物を通して考えれば良く分かる。
さあ、お分かりいただけただろうか。私が想像したニワトリたちが土を突っつく背景を。私はさっそく「石川県」をやめ、地元の山から土をとって来て、餌を発酵させた。内も外も山形県。ニワトリたちはスズメやヤマドリたちと同じように地元の自然の一部として大地の上を遊びまわっている


私が脳出血で倒れたのは2017年の9月6日のことです。すでに1年と4カ月ほど経っています。友人からの求めで、「異変」と題して書いていたモノをここに掲載しました。これは前回の続きです。まず、(1)をお読みください。以下はその(2)です。

『私の異変(2)』

リハビリセンターでの訓練は、身体の運動機能に関する「理学療法」と、もう少し細かく、生活するうえでの機能の回復を図る「作業療法」、読み書き、話すことに関わる「言語聴覚療法」と三つの分野に分かれている。それぞれが50分から60分、合わせて3時間弱を1セットとして、毎日繰り返されていた。あとは自由時間。でも私はその自由時間こそ本当のリハビリの時間だと考え、自主トレに励んでいた。
「実際はな、1日1セット3時間では足りないよ。だけど点数の枠があって国民健康保険の中に経費を収めようとしたら、そのぐらいの時間しか取れない。だから、それとは関係なくリハビリに励むことが肝心だ。」
このように忠告してくれたのは医療関係に勤めていた友人だ。そんな助言や、「3カ月の壁」と言う話もあって、少しの時間も無駄にすることなく、早朝から消灯時間になるまで、いや、消灯になってからも小さな照明をつけて、計算や漢字ドリルなどに取り組んでいた。
「菅野さん、あまり無理をしないでよ。身体を壊したら何にもならないからね。」「いつか菅野さんの努力を本にしてみたら。きっと多くの人が励まされると思うよ。」
そう声をかけてくれたのは、時々顔を合わせる看護婦さんだ。「本」と言うのは病院内の読まれていた会報のこと。自分では無理をしているつもりはなかったのだが、外から見たらそのように見えたのだろう。


計算ができなくなったことは前号で書いたが、漢字も読めるのだが書けなかった。「山」とか「川」などの簡単な文字は何とかなるけれど、少しでも込み入った字は書けなかった。イメージは浮かぶけれど・・・。そこで「小学漢字辞典」を妻に頼み、収められていた漢字を片端から書いていった。
文章を読む力も大幅に落ちていた。それだけでなく、読んでも意味が記憶としてとどまらない。読み進みながら、既に読んだ箇所を忘れていく。だから文全体の大意をつかむことはなかなかできなかった。取り組んだのは、新聞の「人生相談」やコラム欄のようにそう長くなく、難しくもない文章を探し出し、ゆっくりと声に出して読むこと。あっちこっちにつっかえ、何度も読み直しながら字を追っていく。これと合わせて「藤沢周平」の世話にもなった。小説なので「大意」をつかまないと前に進めない。同じところを繰り返し読むことで意味をおさえる訓練にもなった。
このように、私の障害は外見上、何の問題もないかのようだったが、内面はけっこうやられていて、その一つ一つの克服に向けた訓練が毎日の「自主トレ」の課題になっていた。
努力の方向ははっきりしている。ただ成果が出るかどうかは定かではなかった。でも、向かって行くしかない。
さらに加えてもう一つの出来事があった。医師から「あなたは視界の半分しか見えていません。出血によって神経が損傷しています。『半盲』状態です。免許証は難しいかもしれません。」と告げられたのは入院して1週間が過ぎた頃だろうか。運転免許証は無理・・。病気をきっかけにして、暮らし方、生き方を変えなければならないことは分かっていた。変えようとも思っていた。だけど車がないとなると・・考え始めたら眠れない日々が続いた。友人は「弱者の心が分かる人間になれるよ。」などと評論家のようなことを言っていたが、本人にしてみたらそれどころではない。やがて幸いにも出血部のハレが引き、神経への圧迫がとれたからか、医者が無理だと言った視界が少しずつ戻ってきて、運転免許は大丈夫になったが、それまでのおよそ3カ月余り、車がない中でどう暮らしていくのか、失意の中で、答えのない煩悶を繰り返していた。

