ぼくのニワトリは空を飛ぶー菅野芳秀のブログ

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「うん、いい映画を観た」

 白鷹町の「あゆーむ」で、映画「わが青春つきるともー伊藤千代子の生涯」を見た。映画の広告に「戦争と無権利の時代、反戦と主権在民を掲げ闘いに斃れた若き女性の真実の物語」とあった。硬い話かなと思ったが2時間を超える大作にもかかわらず、時間の長さを感じさせない。引き込まれた。
 当時、侵略戦争への道をひた走った日本。国家権力が肥大化し、国民を守るための国家が国民を守らず、逆に国民をして天皇制国家を守るための道具、侵略の尖兵に駆り立てていく。そして敗戦。日本の戦没者数(兵隊、民間人)は約310万人。目をそらしてはならないもう一つの事実。日本はアジアを欧米列強から解放すると喧伝したが、実際は日本がアジアを抑圧し、あらゆる点で収奪したこと。戦場となったアジア全域では2000万人を超える軍民が犠牲となった。日本国民も日本軍国主義の被害者なのだが、同時にアジアを抑圧した加害者の一員でもあるという重く、つらい現実が残った。
 もちろん日本国内にも反対者はいた。それらの人たちは日本の良心でもあったろう。だが、国家権力はその数少ない勇気ある人たちを次々に捕まえ、拷問を加え、投獄して行った。それを可能としたのが治安維持法。
「他民族を抑圧する民族の人民もまた、決して自由ではない。」この格言通りの世界がそこにはあった。
 この映画は、高まる軍国主義の中で、勇気をもって反対した女性(たち)の物語だ。当時、女性には参政権は無く、「あゝ野麦峠」で知られた同じ長野県の、紡績工場の女性たちの労働争議などを挟みながら、立ち上がっていく女性たちの姿をも描いている。やがて治安維持法下、ことごとく弾圧され、圧殺され、日本は絶望的な戦争へと突入していく。そんな中、伊藤千代子も拷問の末、虐殺されていく。
この映画を観終わった後、感動と同時に、これは決して過去の話ではない、そんな思いが湧き上がってきた。
 今また、日本は膨大な軍事予算を計上し、自民党が掲げるGDPの2%を防衛費にすれば、世界第3位の軍事大国に。先制攻撃が出来る国。再び戦争出来る国への道を走り始めようとしている。良心が孤立させられ、平和を求める人たちが「伊藤千代子」になる前に、その道を止めなければならない。そんな気持ちにさせる映画だった。うん、いい映画を観た。
今回は玄米の話。
 関心のない方はパスしてください。以下。
我が家はコメの生産農家で、他にも放牧養鶏の玉子と、無農薬大豆の納豆を作っている。
 それらは消費者に直に発送しているが、最近、玄米と「分づき米」と呼ばれる5分づき、7分づきなどの胚芽を残したコメへの注文が増えている。半分近くがそうだ。
「玄米の胚芽には様々なミネラルなどの大切な栄養素が豊富に含まれおり、繊維質も多く、便通も良くなるしダイエットにも効果がある。」
 良く聞く話だが、それらを美味しく食べるには2つのハードルを越えなければならない。
1,美味しく炊ける圧力鍋と出会うこと。2,胚芽を残しても大丈夫なコメに出会うこと。
 まず一つ目。以前、玄米愛好家の人に炊き立てをご馳走になったことがあったが、お世辞にも美味しいとは言えなかった。「玄米だからそこは我慢しないとね・・・」。でも、意義で食べる、頭で食べるというのではなく、美味いから食べるとならなければ長続きはしない。
 という事で、それまでに試した炊飯器、圧力鍋は友人所有のモノを含め5〜6個。これが多いのか少ないのかは分からないが、はっきりしていることは、たいがいの人はそこまで探さず、途中で玄米食をあきらめてしまうだろうという事だ。
 さて、ずいぶん前の事だが関西の自然食レストランに行く機会があり、その時食べた玄米が柔らかく、美味しかった。探せばきっと美味しく炊ける圧力鍋はあるはずだ。
 ある日、同じ県内に自然食のお店を見つけ、試食の玄米を食べてみたら、なんと、関西での記憶にそっくりで、柔らかくふんわりしていて美味しかった。この炊飯器を直ぐに注文した。おかげで今はおいしく玄米ご飯を食べている。
 二つ目の大丈夫なコメと出会うこと。コメに農薬が一番残るのは、玄米の表皮にあたる糠(ヌカ)部分、胚芽の部分だ。玄米を食べる場合、その点に注意することが大事で、普通に栽培したコメは玄米食には向かない。
 ここからは私見だが、各県に「特別栽培米」というのがある。慣行栽培の半分以下の農薬となっていて、ずいぶんましだとは思うが、それでも玄米食には不十分だ。今でもラウンドアップ(グリサフォート系農薬・除草剤)やネオニコチノイド系農薬(殺虫剤)が広く使用されているが、そんな農薬を使用したコメが、たとえ特別栽培米基準に合っているとしても、俺はこれを玄米で食べることは勧めない。
 繰り返すが、もっと多くの人たちが玄米食を楽しめるようになるためには、手軽に炊ける圧力鍋の普及と、それにふさわしいコメ作りの拡大が不可欠だ。それが時代の要請だとも思っている。
 その上で・・偉そうだが・・俺が玄米を更に美味しく食べるためにやっていることを紹介したい。それは1合あたり一つまみの自然塩と、小豆を入れて炊くことだ。ゴマや大豆、乾燥シイタケなども試した。いずれも美味しかったよ。

