ぼくのニワトリは空を飛ぶー菅野芳秀のブログ

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菅野芳秀です。誰にとっても大切な食と農。しかしそれらは混乱と危機の中にあります。その危機を利用するかのように、食と農に結び付きながらナショナリズムが台頭してきました。戦争を経て、私たちはそれらと明確に区別された食と農の世界を構築していかなければなりません。。ご賛同をお願いします。


私たちは農と食が国家主義・排外主義の枠内で語られることを拒否します

2022年8月10日 20:41

【声明】私たちは農と食が国家主義・排外主義の枠内で語られることを拒否します
 私たちは農民です。農民として、自分の身の丈に合わせ、自然と相談しながら営農を持続し、ある者は有機農業に挑戦し、地域の農業を維持してきました。自由に、思いや行動や知恵や技術を発揮できることに誇りをもって食を作ってきました。
 私たちは消費者であり生活者です。私たちは食べる者として、自身と将来世代の誰もが健康で幸せに生きることができるように、安心して食べ続けられるように、消費者生活者としての運動をつみあげてきました。
 それこそが農と食の民主主義だと私たちは考えます。

 7月の参院選は食と農をめぐって、排外主義的な農業でも良しとするのかという問いを私たちに突き付けました。
 はじめて選挙に登場した参政党が、大量の候補者を立て、当選者を出し政党要件を獲得するという出来事がありました。同党は三つの主要公約の一つに「化学的な物資に依存しない食と医療の実現と、それを支える循環型の環境の追求」を掲げ、有機農業や食の安全に関心をもつ人たちの中に小さなブームを巻き起こし票を集めたのです。
 同党は綱領の第一に「天皇を中心に一つにまとまる平和な国をつくる」を唱え、主要公約の一つに、「日本の舵取りに外国勢力が関与できない体制づくり」「外国人労働者の増加を抑制し、外国人参政権を認めない」を掲げています。国家主義・排外主義の色彩が極めて濃い政党です。
 有機農業運動はこれまで一貫して国際交流を大事にし、海外の実践に学び、日本の経験を分かち合いながらその思想や技術を発展させてきました。食の安全を求めて運動している消費者生活者は、世界中誰もが安心して食べられる世界をめざしています。国家主義・排外主義は私たちのこうした思いや実践と相いれません。
 いま日本では、国民の危機意識を煽りながら軍備の大拡張に動き出しています。そのために邪魔になる憲法の改定が具体的な政治日程に上がっています。あらゆる分野で「安保優先」の動きが強まり、国家による監視と統制、排外主義が持ち込まれようとしています。農と食という生命の再生産をつかさどるもっとも人間的で自由でなければならない分野も、例外ではあり得ないと私たちは懸念します。

『私たちは、農民、消費者生活者が取り組む農業生産活動、有機農業や食の安全をめざす運動が、国家主義・排外主義の枠内で語られることを拒否します。』そのことを言いたくて、この声明を発します。