失った力の8割は戻って来てくれた。算数の加減乗除は何とかこなせるようになった。小学生の漢字の半分は書けるに違いない。小説も意味をおさえながら読めるようになったし、文章も何とか書けるようになってきている。
リハビリを含め45日の入院生活。限りある人生をどのように生きるべきかを自分に問う得難い機会を得たと思っている。だからこそ何を捨て、何を守るか。どう生きることが大切か。なかなか答えはないけれど、その問いは今も続いている。



 友人がこんな事を話した。
「お前が脳出血で突然倒れたこと、そこから頑張って今の生活を再開できたこと。その経験は貴重だ。他の所ですでに書いていることは知っているけど、このブログでも掲載してほしい。多くの人たちの参考になると思うから。」


 既にあの出来事があってから1年と4カ月になろうとしている。
私は今も引きづりながら生きているけれど、だから決して「過去」のモノとはなっていないけれど、彼が言うように、私の体験が他の方々のお役にたてるとしたら、むしろありがたいです。ここにも掲載いたします。
「異変」(1)と(異変}(2)があります。

異変(1)

異変が起きた。世の中のことではない。この私の身体のことだ。
昼食後のガランとした地元のレストランの一室。東京から来た8人ほどの青年たちを前に置賜自給圏の取り組みについて話していた時だった。話しながらだんだん気持ちが悪くなって来た。昨夜の酒が良くなかったのか。最初はそう思っていたが、そのうち思うように言葉が出なくなってきた。身体の芯から力が抜けていく脱力感も。話すのも難儀になって来た。これはおかしい。こんな感じは今まで経験したことがない。何かが始まっている。
「話は中止だ。申し訳ないが今からすぐに俺を病院に連れて行ってくれ。」
青年たちに、急いで私を地域の中核医療を担う置賜合病院に運んでくれるようお願いした。家族に異変を知らせようにも、あれほどひんぱんに使っていた携帯電話の使い方が分からない。気が動転しているからか?どうもそれとはどうも違うようだ。これも異変の一つか。車は15分ほどで病院に着いた。救命救急のベッドの上。看護師たちが慌ただしく私の周りを動いている。「脳出血ですね。」との医師の声を聞く。私はどうなってしまうのか。ぼんやりとそんなことを考えていた。

幸運だった。きっと近くを神様が通り過ぎようとした時だったに違いない。その衣服のどこかにしがみついたのだろう。なんとかいのちは繋がった。
翌日には集中治療室から個室にまわされ、やがて間を置かずに4人部屋に移っていった。脳出血で倒れたと聞けば助かっても言語障害とか、機能障害とかの何らかの重い後遺症がつきものだ。いままでもそんな実例をたくさん見て来たし、実際、友人にも重篤な後遺症に苦しんでいる人がいる。私の場合は処置が早かったからだろう。幸いにも話すこと、歩くこと、書くことなどの基本動作への大きな影響はなかった。ただ、計算能力、漢字を書く能力には少なからぬ影響が出ていた。
「5+2=」などの瞬間的に答えが浮かぶものはいいのだが、「15-7=」のように繰り上がり(繰り下がり)のある計算はできなくなっていた。なんぼ繰り上がったのか、繰り下がったのかが瞬時に忘れてしまい、覚えておれない。だから計算ができない。
他にも漢字を書く能力は1年生なみになっていたし、新聞は読めても記憶に残らない。果たしてそれらは回復するのか。傷ついた脳に力が戻って来るのか。
「三ヶ月の壁」と言うことを聞いたのは倒れて間もない頃だ。失った能力が回復しやすい時期は三ヶ月間。それを過ぎてもさらに3カ月はお穏やかに回復するが、半年を超えたらなかなか難しくなると言うものだ。どれだけ医学的根拠があっての言葉なのかは分からないが、頑張る意欲を掻き立てるに十分だった。やるしかない。
1ヶ月間は小学1年生の計算ドリルと格闘していただろうか。でも、いくら頑張っても進歩が感じられなかった。もともと肝心の脳の一部が障害を受けたのだから仕方ないことなのか。いくら努力をしても無駄で、今はできない現実を受け入れるしかないのか。暗闇のなかに、実際にないかもしれない出口を探すような心細さを感じていた。それでも起きてから寝るまでのほとんど全ての時間をこれに充てていた。私にはそれしかなかった。
そして、ある日突然に・・あれっ、もしかして・・。繰り上がり、繰り下がりの計算の手掛かりが見つかったかもしれない。突破できたかもしれない。そんな感じが生まれた。それが確信に変わった時には、病院の薄暗い食堂で一人、顔を伏せて泣いた。暗闇から抜け出す小さな出口が見つかったこと。障害は克服できる、そんな希望が見つかったこと。それがうれしくて、うれしくて・・・顔を伏せたまま、ぼろぼろ涙を流して泣いた。
(続く)