朝、真っ白な霧が上がると、にぎやかな光景が顔をだす。紅葉するモミジやドウタン、桜などの木々に、色づく柿やリンゴの実の数々。里の秋はそんな光景にあふれている。
庭のリンゴの樹の下をくぐり、我が家の畑に行ってみると、大根や白菜はすでに充分に成長していた。
 雪がくる前に庭木を雪害から守る作業も忙しい。
 山里の深まりゆく秋。冬を前に忙しく働く勤勉な農民たち・・。とまぁ、読む方々は全体を美しく想像してしまうに違いないが、このことをその渦中にいる百姓、それも決して若くはない俺の視点から語れば、また違う風景が出てくる。それれも決して悪くはないが、言うほど美しくもない。そしてな、それをただ外から風景としてみていたのではまず、分かるまい。あえて語ればこんな話になる。以下。
寒くなりましたねぇ。
畑で冬野菜の世話をしていますと思わず鼻水がタラァーッと出てきます。ズーズーッとすするのもなんですから、ヒッと手鼻をかむ。鼻水が霧状になって飛んでいきますぞ。決して手にかかったりはしないね。その辺は熟練ですねぇ。慣れたもんですよぉ。
 どんよりとした寒空の下、頬っかむりして、蟹股で、少し腰の曲がった大男が手鼻をかみつつ野良仕事に励んでいる。こんな姿は、晩秋の雪国に似合いますねぇ。寒村の風景ですねぇ。絵になりますねぇ。でもどこか切なげですねぇ。哀しげですねぇ。憐れさが漂ってますねぇ。
 そう言えば近ごろ、頭のてっぺんで季節の移り変わりを感じ取れるようになりましたぞ。数年前からです。改めて体験してみると・・驚くほど新鮮な感覚ですねぇ。冷気が無防備な頭をジンジン刺激する。こんなことになろうとは想像していませんでしたよ。
 秋の陽はすぐに落ちて、夕暮れが足早にやって来る。昔、晩秋の黄昏時ともなれば人恋しさが一層募り、センチメンタルな気分になったものですが、この歳になるとそれは無くなり、ただ恋しいのは人ではなくお酒。色気もへちまもあったもんじゃありません。でも冷えた身体には熱燗が一番。おちょこに注いだお酒をグィッと一つ飲み干せば、熱いものがあっちこっちに浸み込みながら降りて行く。良いですねぇ、この感じ。
 飲むほどに、酔うほどにどんどん気分が高揚し、「コメがあり、野菜があれば勝ったも同然!文句アッカ!!」などと鼻息荒くして、ついさっきまで、腰が曲がったの、髪の毛が禿げ上がったのと言っていたのが、古風な言い方だけど、「矢でも鉄砲でももってこい!」となるんですね。背はデカいけど、根が単純なんですねぇ。
 冬を含んだ秋。その物悲しさを含め、決して嫌いでないなぁ。秋から冬、それは一つの生命の終わり。鮮やかな紅葉は、枯れ行く冬の前の一時の化粧、終わりゆくいのちの華やぎ。その移り行く季節に浸りながら、我が身の来しかた行く末・・、つまり・・人生を考えて見るのも悪くはない。なっ、分かったべ!ヒッと鼻水飛ばしながら哲学してんだよ。外からではなかなか分かんないだろうがな。
紅葉が進む山々、里の銀杏。
それにリンゴや柿などの果物たち・・。
風景全体がカラフルに色づいている里の秋。稲刈りもすっかり終わった。
 
