ぼくのニワトリは空を飛ぶー菅野芳秀のブログ

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紅葉が進む山々、里の銀杏。
それにリンゴや柿などの果物たち・・。
風景全体がカラフルに色づいている里の秋。稲刈りもすっかり終わった。
 
それはそれとして、世界的な食料不足の中、国内の稲作現場では4割を越える減反に、40年前の半値近いコメ価格がまかり通り、若い後継者は農業から逃げ、あるいは村を出て行き、高齢化ならぬ老齢化に歯止めがかからず、村も、地域社会も力を失い、青息吐息の瀕死の状態が続く・・村の秋。

 あっちこっちから、今年限りで「農じまい」の声が届けられる。小農(家族農)の屍が累々・・と横たわるこの国の村。

 すでに手遅れかも・・という状況なのだけれど、為政者にはちっとも響いてない。どうするんだろうね、この国の食料、この国の農業。そしてこの国自体。

政治の劣化が、この国で生きる人々のいのちの危機に直につながっている。
共同通信の新聞から 
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トルーマン大統領の言葉 

 ハリー・S・トルーマン(1884年5月8日 - 1972年12月26日)
アメリカ合衆国の政治家。同国第33代大統領。太平洋戦争(第2次世界大戦)終結時に以下のようなことを公式に言っている。

「猿(日本人)を『虚実の自由』という名の檻で、我々が飼うのだ。方法は、彼らに多少の贅沢さと便利さを与えるだけで良い。そして、スポーツ、スクリーン、セックス(3s)を開放させる。これで、真実から目を背けさせることができる。猿は、我々の家畜だからだ。家畜が主人である我々のために貢献するのは、当然のことである。そのために、我々の財産でもある家畜の肉体は長寿にさせなければならない。(化学物質などで)病気にさせて、しかも生かし続けるのだ。これによって、我々は収穫を得続けるだろう。これは、勝戦国の権限でもある。」

 ここからは俺だが、今もアメリカの占領政策は続いている。日本に独立国としての政治的主権はないに等しい。実態はアメリカの植民地だ。日本の外交政策も、国内政策も、その実、全ては日米の二国間協定の場でアメリカに指示され、押し付けられている。日本政府にはそれを断ることが出来ない。そしてその気概もない。憲法の柱である「国民主権」の原則もアメリカの枠の中でのみ許されている。沖縄も、その他の基地政策も、原発も、食糧政策もすべて主権を放棄させられ、アメリカの思いのままの・・ポチだ。

 ここまで書くと、やっぱり、ここに幾度か書いた寺山修司を思う。
「そうそう、中学校の頃、公演でトカゲの子を拾ってきたことがあった。コカコーラの瓶に入れて育てていたら、だんだん大きくなって、でられなくなっちまった。コカコーラの瓶の中のトカゲ、コカコーラの瓶の中のトカゲ。おまえにゃ、瓶を割って出てくる力なんてあるまい、そうだろう、日本。―中略―身を捨てるに値すべきか、祖国よ。」