俺が2ヘクタールほどの水田農業を継いだのは26歳の春だった。出稼ぎ農家から兼業農家に変わっていた父親は、すべてをお前に任せると言ってくれた。そこで農業に就くにあたって、どんな農業をやりたいのか、農民としてどう生きたいのか。まずは「憲法」を作ろうと考えた。俺のことだ。これがなければ右に左に・・と、大きく迷走し、自分の農業を見失ってしまうだろうし、人生だって危うくなりかねない。それを防ぐためにも指針が必要だ。

 まず、「憲法」の基本を「楽しく働き、豊かに暮らす」と定めた。よくよく考えてみるとやっぱりここに行き着く。農業を生業に選んだことの意味はこれに尽きると。誤解の無いように言っておくが、「豊かさ」とはお金のことではないぞ。その上で「四つの基本」を決めた。
1、自給を大切にする農業。
2、食の安全と環境を大切する農業。
3、農的景観を大切にする農業。
4、農家であることを家族で楽しめる農業。
このように作るべき農業の基本を定めた。なんかねぇ。若いというか、このあたりはかなり理屈っぽい。

 次は肝心の、どんな作物を導入するかだ。冬でも農業ができることが必要だ。雪が降ったら家族と別れて出稼ぎに行くようでは父親の世代と同じになってしまう。
ハウス栽培は?雪や風に悩まされそうだ。シイタケやなめこなどのキノコ類は?これもどっかジメジメしている感じでしっくりこない。民芸品づくりは?なんかめんどくさそうだ。それに手しょうが悪い俺のできる世界ではない。いろいろ考えてみるが、これだという世界は見当たらない。そこで幸せそうに暮らしている自分の姿が想像できない。他方で俺が求めているのは肥料の自給。家畜がいて堆肥を作り、肥料を自給できる「有畜複合経営」だ。どのような家畜を買うのか。ここは米沢牛の産地。でも資金の無い俺には牛舎を建て、一頭数十万もする子牛を買ってくるというのは不可能だ。豚とて同じ。豚舎に子豚、元手がかかりすぎる。目指す農業の大枠を定めてはみたものの、そこから先がなかなか見えなかった。

 出口は、偶然手に取った「現代農業」という農業雑誌。そこにはニワトリを大地で飼う「自然養鶏」が紹介されていた。これなら水田との組み合わせができる。くず米、くず野菜、田畑の草などをニワトリに。ニワトリのフンを田畑に。健康なコメと玉子、鶏肉を得るだけでなく、肥料も自給できる。鶏舎の周囲には梅や桜、スモモなどを植えよう。これらは様々な花を咲かせ鶏舎を飾るだろう。暑い夏にはニワトリたちに涼しい日陰を作ってくれるに違いない。その果実からお酒を造ろうか。玉子は市場ではなく直に町の消費者に届けよう。「通信」を書き、玉子に込めた私の思いも伝えて行く。人と人とが食べ物を通してつながっていける。一緒に地域を豊かにできる。市場に出すだけの農業では味わえない醍醐味だ。これで農業がより面白くなっていくに違いない。次々と発想が膨らんで行った。

 あれから40年。鶏舎のまわりに植えた梅や桜は大木となり、二人の子どもはニワトリ達と戯れながら大きくなった。息子は我が家の農業を継いでくれている。今も200軒のお宅にお米や玉子を配っている。だいたい計画通り歩いて来ることができたと思う。いま、改めて、来し方を振り返ってみると、俺の歩みを支えてくれていたのは俺の「憲法」の力だったと気づく。
 今は農業の中心が息子に移った。今度は息子が「憲法」を書く番だ。どんな憲法を書くのだろうか。傍で邪魔せずに見ていたい。

 拙文  大正大学出版会 月間「地域人」掲載






 私の友人に沖縄の暮らし、民俗、文化、歴史、風土などをエッセイにまとめ連載されている方がいます。エッセイの題名は「旧暦耳学問」。連載の数は540回を数えます。文体は常に静かで知的ですが、それだけに深い説得力があります。今回届けられた文章の中に1895年ごろ、アメリカ人の医師で日本―沖縄に滞在した民俗学の研究者が書いた一文が掲載されていました。紹介します。