 世界人権宣言や国際人権規約に明示されている「食料への権利」は、人は誰でも、いつでも、どこに住んでいても、心も体も健康で生きていくために必要な食料を作り、手に入れることができる、すべての人が生まれながらにもっている権利として位置づけられています。私たちは、この声明の出発点を「食料への権利」に置きたいと考えます。
 この声明に賛同いただける個人・団体を募ります。ぜひご一緒に
2022年8月11日
<呼びかけ人>
天笠啓祐(ジャーナリスト)
伊藤幸蔵(山形 米沢郷グループ代表 百姓)
大野和興(農業記者)(事務局)
菅野芳秀(アジア農民交流センター代表 百姓)
纐纈美千世(特定非営利活動法人日本消費者連盟事務局長)
小関泰弘(置賜百姓交流会世話人 百姓)
近藤康男(TPPに反対する人々の運動世話人)
坂本華祥(僧侶)
榊田みどり(ジャーナリスト)
濱邱┿辧焚凌諭
佐藤藤三郎(山形、百姓)
鴫谷幸彦(新潟、上越有機農業研究会)
菅原庄市(置賜百姓交流会世話人 百姓)
西沢江美子(秩父雑穀自由学校主宰、ジャーナリスト)
土本満智子(北海道 農民)
高橋寛(山形大学名誉教授)
谷山博史(沖縄 日本国際ボランティアセンター顧問)
天明伸浩(新潟、百姓)(事務局)
徳野貞雄(熊本大学名誉教授、九州小農学会副代表)
中村易世(『土と健康』編集委員)
長里昭一(秋田 百姓)
原村政樹(映画監督)
疋田美津子(しらたかノラの会)
堀井修(新潟、百姓)
堀純司(国際有機農業映画祭運営委員)
牧野時夫(北海道 有機農園えこふぁーむ代表) 
村上真平(三重 自然農法実践、農の学びの場づくり) 
八重樫真純(岩手、百姓)
山岸素子(特定非営利活動法人移住者と連帯する全国ネットワーク事務局長)
吉岡香・照充(神奈川 百姓) 
山本伸司(鹿児島、パルシステム生協連合会顧問)
渡部務・美佐子(高畠 有機農業実践者)

◆事務局担当 ・大野和興  ・天明伸浩
◆お問い合わせ・連絡先
 (賛同いただける個人・団体は下記にご連絡ください。)
 メールアドレス rural@kind.ocn.ne.jp 
 電話 050−3569−8757
 FAX 0494−25−4781

佐藤藤三郎さんは、山形県上山市狸森(むじなもり・旧山元村)在住で昭和10年生まれの86歳。現役の百姓だ。ペンを持つ農民として佐賀県の山下惣一さんや、山形県上山市の木村迪男さん、同じく山形県高畠町の星寛治さん、山形市の斉藤太吉さん等と共に全国に良く知られた方で、置賜地方の俺たちも県下の百姓同様、彼の事を親しみ込めて「藤三郎さん」と呼んでいる。
藤三郎さんの事をもう少し詳しく紹介すれば、農村評論家、農民評論家、あるいは戦後間もない頃、上山市山元村の小学校に赴任した無着成恭氏から指導を受けた「やまびこ学校」の元生徒会長として・・など様々だが、俺から言えば、やっぱり、山形県を代表する小農であり、山間地で農業を営む象徴的農民だ。
近年、グローバリズムが叫ばれ、農業の世界でも「国際競争力ある農業」、「強い農業」でなければ存在する意味がないとばかりに、効率化、大規模化を推し進め、小さな農業、特に山間地の農業はは淘汰の対象とされて来た。
藤三郎さんはそんな中、農業と山間地を活かした林業で暮らして来た。淘汰される農業農村の立場から現代を捉え、厳しく指弾し、批評する農民文筆家として世に警鐘を打ち鳴らして来た。それでいて決して尖がることなく、また偉ぶることもなく、いつも飄々として親しみやすい笑顔を湛えている。
俺が百姓になったならすぐに訪ねてみようと思っていた人が藤三郎さん。25,6の駆け出しの頃、思い切って電話をかけ、緊張して待ち合わせ場所に。150cm余の小柄な藤三郎さん近づいて来た。満面の笑顔。俺は緊張して立つ190cmの大男。いっぺんに藤三郎さんのペースに巻き込まれてしまった。人間が違う。迫力は体躯ではないと実感した出会いだった。