 次代に送るべきはそんな日本か?
では何から始めるべきか・・。
その問いに応えるのは俺たちの責任だろう。

小農の楽しさと強さ
――山下惣一さんを想う
 山下惣一(享年86歳・農民・作家)。今年(2022年)7月10日、肺がんのため唐津の病院で亡くなった。家族には「俺は寿命で死ぬのであって、ガン(病気)で死ぬのではない」と繰り返し、言っていたという。「俺は自分に与えられた天命を生ききったのだ」という事だろう。山下さんらしい話だ。
俺は幸運にも彼の葬儀に参列して、遺骨を拾うことが出来た。そして……「骨を拾う」ことの意味を繰り返し自分に問うていた。
 俺が両親の後を追いかけながら百姓としての人生を歩み始めたのは26歳の時。それから2,3年たった頃、偶然にその本『惣一ちゃんの農村日記』(日本農民新聞社)と出会った。
「えっ、こんな人がいたんだ!」いっぺんに持っていかれてしまった。作品上ではあるが、それが山下さんとの心地よい出会いの始まりだった。
 彼は平地に恵まれない佐賀県は玄界灘の山間部の農村で農業を営んでいた。村を覆う現実は何をとっても深刻なのだが、それを村の活きたエピソードとして、村人たちの泣き笑いの中で書いていた。それがすこぶる面白い。タテマエやアルベキ論、理想論のたぐいは一切ない。全てホンネ。だから東北の百姓の俺もスッと入っていける。「そうだ、そうだ」と同調し、笑い、怒り、共感しているうちに、著者の意図した着地点にいつの間にか運ばれている。気持ちのいい読後感と「あ、そうか。そんな見方もあるのか……」と数多くの気づきを与えられた。
以来、今日までいつも身近に山下惣一さんがいた。
 戦後、農政は、一貫して兼業農家や小農、家族経営農家の首切り、淘汰を進めてきた。山下さんはその渦中、彼自身が整理される側の小農、百姓として、小説、評論、ルポなど、50冊余に及ぶ作品を書いて来た。
当時も今も、時の政府は、離農促進政策と規模拡大政策が避けられない「鉄の法則」でもあるかのように触れ回り、それでもなお、農民であることをあきらめない者を恫喝し、農業を続けていくことが世間に対して悪い事でもしているような気分に追い込んでゆく。
「お前たちがそんな小さな農業を続けていること自体、社会のお荷物だ。いつまでこの国の経済成長の足を引っ張り続けたら気がすむのか」。俺自身もこんな言葉を投げかけられたことは一度や二度ではなかった。
「私たちは長い間、日本の農業は零細でダメだ、ダメだと言い聞かせられながら、首をすくめて生きてきました。もっと自信を持ちましょう。専業でも、兼業でも、半農半Xでも、日曜百姓でも、家庭菜園でもいいのです。全て小農です。小農だからいいのです。強いのです。楽しいのです。豊かなのです。そして強い農業が生き残るのではなく、生き残った農業が強いのです」(山下惣一「小農学会設立総会基調講演」から、2015年11月29日)
 山下さんは農と村の現場から、一貫して小農潰しの農政に、異を唱え、逆らい、そのことが農業、農民の利益だけでなく消費者の利益にも、社会全体の安定にもつながっていく道だと主張し、踏ん張ってきた。俺が今日までの農民としての人生を、誇りを失わずに歩んでこれた背景には、山下さんの大きな存在があったと今更ながら気づく。
 また、山下さんは「アジア農民交流センター」と「TPPに反対する人々の運動」の代表者でもあり、実践する百姓でもあった。俺も山下さんと共にそれらの団体の共同代表として、国内だけでなく、タイや韓国などの農民と交流を共にする機会があった。山下さんは現地の農民にすぐに溶け込む。その意味では稀有のオルガナイザーであったとも思う。
 実際に生きたことを言葉にし、話した世界を生きた。決して大言壮語の人、口舌の徒、筆先だけの人間ではない。
 山下惣一。彼の様なような農民は二度と現れまい。間違いなく彼は、戦後日本の自作農(運動)が産みだした屈指の人物だろう。
 小農はいま、いよいよ存亡の危機に追い込まれようとしている。山下惣一さんはすでに逝った。我々に求められているのは言うまでもなく「ため息」ではない。逆らっても抗っても、小農を絶滅危惧種に追い込む政策が勢いを増す中、まず、それらに立ち向かう次代を孕んだ地域事例。それも小農と市民との連携を主体とする地域事例を実態的に築いていくことではないかと思っている。俺はその道を歩み続ける。
山下さんの骨を拾いながらそんなことを考えていた。
コメント11件
岡田照男
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ニッポン!そして君よ!
 稲刈りが続いている。
この時期、稲作農家が気をもむのはコメの出来ばかりではない。カメムシの食痕があるかないかだ。食痕があれば琥珀色の玄米の中にポツポツと黒いコメが混じる。前にも書いたが、その食痕が1,000粒の中に1粒以内ならば一等米。2〜3粒ならば2等米。4〜7粒以上ならば3等米というように格付けされ、農協への売り渡し価格に差が付けらる。ただでさえ安いコメ価格。2等米、3等米になったなら眼もあてられない。作付け面積にもよるが数十万円の差はすぐについてしまう。
 コメ価格の暴落とカメムシの被害による格付けの低さ重なれば・・例えて言えば、好きな相手からフラレタだけでなく、付き合った時にかかったお金がまるまる経費として請求されたようなもの。選挙で言えば落選したところに、借金取りと逮捕状が一緒に来たようなものだ。
 ところで農家はそんなリスクを前にして、緊張しながら食痕の検査を受けているが、米屋さんやスーパーで売られる時には「一等米」も「2等米」もなくなってしまう。ご存知のようにただ品種と産地が書いてあるだけだ。
 もそも3等米程度(1000粒に4〜7粒のカメムシの害があったとしても、食べるコメの味にはほとんど影響がないし、消費者に渡る前に「色彩選別機」にかけてとってしまう。。
 でも、農家は審査を頭に置き、わずかな斑点も無くそうと回数多く農薬散布する。格付けを上げるにはそうせざるを得ないのだ。
日本は世界屈指の農薬大国。食の安全性よりも見た目重視の国。その等級基準を変えれば農薬の量もずいぶん減ると思うのだが、そうはなっていない。
 この制度によって、シミ一つない作物を得る代わりに、トンボやカエルなど田んぼで生息する様々な生き物が激減している。農家が農薬を吸い込み、全身に浴びる状態を招いてもいる。トンボもカエルも農家も苦しい。
 ニッポンは何を大切にしているのだろうか。
 それは国の舵取りの問題だ。そしてこの政府を選んでいる我々一人一人の問題でもある。
 改めて問わなければなるまい。ニッポン!そして君よ!お前はいったい何を大切にしているんだ。国民の命ではないのか!人々の暮らす風土ではないのか!