「紛争と戦争が絶え間なく続く世界に囲まれながらも、人が平和に生き、平和に死んでいく島、琉球。かたくなにその殻を閉ざし、自らの文化を守る島、琉球。
 こよなく平和を愛してやまない琉球の人々を讃えて、かつて中国皇帝は琉球に 『守礼之邦』の称号を冠した。日本の文明の波が押し寄せ、競争という大波がその岸を洗わんとする中、『守礼之邦』の心がいつまでも生き残るよう祈る。そして「守礼之邦」の名に値しない旅人の何者も守礼之門をくぐるなかれと祈る。   ウィリアム・ファーネス(1896)」



 俺がまだ洟垂れ小僧だったころ、東北は山形県の農村でのことだけど、当時は家の中の囲炉裏やかまどでご飯を炊いていた。その煙が村中の家々の屋根から立ち上っていく。だから夕方になると村はうっすらとした煙でおおわれていた。

 男の子は坊主頭で女の子はおかっぱ頭。子ども達は風邪をひいているわけではないのに一様に洟を垂らしていて、それも透明なものではなく、どういうわけか鼻汁は濁っていた。それをしょっちゅうこするため、上着の袖はピッカピカに光っていた。来ているズボンはほとんどが兄や姉からのお下がりで、膝やお尻に丁寧にツギがあてられていた。そんな子ども達が村のあっちこっちで歓声をあげながら走りまわっていた。村全体が子どもたちの遊び場だった。にぎやかと言えば村の中にはヤギやニワトリ、牛や馬が飼われていて、夕方になると「ヒヒ〜ン」や「モオ〜」、「メエ―」や「コッケッコッコ〜」など、動物たちの鳴き声のオンパレード。エサをねだる声が聞こえてくる。犬は当然のことながら放し飼いで、村中を自由に歩き回り、恋をしたり、ケンかをしたり・・・、ストレスの少ない犬自身の人生を楽しんでいた。

 そういえばあのころは酔っぱらった村人がよくもたれ合いながら歩いていたっけ。どこかの家で酒をご馳走になり、「今度は〇〇の家に行くべぇ。」「いやいや、おらえさ行くべぇ。」と一升瓶をぶら下げながらふらふらと。あっちの家、こっちの家と飲み歩く。寄るところはたくさんあったのだろうな。我が家にもしょっちゅう酒飲みが来ていた。実際のところ、村人は良く働いたがよく飲み、よく酔っぱらっていた。
 こんな光景も思い浮かぶ。これは以前にも書いたことだが、ばぁちゃん達の立ち小便。腰巻を前後に広げて、畑の方にお尻を突き出し、両足を広げて「シャーッ」と。小便をしながら道行く人たちと立ち話をしていた。「いまからどこさ行くのや。」「うん、買い物に。お前もえがねがぁ。」「うん、えぐ。」なんてな。そんな光景になんの違和感もなかった。ごく当たり前のことだった。
 お金のかからない自給自足のくらしだった。モノはないけれど、のどかでのんびりとした時間が流れていた。貧しかったけど、子どもも大人もどこかで将来に「希望」をもっていた。

 それからずいぶんと時が流れた。イガグリ頭やおかっぱの子ども達、洟を垂らして外で歓声をあげて遊ぶ子ども達はいなくなった。ツギのあたった服を着ている子どももいない。ヤギもニワトリも、牛も馬も消えてしまった。村を歩く酔っ払いも、立ち小便のばぁちゃんもいない。犬はすべて鎖につながれ苦しそうだ。村はきれいになり、静かになった。だけど・・。
 そして人々はやたら忙しい。子ども達から大人まで、あわただしく暮らしている。村人どうしの関係もずいぶんと希薄になった。大人達の口からはため息を聞けても希望を語る言葉が聞かれなくなって久しい。モノはたくさんあるけれど、みんな・・・あんまり幸せそうではない。どうしたんだろう?どうなってしまったんだろう。どこで間違ってしまったのだろうか?