藤三郎さんが暮らす地域は、奥羽山系の中でも狸森という地名通りの山合の村で、果たしてここを車が登れるのかと思えるほどの狭く急な坂道を登って、下って、また登って・・の所にある。佐賀県の山下惣一さんは、かつて藤三郎さんの事を「ぴょんぴょんと跳ねるように歩く人」だと言ったことがあったが、彼の集落を訪ねてみてその原因が良く分かったと言う。そのように歩かなければつまづいて転んでしまうからだと。なるほど、言われてみればそうかもしれない。
藤三郎さんはその村で田んぼを作り、炭を焼き、牛を飼いながら、つい最近まで農業を続けて来た。
その藤三郎さんが農仕舞いをしたという。戦中に生を受け、敗戦が10歳前後。一貫して 村で暮らし、農業と林業で生きてきた。それは、この国、村、農業を襲った激動の現代史とも重なる。決して他所事ではない。もしかしたら、藤三郎さんの農仕舞いはそのままこの国の農仕舞いとなるのかもしれない。いま藤三郎さんの胸に去来するものはなんなのだろうか。藤三郎さんに聞いた。

「田んぼかい?今は雑草が生えたままになっているよ。引き受けてくれる人は誰もいないからな。田んぼに気の毒でよぉ。田んぼには悪いことをしたなぁと・・今も思ってるんだ。」
「再び農が力を得て、村を守る、よみがえる。若い人たちが堂々と村で生きられるような社会、地域が本当に実現できないかと考えている。そんな希望を今も捨てていない。そのためには農業を大規模化するのではなく、農+農外収入の兼業で、村と小さな農業を共に残す。若くはないがそんな地域社会づくりに貢献したいと思っている。」
「経済、流通のグローバル化で狸森の様な山の中で暮らしていても肉や魚が食べられる。でもすべては金に依存する。その方向では肝心の地域社会が維持できない。崩壊していっている。豊かな暮らしでなくても良い。例えば山形県を3〜4のブロックに分けて、地域資源に依存した新しい地域自給の仕組みを作って行くことができないかと考えている。地域が残るにはそれしかない。」

藤三郎さんが最後に力を込めて
「岸田総理は新しい資本主義というが、求められているのは『新しい社会主義』だと思う。」と語った。この一言に、藤三郎さんの歩んで来た足跡、これからも歩み行く方向が凝縮されているように思えた。コロナカ禍のなか、久しぶりに出会えた学びの時間だった。