「値上げしないの?」
「無理をしないで下さい。値上げして頂いても大丈夫ですよ。」
こんなありがたい声を複数、戴きました。確かに燃料代や諸材料費は軒並み上がっていますが、今年は何とか持ちこたえられます。一番大きいのは肥料代がほぼゼロであること・・と言えば誤解が生ずるかもしれませんが・・。
 自然(放牧)養鶏の発酵鶏ふんと、レインボープラン堆肥とで肥料の全てをまかなうことが出き、化学肥料はゼロ。そのためウクライナがもたらす化学肥料の高騰や中国からの資材の高騰の影響は比較的受けていません。ただ、丹念に2種類の堆肥を圃場に撒く為、労働費が化学肥料よりはかかってしまうという事ですが、これは毎年の事ですし、自家労働であるために、お金の出し入れはありません。
また、農薬も値上がりしていますが、もともと菅野農園では農薬の助けを必要最小限としているため、値上がりの影響も大きくはありません。
 問題は燃料代、機械代、資材代など。特に一台数百万円の大型農機の更新には耐えられそうにありません。国の補助は大規模を目指す農業法人などにのみ集中して、小さな農家には一切出ません。壊れたらその時点で離農かどうかを迫られる。化学肥料代ゼロ、農薬代ゼロと努力してもいつも崖っぷちです。この国には農民のやる農業は要らない。そもそも農民は要らない。よって農村は要らない。そういう事でしょう?えっ、違う?

