ぼくのニワトリは空を飛ぶー菅野芳秀のブログ

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「こんど、人間以外に生まれなければならなかったとしたら、ぜひ菅野農園のニワトリに生まれたい」
 俺がこだわったニワトリを飼う基準、その飼い方。以来、ほぼ40年間,写真のように飼って来た。もちろん美味しい玉子を得るためだけど、これならニワトリでもいい。(いまは雪だが、こんな風景はもうすぐだ。)




        鈴木宣弘先生講演会のお知らせ

 置賜自給圏推進機構<食・農部会>では、来たる3月19日(日)、鈴木宣弘先生をお招きして講演会を開催することになりました。この講演会はコロナの影響もあって,3年間活動を休止していた置賜自給圏推進機構<食・農部会>の再出発の意味をこめて企画したものです。
 当日のご参加をお待ちしています。

 記

とき:3月19日(日) 午後1時から5時まで
ところ:JA山形おきたま たかはた支店ハピネス
第一部 基調講演 「地域農業と循環型社会」
東京大学大学院農学生命科学研究科教授 鈴木宣弘さん
第二部 食と農トークセッション
「地域といのちと、つながりと」
農の現場・食の現場・子育ての現場からのパネラーが熱く語る


寒い日が続いている。
あの時も同じ寒い晩だった。友人の百姓が一升瓶を下げて訪ねてきた。
「熱燗がいいね。」
いい酒があり、いい友がいて、いい時間が流れていく。
やがて彼は懐から封書を取り出し、照れくさそうに私に読んでくれとさしだした。
そこには彼の笑顔と一対の、彼が当時、精魂込めて取り組んでいた世界が書かれていた。
 いま、その手紙は俺の手元にある。ここに、彼の承諾を得て、その抜粋を掲載する。ちょっと長いがぜひお読みいただければありがたい。
 2023年1月の今と状況はほぼ同じ。振り返りながら読んでも決して古い感じがしない。いまでも、まったく同じことが求められていると思えるのだ。
               以下
 置賜自給圏
―農民からの手紙(一)・その抜粋
「いま、山形県の南部、置賜〈ルビ=おきたま〉地方(3市5町)で「置賜自給圏」と名付けられた地域づくりが始まっている。
この自給圏を端的にいえば、「暮らしに必要な資源を、同じ置賜の田畑や森や川に求めることで生活全般の地域自給を高め、あわせて地域経済の再生や健康増進を促進しようとする」ということになろうか。
 自給圏の対象は大きく分ければ「食と農」、「エネルギー」、「森と住宅」、「学び」の4つだ。
他は大体の推測が付くでしょうが、「学び」が大事だと思っている。置賜の優れた歴史と伝統を学び、先人の知恵を今に活かし、ふるさとに生きる誇りを取り戻すことだ。
 また、一般の人が土や農にかかわる機会を増やし、生き甲斐づくり、健康づくりを通じて医療費削減の世界モデルを構築しようとする。「世界モデル」というのは大きすぎる話しかもしれないが、私たちの気負いとして受け止めてほしい。さらに、この事業は、同じ地域の人と人、人と地域のもう一つの出会いを創りだすこと、地域に根差した新しい文化を創り出すことでもある。」(以下略)
「批判と反対」から「対案」へ
―農民からの手紙(二)・その抜粋
「TPPに象徴されるグローバリゼーションの中で日本の農業の多くは斜陽産業と化し、農家は果てしなく減少している。数千年の歴史を刻み、多くの人材を世に送ってきた村は高齢化し、その機能すら維持できなくなりつつある。私たちはこの流れに全力で「NO」を訴えてきたが、それだけではもちろん十分ではない。よしんばTPPを潰したとしても、右肩下がりの現状はかわらない。求められているのは「反対」を越えた私たち自身の「対案」であろう。今のようでないもう一つの農を織り込んだ暮らしや地域を築いていく道。 
TPPやグローバル化の中にあっても、なお暮らしていける地域のあり方や人と人のつながり、仕組みを考えて行く。考えるだけではなく、それらを「対案」として実際に築いてこうとすることが求められているとおもうのだ。
希望を織り込んだ新しい「対案」を山形、置賜から全国に。この気概をもって置賜自給圏を創造しようと思う。
ここで肝心なのは、地域の「総論」は永田町、東京などに握られていて、地域は彼らの幸せづくりの「各論」、「部品」となっているかのような現実があるけれど、地域の「総論」を地域に取り戻し、その上で各論をみんなの力で創りだそうとすることだ。この立場にお立つことがこの事業の基本だろう。地域の決定権は地域住民にあるということだ。」(以下略)
対案の前提条件
―農民からの手紙(三)・その抜粋