友人で、国際有機農業映画祭運営委員の笠原眞弓さんが、日本有機農業研究会の機関誌「土と健康」誌に、拙書「七転八倒百姓記」の書評を書いてくれました。笠原さんはこのフェースブックでも平和、平等、反差別、反原発、沖縄との連携・・などの視点から感性豊かな発信を続けておられます。
 そんな彼女からの書評を光栄に思い、皆さんとも共有したく、ここに掲載いたします。                
ー「田舎」の出世は「堂々たる田舎」になることー
『七転八倒百姓記 地域を創るタスキ渡し』
<農的景観を大切にしたい>
朝日連峰の山々が視界をさえぎるまで、出穂前の緑の稲が風で揺れていた。ここは、山形県置賜地方。菅野芳秀さんの田んぼは、その一角にある。都会育ちには、この景色を保つのに一体どれだけの苦労が必要か、なかなか想像しがたい。しかし彼らは、何も「景色」を保つために百姓仕事をしているのではない。泥の中を這いつくばり、日の出から夜中まで、雨が降っても作業をやめないこともある。その結果としての「緑の稲田」なのである。
 本書を手にすると、百姓をすると決めた時に目指す農業として4項目を挙げ、その3番目に「農的景観を大切にした癒しのある農業」とある。この「優しい景色」は、農業をすることの大事な動機付けでもあるのだ。ちなみに2番目には「食の安全と環境を大切にした農業」とある。
 彼は、分家して3代目の農家になるはずだったが、別の道を進もうと画策し、新聞奨学生として上京に成功する。
農学部2年の時の農業実習の授業で、教授の言う農業政策に農業のための政策がないどころか、工業の発展のために貢献する農業であることに気づき憮然とする。
<「堂々たる田舎」を創ろう>
 そんな気持ちを抱きながら「三里塚の百姓の闘い」に刺激を受けて現場に入り、やがて沖縄に行く。そこで地に足の着いた地元の人たちの生活と抵抗をつぶさに見て、大きな影響を受ける。田舎の出世は都会になることではない。地元に「堂々たる田舎」を創ろうと置賜へ帰るのである。
 今でこそ大卒の農家は珍しくないが、当時は大学へ進学したらそのまま町で暮らすのが当然だった。そんな中で彼は、農家になる決心をする。イヤイヤ戻ったのではなくて、ゆるぎない選択であった。
 そして折しも始まった減反政策に反旗を翻すのである。一人でも減反しないと集落全体が助成金を貰えない。連日の説得に、ある日矛を収める。しかしそれは決して敗北ではなかった。若造(本人)は学び、周囲もこの取り組みに、強い影響を受けていた。
菅野さんの頑張りは、減反反対とアジアの農民との交流のほか小さなグループでの減農薬のコメつくりが、やがて置賜地方全域からヘリコプターによる農薬の空中散布廃止に到る迄、有機的につながっていく。その中でも特筆すべきは、生ごみの堆肥化「レインボープラン」(1997年稼働)への取り組みである。
 減反反対運動を抑えようとした市長は、一方で彼の徹底した抵抗が、自己の利益のためではなく、農家の誇り守ろうとしていること。それを感じ取り、彼のその後を見守っていたと思われる。市長は、彼が地元の小さな足場で頑張っているときに、市長の肝いりで始まった地域づくりに彼を委員として加えたのだ。それまでの一貫した農村をお輿していこうとする理念と組織力、推進力を認めたということだろう。この頑丈な足場を生かして実現したのが「レインボープラン」だったのだ。その経験が、広範囲な置賜自給圏に広がって行った。
<市民運動の作り方の指標に>
この本を読み終わった時、二つのことを強く思った。一つは、百姓としての彼の七転八倒が、広く市民運動の作り方への指標となっていると。それは、「いくつかの教訓」という項にまとめられていて、この本がさまざまな人に受け入れられるだろうと思われた。またその教訓は、期せずしてジェンダーにもかかわっている。
レインボープランを形にしていく中で、彼は地域の女性たちの力を恃みとし、支えられた。結婚して集落外から入ってきた女性たちは、よそ者だ。事を成そうとしたとき、違う考えを取り入れることの大切さを学んでいた彼は、積極的に女性の意見に耳を傾けた。農村は、表向き男性優位だが「農協は婦人部でもっている」と聞いたことがある。まさにそうなのだと思う。
 もう一つは、父親が彼の防波堤だったのではないかということ。東京の大学に出した時点で跡取りのことはあきらめていたかもしれない。それが帰ってきた。しかも農村の和を乱す減反反対を掲げて。それでも父親は、息子に何も言わない。地に落ちた柿の種が新しい芽を出すのを見守るように。
 すでに「家督」を頼もしい息子に譲った菅野さんは、これまでの経験をもとに、今後どんな発展をするのかと思いきや、友人知人を訪ねて、全国行脚をしたいと漏れきく。楽しみである。
          国際有機農業映画祭運営委員
                       笠原眞弓




佐賀県唐津市に行ってきました。
山下惣一さんのご葬儀に参加するためです。
西日本新聞の佐藤さん、熊本大学の徳野先生、有機農業の八尋さんたち、小農学会の方達に呼びかけて頂いたおかげで、山下さんのご葬儀に参加し、弔辞を読ませていただき、文字通り「骨を拾う」こともできました。

骨を拾う・・遺志を受け継ぐこと。
その機会をいただいた事で、
小農を中心とした社会変革をいっそう強く自覚することができました。
この先、どう進めばいいのか・・
国民的に方向性を失っている今の日本の直中に、小農の旗を高く掲げ、切り込んで行きます。
まずは置賜自給圏の食と農の領域の再構築。