 おーい!もどってこいよぉー!ヤギもニワトリも、牛も馬も、イガグリ頭やおかっぱの少年少女も・・・酔っ払いも、立ち小便のばぁちゃんもみんな戻ってこい。そして、そして・・みんなでもう一度やり直さないかぁー!今ならできる。まだ間に合うから。





アジア学院
 栃木県の那須塩原にアジア学院というアジア、アフリカ圏の、主に農村地域で活動する人たちが学ぶ学校がある。学びに必要な経費のほとんどがキリスト教の世界的基金や市民の寄付などでまかなわれている。学生たちは、と言っても、牧師さんや農村指導者などそれぞれの国では立派な実績のある人たちなのだが、農作物の生産や畜産、農産加工など農業全般及び農村におけるリーダーシップについて研修を重ねている。学びの基本は地域資源を活かした有機農業。地域をベースとした自給自足を旨とする「生きるための農業」だ。講義はすべて英語でおこなわれ、9ヶ月間の学びの後、彼らはそれぞれの国に戻り、再び”草の根”の農村指導者となって、人々と共に地域づくりに取り組んでいく。
 その学生たちが毎年、我が家を訪ねてくれる。最初に訪れてくれたのは1992年ごろ。だからもう25、6年ほどになろうか。今年も総勢30人ほどの人たちが来てくれた。
外国人などにはほとんど縁がなかった片田舎の我が村に、突然アジア、アフリカ圏の人たちがバスから降りてくる。始めの頃は、いったい何ごとかと集落の人たちもびっくりしていた。
「あの人たちはどこから?」「何しに来たんだい?」
外国人が帰るのを待っていたかのように村の人たちが我が家にやって来てはこんな質問を繰り返した。ん〜、説明が難しい。
 鶏舎の木陰や村の公民館を借りて、今まで取り組んできた資源循環型農業の話や生ごみの堆肥化、その考え方と実践などについて話し合う。その上で、お互いの経験や意見を交流する。続けてきたのはこんなことだった。
でもそれなら1〜2年はあるかもしれないが、25年は長すぎる。何を求めて?私にしたって気になるところだ。で、今回、思い切って聞いてみた。
(話し手;;大僕概子さん:アジア学院副校長)
「学院が行く理由?
たくさんあります(笑)
レインボープランのようなプロジェクトを始めるにあたり、どう地域を巻き込んでいったのか。まず女性グループを味方につけ、そこから商工会、病院、清掃事業所、そのほか地域の人を巻き込んだ上でJAに働きかけ、最後は行政に行ったこと。女性をまず味方にするのは、おそらくどこの国の農村でも通じる方法でしょう。皆、最初に行政にいくから失敗するのだと思います。また、行政主導ではなく住民主導ということは、言うは安く行うに難い。菅野さんたちのこの経験は途上国でも大いに参考になります。
また、競争ではなく協働を心がけてきたこと。競争ばかりが目につく状況は、日本よりも途上国農村の方が激しいですよ。競争は人々を分断します。そこからは協働の事業は育ちにくい。さらに途上国はリーダーと一族で利益を独占し、汚職も多いです。そんな中で、長井の市民たちは、自分のためや、誰か特定の個人の利益の為にやっているのではなかった。「利益を得るのは個人ではなく、地域の人達みんなです。先んじて始めた人であっても利益は平等。」という台詞は、別世界のことのように、ギョッとし、自分もそうあるべきなのだ、と襟を正すでしょう。
これら全てが、元々の「成功者」「村長(あるいはその息子)」が始めたのではなく、運動家あがりの、村で白い目で見られていた若い一農民が始めて、やがて多くの市民の支持を得て行ったというところが最高に面白い。だからこそ、学生は「菅野さんはゼロどころかマイナスから始めたんだ。僕だってできるはず」と大きな勇気をもらうのだと思います。」
 アジア学院が私の経験と言うよりも、それを通して学生に届けたかったのは、地域づくりの中に求められる協働の考え方だ。それは長井市民が実践を持って示して来たもの。国や文化は違えど農業、農村の抱えている問題は驚くほど似ている。それぞれの実践が国境を越え、なお、教訓として共有し合えるということか。
長井市民の一員として、アジア、太平洋圏で格闘する青年たちのお役に立てたことがうれしい。お国に帰られたらどんな喜びや苦労が待っているのだろうか。ともすれば自身の健康や生活は一番最後に回しやすい農村リーダーたち。健康に気を付けて頑張ってほしい。同じ方向を向いている限りきっとどこかで再会できるはずだから。
大正大学出版会 月間「地域人」35号所収 拙著