ぼくのニワトリは空を飛ぶー菅野芳秀のブログ

ぼくのニワトリは空を飛ぶー菅野芳秀のブログ
ログイン

「日本人は農なき国を望むのかー農民作家 山下惣一の生涯」(9/23:NHK総合・午前6時10分〜)は示唆に富む、とてもいい番組でした。 

過去を回顧するというのではなく、これからの農業、これからの日本を考える上での、大きな視点に立った問題提起となっています。
 見逃した方は再放送があります。真夜中ですが、ぜひ、ビデオにとってご覧ください。

 9月26日 同じくNHK総合TV 午前1;20〜2:03 「日本人は農なき国を望むのかー農民作家 山下惣一の生涯」
さすが日本農業を代表する百姓・山下惣一。私は彼の生涯のほんの一部でしかありませんが、行程をともに出来たことを誇りに思います。

 写真は山下さんと若き頃の俺




        山形・置賜の百姓 菅野芳秀


記録的な猛暑となった今夏、山形県畜産振興課によると、今年の7月1日〜8月31日の2か月間に、山形県内で暑さが原因で死んだと報告があったのは、牛が91頭(昨年同期33頭)、豚が78頭(同39頭)、鶏が5630羽(同527羽)だそうです。昨年同期と比較すると、牛が2・75倍、豚が2倍、鶏が10・6倍に増えているといいます。
 菅野農園には1,000羽のニワトリたちがいますが、暑さが原因では1羽も犠牲になっていません。工業養鶏のように狭いカゴに入れられて身動きが出来なくなっている訳ではなく、お日様の動きに合わせて、日陰の涼しい所を選んですごしているからだと思います。
 菅野農園では放牧養鶏。でもでもこの季節、鶏舎の扉を開けても、日中は外に出ようとはしません。風通しのいい鶏舎の中ですごしています。それももう少しですね。やっぱりニワトリ達には秋の野花の咲く野原が似合います。
まだ30℃台の暑さが続くが、確実に秋は始まり、成長している。
コスモスの花が咲き、庭のリンゴも大きくなっている。田んぼでは緑が黄緑に変わり、早い農家ではすでに稲刈りを始めている。
「去年より10日は早まる。」と我が家でも、稲刈りに備えて田んぼの草刈りや、コンバイン整備に忙しい。
 今日、9月14日。ミンミンゼミも最後の一声を絞り出してはいるが、コオロギたちの声が賑やかになって来た。朝、タオルケットだけでは寒い。

 それにつけても今年の暑さ。人類の生存の危機さえ予感させるものだった。
更に加えて、原発とその放射能汚染。農業、食料危機・・。
 求められているのは今までとは違う時代認識。今までとは違う政治選択だ。お互いしっかりしようぜ。
原発の汚染水は福島に放出するな。

これ以上、福島に犠牲を強いてはいけない。
汚染水は一滴漏らさず、東京湾に持って行く事。放出せざるを得ないならそこでやればいい。
「汚染水だ」,「いや、人が飲めるほどだ」
 そんな議論は、東京湾に運んだうえでやればいいこと。
 とにかく、福島にこれ以上犠牲を強いるな!

原発という国策の失敗を福島に押し付ける。そもそも福島は東電の電力をまったく使ってはいない。貧しさを背景に、敷地の提供を押し付けられただけだった。

「日本という国の尊厳」はそれでいいのか!
「日本人としての誇り」は傷つかないのか!

何よりも人として恥ずかしくはないのか!
 親しい友人で、ライターの小野田明子さんから、拙書「七転八倒百姓記」へのありがたい書評を戴きました。書評を書くのは如何に大変な作業かは理解しています。お忙しい中、恐縮です。ありがとうございました。

        以下

 農業従事者の数の減少が止まらない。高齢化もすすむばかりで自給率の向上を叫ばれて久しいのに、と食べる側としても頭を抱える事態だ。当事者である農家の深刻さは想像にかたくない。
 20代で故郷に帰り農家を継いで「堂々たる田舎」を目指した著者50年の歩みは猫の目のように変わる農政とは関係なく、都会と田舎をつなぐ独自の手法を生み出そうとする。
 1つは家庭の生ごみをツールにした生ごみ循環の町づくりだ。レインボープランと呼ばれるこの取り組みは、山形県の長井市を一躍有名にし、視察者が絶えなかった。  次に着手したのが「置賜(おきたま)自給圏構想」だ。グローバル化が限界にきた現在、地域でエネルギーも食糧も自給する取り組みは様々な地域で挑戦されている。
 