お声がけ頂いた九州の小農学会の方たちにあらためて感謝いたします。
ありがとうございました。

菅野芳秀

◆2022年7月9日
アベさんに対する銃撃について思うこと
小出 裕章
 アベさんが銃撃を受けて死んだ。悲しくはない。アベさんは私が最も嫌う、少なくとも片手で数えられる5人に入る人だった。アベさんがやったことは特定秘密保護法制定、集団的自衛権を認めた戦争法制定、共謀罪創設、フクシマ事故を忘れさせるための東京オリンピック誘致、そしてさらに憲法改悪まで進めようとしていた。彼のしたこと、しようとしてきたことはただただカネ儲け、戦争ができる国への道づくりだった。
 アベさんは弱い立場の国・人達に対しては居丈高になり、強い国・人達に対してはとことん卑屈になる最低の人だった。朝鮮を徹底的にバッシングし、トランプさんにはこびへつらって、彼の言いなりに膨大な武器を購入した。彼は息をするかのように嘘をついた。森友学園、加計学園、桜を観る会、アベノマスク…彼とその取り巻きの利権集団で、国民のカネを、あたかも自分のカネでもあるかのように使い放題にした。それがばれそうになると、丸ごと抱え込んだ官僚組織を使って証拠の隠ぺい、改ざん、廃棄をして自分の罪を逃れた。その中で、自死を強いられる人まで出たが、彼は何の責任も取らないまま逃げおおせた。私は彼の悪行を一つひとつ明らかにし、処罰したいと思ってきた。
 私は一人ひとりの人間は、他にかけがえのないその人であり、殺していい命も、殺されていい命も、一つとして存在していないと公言してきた。アベさんにはこれ以上の悪行を積む前に死んでほしいとは思ったが、殺していいとは思っていなかった。悪行についての責任を取らせることができないまま彼が殺されてしまったことをむしろ残念に思う。
 多くの人が「民主主義社会では許されない蛮行」と言うが、私はその意見に与しない。すべての行為、出来事は歴史の大河の中で生まれる。歴史と切り離して、個々の行為を評価することはもともと誤っている。そもそも日本というこの国が民主主義的であると本気で思っている人がいるとすれば、それこそ不思議である。
 国民、特に若い人たちを貧困に落とし、政治に関して考える力すら奪った。民主主義の根幹は選挙だなどと言いながら、自分に都合のいい小選挙区制を敷き、どんなに低投票率であっても、選挙に勝てば後は好き放題。国民の血税をあたかも自分のカネでもあるかのように、自分と身内にばらまいた。原子力など、どれほどの血税をつぎ込んで無駄にしたか考えるだけでもばかばかしい。
 日本で作られた57基の原発は全て自由民主党が政権をとっている時に安全だと言って認可された。もちろん福島第一原発だって、安全だとして認可された。その福島原発が事故を起こし、膨大な被害と被害者が出、事故後11年経った今も「原子力緊急事態宣言」が解除できないまま被害者たちが苦難にあえいでいる。それでも、アベさんを含め自民党の誰一人として、そして自民党を支えて原発を推進してきた官僚たちも誰一人として責任を取らない。もちろん裁判所すら原発を許してきた国の組織であり、その裁判所は国の責任を認めないし、東京電力の会長・社長以下の責任も認めない。どんな悲惨な事故を起こしても誰も責任を取らずに済むということをフクシマ事故から学んだ彼らはこれからもまた原子力を推進すると言っている。さらに、これからは軍事費を倍増させ、日本を戦争ができる国にしようとする。
 愚かな国民には愚かな政府。それが民主主義であるというのであれば、そうかもしれない。しかし、それなら、虐げられた人々、抑圧された人々の悲しみはいつの日か爆発する。今回、アベさんを銃撃した人の思いは分からない。でも、何度も言うが、はじめから「許しが たい蛮行」として非難する意見には私は与さない。
 心配なことは、投票日を目前にした参議院選挙に、アベさんが可哀想とかいう意見が反映されてしまわないかということだ。さらに、今回の出来事を理由に、治安維持法、共謀罪などをがまで以上に強化され、この国がますます非民主主義的で息苦しい国にされてしまうのではないかと私は危惧する。