「その上に立って、TPPへの道とは違う、もう一つの農業、地域を築く上での前提条件を考えたい。
【前提1】狹擇呂い里舛里澆覆發鉢瓩両紊卜って
我々は土に依存して生きる。政治や行政の最大の課題が、人々の健康、すなわちいのちを守ることであるとすれば、そのいのちを支える土の健康を守ることは第一級の政治課題でなければならない。この土といのちとの関係を抜きにし、面積、規模、効率性だけを追うケミカル農業と、その前提の上に立った農業政策はすでに過去のものとされなければならない。目先の経済性よりもいのちの世界を優先させること。土は未来の人たちと共有するいのちの資源。その土の健康を守る。これが前提の第一だ。
【前提2】国民(市民)皆農を織り込んだ新しい道
家族農業か然らずんば企業農業かではなく、たとえば、農を志す都会の若者たち、農を織り込んだ暮らしを実現したい市民や、自給的な生活を望む人たちにも広く農地を解放するような仕組み。農民的土地所有(利用)だけでなく、市民的土地利用を可能とするシステムへの転換。望めばできる市民皆農への道作りなどを織り込みながら、新しい生産のあり方、暮らしのあり方を創造する。「健康」、「福祉」、「医療」、「自給」、「教育」などを織り込んだ新しい農(土)と人々の関係をもう一つの農地利用の柱として政策化すること。これが前提の第二の条件だ。
【前提3】自給的生活圏の形成を
「地域自給」が基本。国家的自給はその集合体として考える。地域農業が地域社会に健康な食材を提供し、地域社会が地域農業の農作物を積極的に活用することでこれに応える。農地が近くにあることではじめて実現できる豊かさを地域の中に取り戻すこと。
当然のことながら農作物を地域外に売ることに反対しているわけではない。それは「外貨」を獲得するうえで必要なことだ。地域ごと自給自足のタコツボに入ろうと呼びかけているわけでもない。そうではなく、地域の田畑と人々の暮らしとをもう一度つなぎなおすことで、本来持っている田舎の豊かさを取り戻し、それを全国に開いていこうということである。今までのような産業政策一辺倒ならば、グローバルな市場経済の浸透とともに、地域経済が衰弱し、村の消滅が始まっていくだろう。村の崩壊は日本農業の再生基盤の崩壊につながり、やがて日本自身の崩壊へとつながっていくに違いない。
人々の暮らしと地域の中の田畑が有機的、自立的につながること。これが第三の条件だ。」(以下略)
置賜自給圏推進機構の結成へ
―農民からの手紙(四)・その抜粋
「構想を実現させるにあたって必要なことは、,つての保守だ、革新だ、あるいは〇〇党だというような政治的な枠組みにとらわれない生活者・住民の事業としての広がりをもち、∋毀韻抜愀乎賃痢行政が相互に連携する共同事業として育てて行かなければならないこと。C韻覆詁厩ゲ颪里茲Δ米韻舷Ч腓い鮖つ者同士が集まって、何かをしようとしてもこの構想は実現できない。い修譴召谿曚覆辰森佑─異なった価値、異なった生き方をしてきたものたちが、相互の違いを認め、尊重しながらつくり上げられていく連携。この中から「自給圏」が生み出されていくということ。
 仲間たちとの議論の中では、この構想の必要性に疑問を投げかけたものはだれもいなかったが、実現しようという事業の大きさと、「構想案」を囲んで話し合っている自分たちの非力との落差に話が及ぶたびに、楽天的な笑いが生まれていた。どんな事業もここから始まる。
(以下略)
余計なひと言
―農民からの手紙(五)・その抜粋
「希望はどこかで我々がやってくるのを待っていてくれるということはない。希望はだれかが与えてくれるものでもない。それは自分たちで創りだすものであって、それ以外の希望はけっしてやっては来ない。」(以下略)
 これで手紙は終わりだ。微笑みながら静かに酒を飲んでいた彼の顔をみていた。身体に気を付けてほしい。心からそう思った。
  彼は「自給圏を作ろうと集まった人たちにはそれぞれに、それぞれの背景や動機があり、物語がある。俺はその中の一人でしかない。でも、すばらしい仲間たちの一員でいることがうれしい。」と繰り返し話していた。
 やがて二人はべろべろによっぱらっていった。家の外は厳しい寒さをともなって、しんしんとふけていく。
 2023年の今日。彼らの奮闘にもかかわらず、状況はますます悪くなっているが、全国的傾向だから、それも仕方がない。
「足腰が悪くなってね」
 そう言いながらも、彼は相変わらず笑顔を湛え、楽しそうに地域の話をする。いい奴だよ、まったく。その生き方が気に入っている。それでな、遅ればせながら、今年から俺も彼らの仲間に入ることにしたよ。
 もし、あなたが置賜に来てみたいと思ったなら、歓迎するよ。彼もぜひ紹介したい。一緒に一杯やるべぇ。