新米の季節になりました。
我が家では10/10が初出荷です。
さて、俺が中学生の頃は、人生で一番と思うぐらい飯(めし)を食っていました。
普通の2倍ほど厚みのあるアルミの弁当箱に、山盛りにご飯を盛り、その上に体重を乗せて押しつぶし、更にご飯を、そしてまた体重を、そしてまた・・。
終いには、弁当に箸を刺し、そのままあげると弁当ごと持ち上がって来るぐらいで・・餅のようになっていました。
ここまで来るとおコメの美味しさもヘチマも無いですね。それでも腹が減って、腹が減って、夕方、家に帰るとおにぎりを食べていました。そんなこんなで、あっという間に中学3年で185cm。高校で190cmです。
コメの飯(めし)の力は大きい。
最近、どうも気になる言葉遣いがある。
若い人の話す「嫁が・・」という言葉もその一つ。
関西方面が出所で、お笑系のタレントが使いだして広がったものというが、詳しいことは分からない。
だけどとても聞きづらい。
 家父長制度に組み込まれた女性の立場(役割)を「嫁」と言っていたが、若いカップルでも妻を指して「嫁が・・」と言っているのを見ると、それとも少し違うようだ。
 だとしても、先輩女性たちが、どれだけの苦労を重ねながら、「嫁」の立場からの人間的解放を求めて闘って来たのかを思い起こすとき、単純に聞き流せない。
 ましてそこに、一方の当事者の「嫁」がいて、うれしそうにそう言う夫の顔を見ていたりしていると、両方ともアホだな、と思ってしまうが、それですましていいのかどうか、村の爺としては、考えるところだ。
ツバメの話。先日、我が家の軒先からツバメの親子が巣立って行った。それはそれで良いのだが、考えさせられたことがあった。
 親鳥程に成長しているヒナ、それでも巣から出ようとせず、(横着にも)親が運んでくるエサを大きな口を開けてビービー言いながら待っている。そんな子ツバメを見ながら、最初はかわいいと思っていたが、やがて親がかわいそうだと思う様になって来た。そして思い至った。あの子ツバメはかつての俺だ。
 俺はすでに中学生ぐらいから、親に勝る大きな身体になっていたが、農作業をあまり手伝うこともせず、親から一方的に「エサ」を運んでもらっていた。両親はいつもくたびれていたのに・・。その両親、当時どんな思いを持って俺に「エサ」を運んでいたのだろうか・・。俺はその後、両親の苦労に見合う生き方をして来たのだろうか・・。それに思い至ってから、エサをねだる子ツバメの声を聞くのが辛かった。
 ま、こんな気分になることもあるよ。
菅野芳秀です。誰にとっても大切な食と農。しかしそれらは混乱と危機の中にあります。その危機を利用するかのように、食と農に結び付きながらナショナリズムが台頭してきました。戦争を経て、私たちはそれらと明確に区別された食と農の世界を構築していかなければなりません。。ご賛同をお願いします。


私たちは農と食が国家主義・排外主義の枠内で語られることを拒否します

2022年8月10日 20:41

【声明】私たちは農と食が国家主義・排外主義の枠内で語られることを拒否します
 私たちは農民です。農民として、自分の身の丈に合わせ、自然と相談しながら営農を持続し、ある者は有機農業に挑戦し、地域の農業を維持してきました。自由に、思いや行動や知恵や技術を発揮できることに誇りをもって食を作ってきました。
 私たちは消費者であり生活者です。私たちは食べる者として、自身と将来世代の誰もが健康で幸せに生きることができるように、安心して食べ続けられるように、消費者生活者としての運動をつみあげてきました。
 それこそが農と食の民主主義だと私たちは考えます。

 7月の参院選は食と農をめぐって、排外主義的な農業でも良しとするのかという問いを私たちに突き付けました。
 はじめて選挙に登場した参政党が、大量の候補者を立て、当選者を出し政党要件を獲得するという出来事がありました。同党は三つの主要公約の一つに「化学的な物資に依存しない食と医療の実現と、それを支える循環型の環境の追求」を掲げ、有機農業や食の安全に関心をもつ人たちの中に小さなブームを巻き起こし票を集めたのです。
 同党は綱領の第一に「天皇を中心に一つにまとまる平和な国をつくる」を唱え、主要公約の一つに、「日本の舵取りに外国勢力が関与できない体制づくり」「外国人労働者の増加を抑制し、外国人参政権を認めない」を掲げています。国家主義・排外主義の色彩が極めて濃い政党です。
 有機農業運動はこれまで一貫して国際交流を大事にし、海外の実践に学び、日本の経験を分かち合いながらその思想や技術を発展させてきました。食の安全を求めて運動している消費者生活者は、世界中誰もが安心して食べられる世界をめざしています。国家主義・排外主義は私たちのこうした思いや実践と相いれません。
 いま日本では、国民の危機意識を煽りながら軍備の大拡張に動き出しています。そのために邪魔になる憲法の改定が具体的な政治日程に上がっています。あらゆる分野で「安保優先」の動きが強まり、国家による監視と統制、排外主義が持ち込まれようとしています。農と食という生命の再生産をつかさどるもっとも人間的で自由でなければならない分野も、例外ではあり得ないと私たちは懸念します。