 安倍氏が撃たれ、死亡した。マスコミの喧騒にはほとほと嫌気がさし、TVを見る気がしない。そんな時、レーバーネットが1つの記事を配信した。その内容は私の思いとほぼ一緒だった。たぶん多くの皆さんも一緒でしょう。ここに掲載します。
   以下

「民主主義への挑戦」をし続けてきたのは誰か
浅井健治
 安倍晋三元首相が銃撃され、死亡しました。一人の人間の不慮の死に哀悼の意を表すること、暴力・テロを断固として糾弾することに私も全くやぶさかではないつもりです。

 しかし、この事件を「民主主義に対する挑戦」とする大合唱には違和感を覚えざるを得ません。歴代最長、3188日にもわたる首相在任期間中、民主主義に対する挑戦・嘲笑・冒とく・蹂躙の限りを尽くしてきたのは安倍晋三その人だったからです。

 定着していた憲法解釈を覆し、集団的自衛権容認の実質改憲を強行しました。基本的人権・表現の自由を奪う秘密保護法・共謀罪法を成立させました。森友・加計・桜を見る会疑惑ではしらを切り続け、118回もウソの答弁をし、近畿財務局職員・赤木俊夫さんを死に追い込みました。自衛隊を「わが軍」と呼び、自らを「立法府の長」と僭称しました。連邦議会襲撃を扇動したトランプ前米大統領とはゴルフ友達です。ウクライナ市民を殺戮し続けているプーチン露大統領とは「ウラジーミル、君と僕は同じ未来を見ている」という仲です。

 たしかに人間の身体に物理的危害を加えるという意味での暴力を煽ってはいないかもしれません。しかし、議会という言論の場における真摯で誠実な、実りある対話とそれを通じた合意形成を一貫して封じてきたのが安倍晋三です。自由な言論の封殺と今回のようなテロ。両者の間にさほど大きな隔たりがあるとは思えません。

 山上徹也・元海上自衛官が放った銃弾は、もしかすると安倍晋三が鋳造したものなのではないか。安倍が築き上げた異論排除・国会軽視・説明責任不履行の政治文化が2発の弾丸の火薬として充填されたのではないか。そんな思いを強くしています。

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 日本の水田平均耕作面積は2020年調べで2.50h。
 10年ほど前、それを政府が山間地で20h、平地で30hを目指すという話を聞いて驚いたが、既に新潟県や、秋田県、山形県庄内地方の平野部では50h、100hの大規模経営が生まれているという。
 他方ここに来て小さな農家の離農が一層目立ってきた。
「大規模農家に田んぼを任せろ。そうすれば離農補助金をだす」。こんな政策が離農に拍車をかけるようになって久しい。
たとえば、どの農家もやがて迎えることになる農業機械の更新。大規模経営を目指す、農家や農業法人には更新費用の1/2や1/3を国が助成するが、それを目指さない(目指せない)農家には一切の助成金は無し。でも、生産原価にすらとどかない今のコメの価格(生産原価は1俵60kgあたり15,000円前後・・農水省発表。農家のJAへの売り渡し価格は同じ量で12,000円〜9,000円ぐらい))からは機械の更新代はままならず、故障を機会に農業をやめざるを得ない。その上、4割の減反だ。
 誘導される農政によって多くの人たちが幸せになって行けるのなら、これも仕方ないが、向いている方向は化学肥料と農薬にいっそう傾斜するケミカルの世界。循環型農業などは遠い世界の話だ。環境や生態系、人体に与える影響も軽視できない。
 またその規模拡大政策では村に人が残れない。原価を割るひどいコメ価格の中、大規模農家とて決して経営が安定できるわけではなくその分、赤字額も大きい。かくして村社会の崩壊はいっそう進む。
 煎じ詰めて言えば、食べる者、作る者、暮らす者には決して貢献しない農業政策。SDGsに逆行する。農水省が言う「みどりの食料システム戦略」が聞いてあきれる。
 我が家の水田面積は今年も約470アール。農薬を減らした循環農業はこれで精一杯。だから規模拡大は出来ないし、しない。よってわが菅野農園は離農を後押しされる側にいる。
 菅野農園では農薬を減らしたコメ作りに早くから取り組み、この農法を支持してくれる方に直にお米を届けることで、どうにか暮らしていけるが、そうでないならとっくに離農せざるを得ないところだ。
 こうして志しある生産農家の意欲を潰し続け、後継者を排除し、豊穣の国、瑞穂の国日本を「先進国」中最低の自給率37%国家にしてしまった。未来につなぐ政策の基本構図が根本的に間違っている。
バイデンだって79才。そこからしたら俺はまだ72才でしかない。俺もこの国の首相に立候補して、政策を根っこから変えてやろうかな。