 著者は常に現実的な対案を提案し、あらゆる人たちと共に活動することを信条としてきた。土、食、いのちを扱う農業の現場から社会を具体的に変えたいという意思が溢れている。構造を変えるという過程には苦悩はある。しかし考え続け、やり続ける先に失敗はない。地域を創るタスキを受け取る人々がいると信じたい。
全水道新聞に拙書「七転八倒百姓記」の紹介記事が掲載されました。光栄です。書かれたのは全水道東京水道労働組合で組織部長をされている 国谷武志さん。以下はその本文です。

 山形県の農家に生まれ育った菅野芳秀さんの「自分史」。
表紙に刻まれた言葉、「地域を創るタスキ渡し」は、まさに今の私たちに求められていることだ。

 都会の生活の快適さのために、地方に犠牲を強いる社会。より安いものを求める消費行動は、「効率」の名の下に農業の大規模化、法人化を促進させ、生産者や生産地を疲弊させる。気がつけば日本は世界一の農薬消費国。私たちの生活スタイルが自らの命や健康を脅かしている。
 高齢化や土地の荒廃により離農が進み、国内から海外へと供給元が移りつつあるが、その構造は変わらない。
地球規模で農業が、環境が、地域が壊されてゆく。こんな社会が持続可能なわけがない。

 一度は逃げ出した農業、故郷を、三里塚や沖縄の農民、漁民の生き様に学び、ただ嘆くのではなく、地域、行政を巻き込み、持続可能な社会へと変革していく。子供や大地を危険にさらす農薬空中散布の中止から、生ゴミを通じた消費者と生産地を繋ぐレインボープラン、置賜自給圏へと実践を重ね、土を育むことで台所と農地、都市と農村、現在と未来へのタスキが繋がれていく。

 決して容易ではなかった闘いの記録には、これからの社会を切り拓くヒントが散りばめられている。まさに次の時代へのガイドブックである。
古くからの友人で、日本とアジアを民衆運動でつなごうとする市民運動・「APLA」の理事をしている大橋成子さんが、拙書「七転八倒百姓記」の書評をその機関誌;ハリーナ」(人々が創るもう一つのアジア)誌で紹介してくれました。
 分かりやすく、端的に表現できる筆力は相変わらずです。

 (ダブルクリックで拡大してお読みください。)
暑いですねぇ、みなさん。
少し前だが、久しぶりに訪ねてくれた秋田の友人が、「菅野くん、ずいぶんと老けたねぇ。足がふらつき腰も曲がっているよ。頭の髪だってほぼ無くなっているじゃないか。前回あった時はここまでではなかったのに・・。」と、見てはならないモノを見てしまったかのような表情だった。
 その彼は80歳を前にして、なお、がっしりとした体躯を持つ現役の農民だが、73歳の俺は、かつて肩で風切って歩いていた勢いをすっかり失い、春のそよ風にすらあおられて、あっちにフラフラ、こっちにフラフラ・・。ヒザと腰の痛みに耐えながら、歩く様は眼を覆うばかりだとその友人は言う。
すっかり年老いてしまったという事だ。
 でもな、このいびつな身体も、長年無理を重ねて、農作業と地域づくりに休むことなく動き続けて来た結果だ。少し大げさに言えば、志のけっかだとも言える。だから俺にとってはご褒美だと思っている。自分のゆがんだ身体を決して否定せず、無くなった頭髪に引きずられることなく、自分を誉め、自分に拍手を送り、肯定して生きる・・今の心境はこれだね。
 とはいえ、写真とはずいぶん違っている訳だから、写真は替えよう。

