ぼくのニワトリは空を飛ぶー菅野芳秀のブログ

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7月31日から8月6日まで前半、後半とに分かれて60名の大正大学人間環境学部の長井・地域実習が続いている。私は学生たちと行程を共にしながら、「生き方」を求めて煩悶していた私自身の若かりし頃を思い起こしている。


「どう生きるか?これはどんな職業に就くかではなく、どこで暮らすかでもない。求めていたのは、人生の生き方だった。
それには背景がある。私は幼い頃よりずっと、農民となって農家を継ぐよう教えられてきた。やがて成長するに従い、その世界を出たいと思う様になって行く。田舎から出ることで人生の可能性が拓ける。ここに留まることはあきらめの人生。そう思うようになっていた。どう生きるかの煩悶を引きづりながら、25歳になった私は沖縄にいた。
そこでようやくその答えを得る。そのころ書いた文章がある。少し硬いが掲載したい。


「1976年、国定公園に指定されているきれいな海を埋め立て、石油基地をつくろうとする国の計画があり、予定地周辺では住民の反対運動が起きていた。小さな漁業と小さな農業しかない村。そこに突然持ち上がった計画は、「本土」各地から拒否され、行き場を失った挙句にやって来たモノ。当時の沖縄の貧しさに乗じて国策として押し付けようとしたものだった。
「村で生きて行くのは厳しい。だけど・・」と、村の青年達は語った。「海や畑はこれから生れて来る子孫にとっても宝だ。苦しいからといて石油で汚すわけにはいかない」。
これは多くの村人の気持ちでもあった。その上で「村で暮らすと決めた人みんなで、逃げ出さなくてもいい村をつくって行きたい。俺たちの世代では実現せずとも、このような生き方をつないでいけば、いつかきっといい村ができるはずだ。」
私はその話を聞きながら、わが身を振り返っていた。彼らは私が育った環境よりももっと厳しい現実の中にいながら、逃げずにそれを受け止め、自力で改善し、地域を未来に、子孫へとつなごうとしている。この人達にくらべ、村の現実を分かっていながら、そこから逃げることしか考えなかった私の何という軽さなのだろう。この思いにつきあたったとき、涙が止めどもなく流れた。ようやく生き方が分かったと思った。逃げたいと思った村を逃げ出さなくてもいい村に。そんな生き方をつないで行くこと。沖縄の青年たちの思いが私の思いとなった。それから数ヵ月後、私は山形県の一人の百姓となった。


村には以前と同じ風景が広がっていた。しかし、田畑で働くようになって気がついた。開墾された耕土や、植林された林など、地域の中のなにげない風景の一つひとつのものが、「逃げなくてもいい村」に変えようとした先人の努力、未来への願いそのものだったということに。地域の中で累々とつないできた人々の願い。地域の「タスキ渡し」。私はその中で守られ、生かされていたのだ。
その日から、私は風景があたたかな先人の体温をともなったものとして感じ取れるようになった。ようやく『地域』がわかった。『地域』が大好きになり、同時に肩にかかっている『タスキ』を自覚できるようになった。

それから40年。私は今も百姓として地域づくりの道を歩んでいる。
・・・ということなんですが、お分かりいただけただろうか。

https://kanno-nouen.jp/
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