誰だっけ?

 少し前の事だけど、早朝、道路近くで農作業をしていたら、私より少し年上の人が散歩しながら近づいて来て親しそうに話しかけてきた。その人はシッカリとマスクをかけ、おまけに深く帽子をかぶっている。誰なのかが良く分からない。しばらく軽く話を合わせた後で、
「どなたでしたっけ?」と尋ねた。
「えっ、俺が分からないか?俺だよ、俺!」
彼は笑いながらマスクと帽子をとった。
「あぁ、な〜んだ。ようやく分かりましたよ。マスクだし、帽子だし・・、どなたなのかが、全くわかりませんでした。散歩ですか?」
「うん、ここのところ足腰が弱ってきているのでな。歩けなくなったら困るからよ。」
そう言って彼はマスクを着けなおし、帽子をかぶって歩いて行った。
彼の背中を見ながら私は・・はて・・誰だっけ?

 いや、ホント。こんなことが最近増えて来ました。
そうなんですよ。このFBを読まれる方の中にも、私とほぼ同世代の方がいて、きっと「ある、ある・・」となりますよね。





車のハンドルを握って町まで買い物に行って来た。
ヤッホー!!2年ぶり!
2年前、大きな病気の後遺症で、机でデスクワークをしていたら、「フッ」と意識が飛んだ。
病気のあと、過度なストレスがかかるとそうなることもあるらしい。
母親の介護で夜も昼もなく起こされて・・かなりつらい日々が続いていた。
「お薬も出しているし、もう繰り返すことはないと思いますが・・。」
医師の判断で2年間の運転停止だと。
そして2年。車が無ければ不自由極まりない田舎社会。どこに行くにも妻や友人頼み。彼らも俺も良く耐えたと思う。
ようやく運転免許証が戻ったきた。
その間、様々な「気づき」を得た。
あなたがもし、俺の二年前しか知らなかったら「あれつ、菅野さん、変わったね。」となるかもしれないよ。


田植えが終わりました。
田園は一気ににぎやかになってきました。ついこの間まで銀世界だったのに、ブナやナラの山々は、新緑をまとい、日々その色を濃くしています。雪は頂に少し残すだけ。田圃では名も知らないたくさんの野の花たちが、その美しさを競い、早苗が広がる水田からはカエルの合唱、ヒバリの声。軒先からもツバメやスズメの鳴き声に、我が家の場合はニワトリたちの声も重なります。もうじき蛍たちも飛び立つでしょう。いい季節になりました。
 そんな季節にもかかわらず、気が重くなるのは、ウクライナは置くとして、40%を超えるコメの減反。食糧不足がすぐそこに来ているし、街には明日の食べるモノとてない人たちがたくさんいるのに、この国の政治、それを支持し続ける人たちにいう言葉もない。