それはそれとして、世界的な食料不足の中、国内の稲作現場では4割を越える減反に、40年前の半値近いコメ価格がまかり通り、若い後継者は農業から逃げ、あるいは村を出て行き、高齢化ならぬ老齢化に歯止めがかからず、村も、地域社会も力を失い、青息吐息の瀕死の状態が続く・・村の秋。

 あっちこっちから、今年限りで「農じまい」の声が届けられる。小農(家族農)の屍が累々・・と横たわるこの国の村。

 すでに手遅れかも・・という状況なのだけれど、為政者にはちっとも響いてない。どうするんだろうね、この国の食料、この国の農業。そしてこの国自体。

政治の劣化が、この国で生きる人々のいのちの危機に直につながっている。
共同通信の新聞から 
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トルーマン大統領の言葉 

 ハリー・S・トルーマン(1884年5月8日 - 1972年12月26日)
アメリカ合衆国の政治家。同国第33代大統領。太平洋戦争(第2次世界大戦)終結時に以下のようなことを公式に言っている。

「猿(日本人)を『虚実の自由』という名の檻で、我々が飼うのだ。方法は、彼らに多少の贅沢さと便利さを与えるだけで良い。そして、スポーツ、スクリーン、セックス(3s)を開放させる。これで、真実から目を背けさせることができる。猿は、我々の家畜だからだ。家畜が主人である我々のために貢献するのは、当然のことである。そのために、我々の財産でもある家畜の肉体は長寿にさせなければならない。(化学物質などで)病気にさせて、しかも生かし続けるのだ。これによって、我々は収穫を得続けるだろう。これは、勝戦国の権限でもある。」

 ここからは俺だが、今もアメリカの占領政策は続いている。日本に独立国としての政治的主権はないに等しい。実態はアメリカの植民地だ。日本の外交政策も、国内政策も、その実、全ては日米の二国間協定の場でアメリカに指示され、押し付けられている。日本政府にはそれを断ることが出来ない。そしてその気概もない。憲法の柱である「国民主権」の原則もアメリカの枠の中でのみ許されている。沖縄も、その他の基地政策も、原発も、食糧政策もすべて主権を放棄させられ、アメリカの思いのままの・・ポチだ。

 ここまで書くと、やっぱり、ここに幾度か書いた寺山修司を思う。
「そうそう、中学校の頃、公演でトカゲの子を拾ってきたことがあった。コカコーラの瓶に入れて育てていたら、だんだん大きくなって、でられなくなっちまった。コカコーラの瓶の中のトカゲ、コカコーラの瓶の中のトカゲ。おまえにゃ、瓶を割って出てくる力なんてあるまい、そうだろう、日本。―中略―身を捨てるに値すべきか、祖国よ。」