 新年明けましておめでとうございます。
年が明け、ようやく年賀状を書き始めています。
今年も横着なご挨拶になってしまいました。

 あたり一面が真っ白な銀世界。
元旦の朝、雪で閉ざされた山裾まで行き、私が「山の神さま」と呼んでいる、この地の微生物達へ新年のご挨拶に行ってきました。
もう30年近く続けている行事です。

 太古の昔から今日まで、全てのいのちあるものを土に還(かえ)し、次のいのちに繋いできたこの地の微生物たち。土はかつて生きていたモノたちのいのちの集積。山の神さまたちによるいのちの循環。「今年もあなた方と共に・・お見守りください。」

 山々は雪でおおわれ、凛とした静寂の中にありました。
それでも何かジワーッとしたエネルギーが身体に沁みこんで来たように思いました。
 また一年が始まりました。

 今年もどうぞよろしくお願いいたします。2023年元旦




玄米 その2

 玄米の事を書いたら、多くの方から共感と示唆に富むご意見をいただき、改めて玄米食への関心の広さを感じた。俺がね、玄米食をやる上で、3つほど心掛けている事があるんだけど・・。

 一つは、玄米に飽きたらいつでも休む。ムリせず白米に戻り、また食いたくなったなら玄米食を。とにかく無理しない事。

 二つ目は簡単に、手軽に作るという事。手間のかかる事、メンドクサイ事は続かない。そんな性格だから「醗酵玄米」は始めっからムリと諦めている。最近では水漬けすらしない。軽くとぎ、玄米と同じ量の水か、1.05倍の水を入れて炊くだけだ。圧力鍋(ヘイワ)の説明書にもそれで良いと書いてあったし・・。

 三つ目、面倒だから一度に1週間分ぐらいを炊く。終わりの頃はモチモチ感が増し、よけいに美味しくなる感じがするよ。あ、そうそう、やってると思うけど、炊き上がったら保温器に入れて置き、時々切り返しをやり、空気を入れる。

 とにかく、無理しない事、遊び心を大事にする事。定番の小豆と塩(一合あたり一つまみ)だけでなく、乾燥シイタケや、大豆、ゴマ、鰹節など、〜を入れたらおいしいかもと思えるものを自由に入れて楽しんでいるよ。グ〜タラ人間でも手軽に玄米食を楽しんでいるご報告でした。