 蒸し暑い日が続いている。こんな時は「いもち病」が心配で、県や農協の広報も「いもち病注意報」を出して気をつけるよう呼びかけている。
 「いもち病」とは一種のカビがつくりだす病気で、葉に付いた場合、緑の葉に点々と茶色の斑点ができ、やがて葉の全部が褐変する。葉の「いもち病」は、穂の「いもち病」につながり、ひどい場合は、田んぼ全てが枯れてしまったかのようになる。農家は気落ちのあまり「いっそ火をつけて燃やしてしまおうか。」とすらとなるほどだ。私はまだ経験がないけれど、その恐ろしさは充分知っている。
 高温多湿。「いもち病」の蔓延する条件は充分にそろっている。すでに周りでは田植えと同時に一度目の殺菌防除を終え、二度目の準備を進めているが、殺菌、殺虫ゼロを目標にしている菅野農園では、まだ一度もやっていない。それだけに、息子は毎日田んぼを見まわり、その管理にいっそう気を使っていたのだが、遂に我が家の田んぼににも「いもち病」が発生した。
 発生源は昨年同様、けんちゃんの田んぼだ。手がまわらず、雑草が生い茂っていた。そのため風通しが悪く、「いもち病」の巣になってしまった。そこを発生源に菌は周りに飛んでいく。我が家だけでなく、隣地に田んぼにも広がっている。
「全部の田んぼじゃないが、今年も殺菌剤ゼロのコメとはならないなぁ。」と肩を落とす息子。
 その被害は大きい。ガッカリもする。とはいえ、けんちゃんに責任を求めることは出来ない。田んぼはみんなお互い様なのだ。
 けんちゃんは86歳。もう水田管理することは無理なんだな。だからと言って、我が家で引き受けることも出来ない。他の方法を探すしかないだろう。
 ま、けんちゃん、無理せず、楽しくやろうぜ。その内、1升もって遊びに行くよ。けんちゃんが言うようにまだ人生、半分なのだから。


けんちゃんは満で86歳。現役の稲作専業農家だ。
「ようやく人生折り返し地点まで来た。まだ半分だけどよ。」と、大きな口を開けて快活に笑う。
けんちゃんは今年も、すべての水田に苗を植えた。
「大丈夫か、けんちゃん?コメを作っても赤字が膨らむばっかりだよ。」
「お前なぁ、収支の帳尻が合わないからと言って人生やめる事にしたとはならないべ?コメ作りもそれと同じよ。合うか合わないかではない。コメは俺の人生そのもの。ソコントコ、分かっかな?」といたずらっぽく笑い、いつもの「けんちゃん節」が始まった。こうなると長い。
少し解説を加えれば、田んぼはあくまで田んぼなのだが、そこで働いていると、そこには父母の、そのまた父母の、そのまた・・と、米作りに関わって来た祖先の累々たる労働や時間、思いなどの蓄積が見えてくる。そんな先達のタスキを受け取ることを決めた者にとって、田んぼは、単なる田んぼではなく、そこに残された祖先たちの願い総体だ。
百姓を生きることは、そんなタスキと共に生きる事だ。だから、稲作の収支が合う、合わないの話ではない。ま、その辺の事は俺にも良く分かるよ。
 そんな日本中の沢山の「けんちゃん」のおかげで、コメの暴落の中でも、全国の水田は緑なのだ。
 だが、それも終わりに近い。全国各地から「農終い」の声が聴こえてくる。戦後、農地解放以来、今日まで続いた自作農を中心とした日本農業の歴史と文化。それももう終わりが見えて来た。この先の事?分からない。
ただこれだけは言えるだろうな。すでにこの国が描く農業の未来の中に、農民の存在はない。よって村も無くていいという事だ。そんな農業政策が続いている。環境や食の安全を守り、自給度を高め、この国の食料生産を守ることは農民の役割ではないらしい。全てに渡って効率優先。海外品が安ければそちらに選択をシフトする。よって崖から転げ落ちるような速さで小農(家族農)の離農が進む。その点では労働者にも同じことが言えるだろうか。効率最優先を追い求める政治の先に社会の安定は無い。
そう考える俺たちは、警鐘を乱打し、沢山の時間をかけて訴え続けても来た。そしてコトここに到る、だ。ある意味、もう俺たちの知ったこっちゃない。国も頼りにはならないだろうから、後は生産者、消費者問わず、一人一人が自分(達)の問題、自分たちの生存の問題、いのちの問題として、食い物を手にする道を探る事。創る事。もう、人任せは効かない。日本農業はそこまで来た。
(もちろん皆様には、菅野農園が続く限り、コメや玉子は保障致しますぞ。)
以下は2年前の文章です。どういう訳か、梅雨時になると食べたくなるんですよ。豚の角煮。
<豚の角煮> 
梅雨に入り、暴雨こそありませんが、山形でも毎日が曇りか雨の日が続いています。それに、コロナ、無茶なオリンピック、雇止めへの不安や小粒になった国会議員、汚職がらみの政治・・と。鬱陶しさが増すばかりです。
 こんな時には美味しいものでも食べ、酒を飲んで寝るのが一番。そこで・・夕方まで待って(この辺は俺も小粒だなぁ。)、日ごろあまり食べていない大好きなモノを食べることにしました。根が単純なんです。小粒なんですよ。
 昨晩、まちの居酒屋から「豚の角煮」を買って来て、小皿に並べしばらく眺めてみました。バラ肉が黒っぽく照っています。沖縄のラフティのように黒砂糖と泡盛を入れて煮込んでいるのかな。
ずいぶん久しぶりだが元気だったか?角煮は当然何も応えてはくれませんが、返事の代わりにタマラナイ香りをあたり一面に放っています。箸を入れてみました。スッと入ります。柔らかい。そしていよいよ角煮を口に・・。たまらんですねぇ。口の中でゆっくりと溶けて行きます。それを味わいながら、グビッと酒を飲む。しばし続く至福の時間。口に運ぶほどに、飲むほどに肩のコリが取れていくような良い時、良い酒、良いツマミ。実際、あれやこれやの出来事はどうでも良くなっていったのです。
 ずいぶん安上がりな男ですねぇ。世の中の事はすっかり忘れてる。志の低い男ですねぇ。どうしようもなく小粒なんですねぇ。