『私たちは、農民、消費者生活者が取り組む農業生産活動、有機農業や食の安全をめざす運動が、国家主義・排外主義の枠内で語られることを拒否します。』そのことを言いたくて、この声明を発します。

 世界人権宣言や国際人権規約に明示されている「食料への権利」は、人は誰でも、いつでも、どこに住んでいても、心も体も健康で生きていくために必要な食料を作り、手に入れることができる、すべての人が生まれながらにもっている権利として位置づけられています。私たちは、この声明の出発点を「食料への権利」に置きたいと考えます。
 この声明に賛同いただける個人・団体を募ります。ぜひご一緒に
2022年8月11日
<呼びかけ人>
天笠啓祐(ジャーナリスト)
伊藤幸蔵(山形 米沢郷グループ代表 百姓)
大野和興(農業記者)(事務局)
菅野芳秀(アジア農民交流センター代表 百姓)
纐纈美千世(特定非営利活動法人日本消費者連盟事務局長)
小関泰弘(置賜百姓交流会世話人 百姓)
近藤康男(TPPに反対する人々の運動世話人)
坂本華祥(僧侶)
榊田みどり(ジャーナリスト)
濱邱┿辧焚凌諭
佐藤藤三郎(山形、百姓)
鴫谷幸彦(新潟、上越有機農業研究会)
菅原庄市(置賜百姓交流会世話人 百姓)
西沢江美子(秩父雑穀自由学校主宰、ジャーナリスト)
土本満智子(北海道 農民)
高橋寛(山形大学名誉教授)
谷山博史(沖縄 日本国際ボランティアセンター顧問)
天明伸浩(新潟、百姓)(事務局)
徳野貞雄(熊本大学名誉教授、九州小農学会副代表)
中村易世(『土と健康』編集委員)
長里昭一(秋田 百姓)
原村政樹(映画監督)
疋田美津子(しらたかノラの会)
堀井修(新潟、百姓)
堀純司(国際有機農業映画祭運営委員)
牧野時夫(北海道 有機農園えこふぁーむ代表) 
村上真平(三重 自然農法実践、農の学びの場づくり) 
八重樫真純(岩手、百姓)
山岸素子(特定非営利活動法人移住者と連帯する全国ネットワーク事務局長)
吉岡香・照充(神奈川 百姓) 
山本伸司(鹿児島、パルシステム生協連合会顧問)
渡部務・美佐子(高畠 有機農業実践者)

◆事務局担当 ・大野和興  ・天明伸浩
◆お問い合わせ・連絡先
 (賛同いただける個人・団体は下記にご連絡ください。)
 メールアドレス rural@kind.ocn.ne.jp 
 電話 050−3569−8757
 FAX 0494−25−4781
佐藤藤三郎さんは、山形県上山市狸森(むじなもり・旧山元村)在住で昭和10年生まれの86歳。現役の百姓だ。ペンを持つ農民として佐賀県の山下惣一さんや、山形県上山市の木村迪男さん、同じく山形県高畠町の星寛治さん、山形市の斉藤太吉さん等と共に全国に良く知られた方で、置賜地方の俺たちも県下の百姓同様、彼の事を親しみ込めて「藤三郎さん」と呼んでいる。
藤三郎さんの事をもう少し詳しく紹介すれば、農村評論家、農民評論家、あるいは戦後間もない頃、上山市山元村の小学校に赴任した無着成恭氏から指導を受けた「やまびこ学校」の元生徒会長として・・など様々だが、俺から言えば、やっぱり、山形県を代表する小農であり、山間地で農業を営む象徴的農民だ。
近年、グローバリズムが叫ばれ、農業の世界でも「国際競争力ある農業」、「強い農業」でなければ存在する意味がないとばかりに、効率化、大規模化を推し進め、小さな農業、特に山間地の農業はは淘汰の対象とされて来た。
藤三郎さんはそんな中、農業と山間地を活かした林業で暮らして来た。淘汰される農業農村の立場から現代を捉え、厳しく指弾し、批評する農民文筆家として世に警鐘を打ち鳴らして来た。それでいて決して尖がることなく、また偉ぶることもなく、いつも飄々として親しみやすい笑顔を湛えている。
俺が百姓になったならすぐに訪ねてみようと思っていた人が藤三郎さん。25,6の駆け出しの頃、思い切って電話をかけ、緊張して待ち合わせ場所に。150cm余の小柄な藤三郎さん近づいて来た。満面の笑顔。俺は緊張して立つ190cmの大男。いっぺんに藤三郎さんのペースに巻き込まれてしまった。人間が違う。迫力は体躯ではないと実感した出会いだった。