 次代に送るべきはそんな日本か?
では何から始めるべきか・・。
その問いに応えるのは俺たちの責任だろう。

小農の楽しさと強さ
――山下惣一さんを想う
 山下惣一(享年86歳・農民・作家)。今年(2022年)7月10日、肺がんのため唐津の病院で亡くなった。家族には「俺は寿命で死ぬのであって、ガン(病気)で死ぬのではない」と繰り返し、言っていたという。「俺は自分に与えられた天命を生ききったのだ」という事だろう。山下さんらしい話だ。
俺は幸運にも彼の葬儀に参列して、遺骨を拾うことが出来た。そして……「骨を拾う」ことの意味を繰り返し自分に問うていた。
 俺が両親の後を追いかけながら百姓としての人生を歩み始めたのは26歳の時。それから2,3年たった頃、偶然にその本『惣一ちゃんの農村日記』(日本農民新聞社)と出会った。
「えっ、こんな人がいたんだ!」いっぺんに持っていかれてしまった。作品上ではあるが、それが山下さんとの心地よい出会いの始まりだった。
 彼は平地に恵まれない佐賀県は玄界灘の山間部の農村で農業を営んでいた。村を覆う現実は何をとっても深刻なのだが、それを村の活きたエピソードとして、村人たちの泣き笑いの中で書いていた。それがすこぶる面白い。タテマエやアルベキ論、理想論のたぐいは一切ない。全てホンネ。だから東北の百姓の俺もスッと入っていける。「そうだ、そうだ」と同調し、笑い、怒り、共感しているうちに、著者の意図した着地点にいつの間にか運ばれている。気持ちのいい読後感と「あ、そうか。そんな見方もあるのか……」と数多くの気づきを与えられた。
以来、今日までいつも身近に山下惣一さんがいた。
 戦後、農政は、一貫して兼業農家や小農、家族経営農家の首切り、淘汰を進めてきた。山下さんはその渦中、彼自身が整理される側の小農、百姓として、小説、評論、ルポなど、50冊余に及ぶ作品を書いて来た。
当時も今も、時の政府は、離農促進政策と規模拡大政策が避けられない「鉄の法則」でもあるかのように触れ回り、それでもなお、農民であることをあきらめない者を恫喝し、農業を続けていくことが世間に対して悪い事でもしているような気分に追い込んでゆく。
「お前たちがそんな小さな農業を続けていること自体、社会のお荷物だ。いつまでこの国の経済成長の足を引っ張り続けたら気がすむのか」。俺自身もこんな言葉を投げかけられたことは一度や二度ではなかった。
「私たちは長い間、日本の農業は零細でダメだ、ダメだと言い聞かせられながら、首をすくめて生きてきました。もっと自信を持ちましょう。専業でも、兼業でも、半農半Xでも、日曜百姓でも、家庭菜園でもいいのです。全て小農です。小農だからいいのです。強いのです。楽しいのです。豊かなのです。そして強い農業が生き残るのではなく、生き残った農業が強いのです」(山下惣一「小農学会設立総会基調講演」から、2015年11月29日)
 山下さんは農と村の現場から、一貫して小農潰しの農政に、異を唱え、逆らい、そのことが農業、農民の利益だけでなく消費者の利益にも、社会全体の安定にもつながっていく道だと主張し、踏ん張ってきた。俺が今日までの農民としての人生を、誇りを失わずに歩んでこれた背景には、山下さんの大きな存在があったと今更ながら気づく。
 また、山下さんは「アジア農民交流センター」と「TPPに反対する人々の運動」の代表者でもあり、実践する百姓でもあった。俺も山下さんと共にそれらの団体の共同代表として、国内だけでなく、タイや韓国などの農民と交流を共にする機会があった。山下さんは現地の農民にすぐに溶け込む。その意味では稀有のオルガナイザーであったとも思う。
 実際に生きたことを言葉にし、話した世界を生きた。決して大言壮語の人、口舌の徒、筆先だけの人間ではない。
 山下惣一。彼の様なような農民は二度と現れまい。間違いなく彼は、戦後日本の自作農(運動)が産みだした屈指の人物だろう。
 小農はいま、いよいよ存亡の危機に追い込まれようとしている。山下惣一さんはすでに逝った。我々に求められているのは言うまでもなく「ため息」ではない。逆らっても抗っても、小農を絶滅危惧種に追い込む政策が勢いを増す中、まず、それらに立ち向かう次代を孕んだ地域事例。それも小農と市民との連携を主体とする地域事例を実態的に築いていくことではないかと思っている。俺はその道を歩み続ける。
山下さんの骨を拾いながらそんなことを考えていた。
コメント11件
岡田照男
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ニッポン!そして君よ!
 稲刈りが続いている。
この時期、稲作農家が気をもむのはコメの出来ばかりではない。カメムシの食痕があるかないかだ。食痕があれば琥珀色の玄米の中にポツポツと黒いコメが混じる。前にも書いたが、その食痕が1,000粒の中に1粒以内ならば一等米。2〜3粒ならば2等米。4〜7粒以上ならば3等米というように格付けされ、農協への売り渡し価格に差が付けらる。ただでさえ安いコメ価格。2等米、3等米になったなら眼もあてられない。作付け面積にもよるが数十万円の差はすぐについてしまう。
 コメ価格の暴落とカメムシの被害による格付けの低さ重なれば・・例えて言えば、好きな相手からフラレタだけでなく、付き合った時にかかったお金がまるまる経費として請求されたようなもの。選挙で言えば落選したところに、借金取りと逮捕状が一緒に来たようなものだ。
 ところで農家はそんなリスクを前にして、緊張しながら食痕の検査を受けているが、米屋さんやスーパーで売られる時には「一等米」も「2等米」もなくなってしまう。ご存知のようにただ品種と産地が書いてあるだけだ。
 もそも3等米程度(1000粒に4〜7粒のカメムシの害があったとしても、食べるコメの味にはほとんど影響がないし、消費者に渡る前に「色彩選別機」にかけてとってしまう。。
 でも、農家は審査を頭に置き、わずかな斑点も無くそうと回数多く農薬散布する。格付けを上げるにはそうせざるを得ないのだ。
日本は世界屈指の農薬大国。食の安全性よりも見た目重視の国。その等級基準を変えれば農薬の量もずいぶん減ると思うのだが、そうはなっていない。
 この制度によって、シミ一つない作物を得る代わりに、トンボやカエルなど田んぼで生息する様々な生き物が激減している。農家が農薬を吸い込み、全身に浴びる状態を招いてもいる。トンボもカエルも農家も苦しい。
 ニッポンは何を大切にしているのだろうか。
 それは国の舵取りの問題だ。そしてこの政府を選んでいる我々一人一人の問題でもある。
 改めて問わなければなるまい。ニッポン!そして君よ!お前はいったい何を大切にしているんだ。国民の命ではないのか!人々の暮らす風土ではないのか!