田植えが終わった。今はあれほどあった朝日連峰の山々の残雪もすっかり姿を消し、いつの間にか濃い緑になっていて、一面に広がる淡い緑色の早苗田とのいい組み合わせとなっている。田の畦には「春シオン」、「忘れな草」、「オオイヌノフグリ」、「ジシバリ」などの色とりどりの野花が咲き誇り、いま田園は美しい。
 ところが近年、そんな緑の風景の中に赤茶けた異様な光景が目につくようになった。畦の草という草が枯れているのだ。原因は除草剤。新緑の春なのに・・・と、見るものの心を荒ませる。
葉や茎は風雨が畦を直にたたくことから守り、その根は土をつなぐことでその崩壊を防いでいる。これらのことは農民ならば誰でも知っていることだ。畦の草は刈るものであって、根から枯らしてしまうものではないのだがこの光景は年々広がる傾向にあるのだから切ない。
 背景には1農家あたりの耕作面積の拡大がある。草を刈りきれないのだ。管理能力を超えた規模拡大と、少しでも手間を省く選択としての除草剤。
農民をこのように追い立てるものは、グローバリズムを背景に、「成長産業」として農業を位置付け、小さい農家の離農をすすめながら大規模農家・生産法人・企業の参入を促進しようとする政策がある。米価も今から40年前の価格まで下がり、とても経営としてはやっていけない。小さな農家は米作りから、やがて農業そのものから離れて行った。水田は残された農家にどんどん集まって行った。その農家が断れば、水田は荒地に戻っていく。残った農家はそれが分かるだけに無理を重ねて引き受けようとしてきた。そんな中での除草剤だ。まわりきれないのだ。
 その政策によって産み出されたのは赤茶けた畦畔だけではない。大規模化にともない農法は化学肥料と農薬に一層依存するようになった。農法の省力化がすすみ、環境政策の後退がもたらされている。
 更にその農家が倒れたならば村にその代わりはないという状態の中にある。生産基盤がとても危うい。どうなっていくのだろう。畦畔の草はそんな明日の不安も暗示させる。
 少しでもこの風潮に抗って行きたい。畦畔の草は散髪しよう。大げさに聞こえるかもしれないが、そこに農業の未来だけでなく、いのちの世界の可能性が広がっているように思えるからだ。そう思う者がまず率先して草を刈り、この美しい田園風景を守っていくことだ。本気でそう思う。

 写真は野花で囲まれた、除草剤を使わない我が家の田んぼ・・散髪はこれからだ。




 ツバメがついに我が家にやって来た。
天空を飛ぶツバメを見たのが4月始め。以来、いつでも入って来れるようにと玄関の戸を30cmほど開けて待ち続けた。4月の10日ごろ、まずオス鳥が先乗りし、一週間後にメス鳥もやって来て、いよいよ巣作りを始めるかと思っていたら、メス鳥が何やら騒がしくオス鳥に話しかけ、その内2羽一緒に出て行ってしまった。いつかは戻って来るかもしれないと玄関を開け続けて1ヶ月余。帰ってこない。恋人に去られたというのはこんな感覚か。 

 そんな気分でただひたすら待ち続けた。
そして遂に5月12日。先乗りのオスがやって来て、日を置かずにメスがやって来た。前に出て行ったツバメと同じかどうかは分からないが、ツガイで泊まるようになり、巣作りを始めた。ようやくいつもの季節が始まった。ただそれだけの事なんだけどさ。部屋に広がるツバメのさえずりがうれしい。

 5月18日から我が家でも田植えが始まった。4月の中旬からずっと農繁期が続いている。それほどハードな仕事はしてないのに毎日がヘロヘロ。頼まれた文章も書けない。新聞だって見るのも嫌なぐらいなのに、ツバメに関してはわずかな休息時間を利用してこうしてパソコンに向かっている。何やってんだろう、俺。