藤三郎さんが暮らす地域は、奥羽山系の中でも狸森という地名通りの山合の村で、果たしてここを車が登れるのかと思えるほどの狭く急な坂道を登って、下って、また登って・・の所にある。佐賀県の山下惣一さんは、かつて藤三郎さんの事を「ぴょんぴょんと跳ねるように歩く人」だと言ったことがあったが、彼の集落を訪ねてみてその原因が良く分かったと言う。そのように歩かなければつまづいて転んでしまうからだと。なるほど、言われてみればそうかもしれない。
藤三郎さんはその村で田んぼを作り、炭を焼き、牛を飼いながら、つい最近まで農業を続けて来た。
その藤三郎さんが農仕舞いをしたという。戦中に生を受け、敗戦が10歳前後。一貫して 村で暮らし、農業と林業で生きてきた。それは、この国、村、農業を襲った激動の現代史とも重なる。決して他所事ではない。もしかしたら、藤三郎さんの農仕舞いはそのままこの国の農仕舞いとなるのかもしれない。いま藤三郎さんの胸に去来するものはなんなのだろうか。藤三郎さんに聞いた。

「田んぼかい?今は雑草が生えたままになっているよ。引き受けてくれる人は誰もいないからな。田んぼに気の毒でよぉ。田んぼには悪いことをしたなぁと・・今も思ってるんだ。」
「再び農が力を得て、村を守る、よみがえる。若い人たちが堂々と村で生きられるような社会、地域が本当に実現できないかと考えている。そんな希望を今も捨てていない。そのためには農業を大規模化するのではなく、農+農外収入の兼業で、村と小さな農業を共に残す。若くはないがそんな地域社会づくりに貢献したいと思っている。」
「経済、流通のグローバル化で狸森の様な山の中で暮らしていても肉や魚が食べられる。でもすべては金に依存する。その方向では肝心の地域社会が維持できない。崩壊していっている。豊かな暮らしでなくても良い。例えば山形県を3〜4のブロックに分けて、地域資源に依存した新しい地域自給の仕組みを作って行くことができないかと考えている。地域が残るにはそれしかない。」

藤三郎さんが最後に力を込めて
「岸田総理は新しい資本主義というが、求められているのは『新しい社会主義』だと思う。」と語った。この一言に、藤三郎さんの歩んで来た足跡、これからも歩み行く方向が凝縮されているように思えた。コロナカ禍のなか、久しぶりに出会えた学びの時間だった。