ざわわ、ざわわ、ざわわ
広いサトウキビ畑は
ざわわ、ざわわ、ざわわ・・・
あなたもきっとこの歌を1度は聴いたことがあるに違いない。
沖縄戦の辛い体験の中から産み出された
優しくて・・切なくて・・それでいて温かくて・・。
沖縄の大切な友人、崎山正美さんからのシェアです。(下段)


おきなわ季節だより  2023.6.25
さとうきび畑
慰霊の日の日中は事務所で電話番と来館者対応。お客がいない時間は『さとうきび畑』の歌を聴いていた。慰霊の日に『さとうきび畑』の歌を聴くのは、私の長年の習慣となり、この歌への私の思い入れは深い。つくづく寺島さんは沖縄戦で親を亡くした子の気持ちを良く表したと感謝し、尊敬する。寺島さんについては朝日新聞のデジタル版の記事をここに紹介しよう。
さとうきび畑の寺島尚彦さん 沖縄戦悼む
 てらしま・なおひこ 3月23日死去(肺腫瘍)73歳 3月26日葬儀
50年来の友人である詩人の谷川俊太郎さんが、告別式で詩を読み上げた。「いまどんな背景の中に君を置けばいいのだろう/(中略)風にうねるさとうきび畑にひとり立ちつくす君」
 沖縄戦を歌った「さとうきび畑」の作詞作曲で知られる。東京都の出身で、初めて沖縄を訪れたのは64年6月のことだった。
 緑に波打つさとうきび畑で案内人に聞いた。「土の下にまだ戦没者が埋まっています」。このときの衝撃を「ごうぜんと吹き抜ける風の音だけが耳を打ち、戦没者たちの怒号とおえつを確かに聴いた気がした」と著作で書いている。
 歌にしなければ。だが、激しい言葉では音楽を壊してしまう。ならば……。こうして「ざわわ」は66回繰り返されることになった。
 67年の発表当時、「反戦を言わない反戦歌」と評された。歌手の森山良子さん、ちあきなおみさんら30人以上が歌い継いできた。
 意外にも、再び沖縄の地を踏んだのは95年だった。「歌が地元でどう受け止められたか、不安だったようです」と次女の夕紗子さんは言う。コンサート会場で、「いい曲を書いてくれてありがとう」と感謝された。以後、年10回近く沖縄を訪れるようになった。
 常に穏やかな人だったと友人ら。だが脚本家の高木凛さんは、沖縄戦で住民が飛び降りた断崖(だんがい)のゴルフ場で、彼が怒る姿を見た。「どんな気持ちでプレーしているのか。心が痛む」
 01年、沖縄県糸満市の平和記念公園を訪れ、6年前にひざの高さだったクワディーサーの木が背丈を超しているのに気づいた。死者のすすり泣きを聞いて成長するとの言い伝えを聞き、「緑陰(こかげ)」という曲が生まれた。
 <緑陰さえ燃え尽きてしまった/残ったのは悲しみより深い悲しみ/苦しみより重い苦しみ>
 沖縄を歌った最後の歌になった。