「値上げしないの?」
「無理をしないで下さい。値上げして頂いても大丈夫ですよ。」
こんなありがたい声を複数、戴きました。確かに燃料代や諸材料費は軒並み上がっていますが、今年は何とか持ちこたえられます。一番大きいのは肥料代がほぼゼロであること・・と言えば誤解が生ずるかもしれませんが・・。
 自然(放牧)養鶏の発酵鶏ふんと、レインボープラン堆肥とで肥料の全てをまかなうことが出き、化学肥料はゼロ。そのためウクライナがもたらす化学肥料の高騰や中国からの資材の高騰の影響は比較的受けていません。ただ、丹念に2種類の堆肥を圃場に撒く為、労働費が化学肥料よりはかかってしまうという事ですが、これは毎年の事ですし、自家労働であるために、お金の出し入れはありません。
また、農薬も値上がりしていますが、もともと菅野農園では農薬の助けを必要最小限としているため、値上がりの影響も大きくはありません。
 問題は燃料代、機械代、資材代など。特に一台数百万円の大型農機の更新には耐えられそうにありません。国の補助は大規模を目指す農業法人などにのみ集中して、小さな農家には一切出ません。壊れたらその時点で離農かどうかを迫られる。化学肥料代ゼロ、農薬代ゼロと努力してもいつも崖っぷちです。この国には農民のやる農業は要らない。そもそも農民は要らない。よって農村は要らない。そういう事でしょう?えっ、違う?

新米の季節になりました。
我が家では10/10が初出荷です。
さて、俺が中学生の頃は、人生で一番と思うぐらい飯(めし)を食っていました。
普通の2倍ほど厚みのあるアルミの弁当箱に、山盛りにご飯を盛り、その上に体重を乗せて押しつぶし、更にご飯を、そしてまた体重を、そしてまた・・。
終いには、弁当に箸を刺し、そのままあげると弁当ごと持ち上がって来るぐらいで・・餅のようになっていました。
ここまで来るとおコメの美味しさもヘチマも無いですね。それでも腹が減って、腹が減って、夕方、家に帰るとおにぎりを食べていました。そんなこんなで、あっという間に中学3年で185cm。高校で190cmです。
コメの飯(めし)の力は大きい。
最近、どうも気になる言葉遣いがある。
若い人の話す「嫁が・・」という言葉もその一つ。
関西方面が出所で、お笑系のタレントが使いだして広がったものというが、詳しいことは分からない。
だけどとても聞きづらい。
 家父長制度に組み込まれた女性の立場(役割)を「嫁」と言っていたが、若いカップルでも妻を指して「嫁が・・」と言っているのを見ると、それとも少し違うようだ。
 だとしても、先輩女性たちが、どれだけの苦労を重ねながら、「嫁」の立場からの人間的解放を求めて闘って来たのかを思い起こすとき、単純に聞き流せない。
 ましてそこに、一方の当事者の「嫁」がいて、うれしそうにそう言う夫の顔を見ていたりしていると、両方ともアホだな、と思ってしまうが、それですましていいのかどうか、村の爺としては、考えるところだ。
ツバメの話。先日、我が家の軒先からツバメの親子が巣立って行った。それはそれで良いのだが、考えさせられたことがあった。
 親鳥程に成長しているヒナ、それでも巣から出ようとせず、(横着にも)親が運んでくるエサを大きな口を開けてビービー言いながら待っている。そんな子ツバメを見ながら、最初はかわいいと思っていたが、やがて親がかわいそうだと思う様になって来た。そして思い至った。あの子ツバメはかつての俺だ。
 俺はすでに中学生ぐらいから、親に勝る大きな身体になっていたが、農作業をあまり手伝うこともせず、親から一方的に「エサ」を運んでもらっていた。両親はいつもくたびれていたのに・・。その両親、当時どんな思いを持って俺に「エサ」を運んでいたのだろうか・・。俺はその後、両親の苦労に見合う生き方をして来たのだろうか・・。それに思い至ってから、エサをねだる子ツバメの声を聞くのが辛かった。
 ま、こんな気分になることもあるよ。