友人で、国際有機農業映画祭運営委員の笠原眞弓さんが、日本有機農業研究会の機関誌「土と健康」誌に、拙書「七転八倒百姓記」の書評を書いてくれました。笠原さんはこのフェースブックでも平和、平等、反差別、反原発、沖縄との連携・・などの視点から感性豊かな発信を続けておられます。
 そんな彼女からの書評を光栄に思い、皆さんとも共有したく、ここに掲載いたします。                
ー「田舎」の出世は「堂々たる田舎」になることー
『七転八倒百姓記 地域を創るタスキ渡し』
<農的景観を大切にしたい>
朝日連峰の山々が視界をさえぎるまで、出穂前の緑の稲が風で揺れていた。ここは、山形県置賜地方。菅野芳秀さんの田んぼは、その一角にある。都会育ちには、この景色を保つのに一体どれだけの苦労が必要か、なかなか想像しがたい。しかし彼らは、何も「景色」を保つために百姓仕事をしているのではない。泥の中を這いつくばり、日の出から夜中まで、雨が降っても作業をやめないこともある。その結果としての「緑の稲田」なのである。
 本書を手にすると、百姓をすると決めた時に目指す農業として4項目を挙げ、その3番目に「農的景観を大切にした癒しのある農業」とある。この「優しい景色」は、農業をすることの大事な動機付けでもあるのだ。ちなみに2番目には「食の安全と環境を大切にした農業」とある。
 彼は、分家して3代目の農家になるはずだったが、別の道を進もうと画策し、新聞奨学生として上京に成功する。
農学部2年の時の農業実習の授業で、教授の言う農業政策に農業のための政策がないどころか、工業の発展のために貢献する農業であることに気づき憮然とする。
<「堂々たる田舎」を創ろう>
 そんな気持ちを抱きながら「三里塚の百姓の闘い」に刺激を受けて現場に入り、やがて沖縄に行く。そこで地に足の着いた地元の人たちの生活と抵抗をつぶさに見て、大きな影響を受ける。田舎の出世は都会になることではない。地元に「堂々たる田舎」を創ろうと置賜へ帰るのである。
 今でこそ大卒の農家は珍しくないが、当時は大学へ進学したらそのまま町で暮らすのが当然だった。そんな中で彼は、農家になる決心をする。イヤイヤ戻ったのではなくて、ゆるぎない選択であった。
 そして折しも始まった減反政策に反旗を翻すのである。一人でも減反しないと集落全体が助成金を貰えない。連日の説得に、ある日矛を収める。しかしそれは決して敗北ではなかった。若造(本人)は学び、周囲もこの取り組みに、強い影響を受けていた。
菅野さんの頑張りは、減反反対とアジアの農民との交流のほか小さなグループでの減農薬のコメつくりが、やがて置賜地方全域からヘリコプターによる農薬の空中散布廃止に到る迄、有機的につながっていく。その中でも特筆すべきは、生ごみの堆肥化「レインボープラン」(1997年稼働)への取り組みである。
 減反反対運動を抑えようとした市長は、一方で彼の徹底した抵抗が、自己の利益のためではなく、農家の誇り守ろうとしていること。それを感じ取り、彼のその後を見守っていたと思われる。市長は、彼が地元の小さな足場で頑張っているときに、市長の肝いりで始まった地域づくりに彼を委員として加えたのだ。それまでの一貫した農村をお輿していこうとする理念と組織力、推進力を認めたということだろう。この頑丈な足場を生かして実現したのが「レインボープラン」だったのだ。その経験が、広範囲な置賜自給圏に広がって行った。
<市民運動の作り方の指標に>
この本を読み終わった時、二つのことを強く思った。一つは、百姓としての彼の七転八倒が、広く市民運動の作り方への指標となっていると。それは、「いくつかの教訓」という項にまとめられていて、この本がさまざまな人に受け入れられるだろうと思われた。またその教訓は、期せずしてジェンダーにもかかわっている。
レインボープランを形にしていく中で、彼は地域の女性たちの力を恃みとし、支えられた。結婚して集落外から入ってきた女性たちは、よそ者だ。事を成そうとしたとき、違う考えを取り入れることの大切さを学んでいた彼は、積極的に女性の意見に耳を傾けた。農村は、表向き男性優位だが「農協は婦人部でもっている」と聞いたことがある。まさにそうなのだと思う。
 もう一つは、父親が彼の防波堤だったのではないかということ。東京の大学に出した時点で跡取りのことはあきらめていたかもしれない。それが帰ってきた。しかも農村の和を乱す減反反対を掲げて。それでも父親は、息子に何も言わない。地に落ちた柿の種が新しい芽を出すのを見守るように。
 すでに「家督」を頼もしい息子に譲った菅野さんは、これまでの経験をもとに、今後どんな発展をするのかと思いきや、友人知人を訪ねて、全国行脚をしたいと漏れきく。楽しみである。
          国際有機農業映画祭運営委員
                       笠原眞弓