「うん、いい映画を観た」

 白鷹町の「あゆーむ」で、映画「わが青春つきるともー伊藤千代子の生涯」を見た。映画の広告に「戦争と無権利の時代、反戦と主権在民を掲げ闘いに斃れた若き女性の真実の物語」とあった。硬い話かなと思ったが2時間を超える大作にもかかわらず、時間の長さを感じさせない。引き込まれた。
 当時、侵略戦争への道をひた走った日本。国家権力が肥大化し、国民を守るための国家が国民を守らず、逆に国民をして天皇制国家を守るための道具、侵略の尖兵に駆り立てていく。そして敗戦。日本の戦没者数(兵隊、民間人)は約310万人。目をそらしてはならないもう一つの事実。日本はアジアを欧米列強から解放すると喧伝したが、実際は日本がアジアを抑圧し、あらゆる点で収奪したこと。戦場となったアジア全域では2000万人を超える軍民が犠牲となった。日本国民も日本軍国主義の被害者なのだが、同時にアジアを抑圧した加害者の一員でもあるという重く、つらい現実が残った。
 もちろん日本国内にも反対者はいた。それらの人たちは日本の良心でもあったろう。だが、国家権力はその数少ない勇気ある人たちを次々に捕まえ、拷問を加え、投獄して行った。それを可能としたのが治安維持法。
「他民族を抑圧する民族の人民もまた、決して自由ではない。」この格言通りの世界がそこにはあった。
 この映画は、高まる軍国主義の中で、勇気をもって反対した女性(たち)の物語だ。当時、女性には参政権は無く、「あゝ野麦峠」で知られた同じ長野県の、紡績工場の女性たちの労働争議などを挟みながら、立ち上がっていく女性たちの姿をも描いている。やがて治安維持法下、ことごとく弾圧され、圧殺され、日本は絶望的な戦争へと突入していく。そんな中、伊藤千代子も拷問の末、虐殺されていく。
この映画を観終わった後、感動と同時に、これは決して過去の話ではない、そんな思いが湧き上がってきた。
 今また、日本は膨大な軍事予算を計上し、自民党が掲げるGDPの2%を防衛費にすれば、世界第3位の軍事大国に。先制攻撃が出来る国。再び戦争出来る国への道を走り始めようとしている。良心が孤立させられ、平和を求める人たちが「伊藤千代子」になる前に、その道を止めなければならない。そんな気持ちにさせる映画だった。うん、いい映画を観た。

今回は玄米の話。
 関心のない方はパスしてください。以下。
我が家はコメの生産農家で、他にも放牧養鶏の玉子と、無農薬大豆の納豆を作っている。
 それらは消費者に直に発送しているが、最近、玄米と「分づき米」と呼ばれる5分づき、7分づきなどの胚芽を残したコメへの注文が増えている。半分近くがそうだ。
「玄米の胚芽には様々なミネラルなどの大切な栄養素が豊富に含まれおり、繊維質も多く、便通も良くなるしダイエットにも効果がある。」
 良く聞く話だが、それらを美味しく食べるには2つのハードルを越えなければならない。
1,美味しく炊ける圧力鍋と出会うこと。2,胚芽を残しても大丈夫なコメに出会うこと。
 まず一つ目。以前、玄米愛好家の人に炊き立てをご馳走になったことがあったが、お世辞にも美味しいとは言えなかった。「玄米だからそこは我慢しないとね・・・」。でも、意義で食べる、頭で食べるというのではなく、美味いから食べるとならなければ長続きはしない。
 という事で、それまでに試した炊飯器、圧力鍋は友人所有のモノを含め5〜6個。これが多いのか少ないのかは分からないが、はっきりしていることは、たいがいの人はそこまで探さず、途中で玄米食をあきらめてしまうだろうという事だ。
 さて、ずいぶん前の事だが関西の自然食レストランに行く機会があり、その時食べた玄米が柔らかく、美味しかった。探せばきっと美味しく炊ける圧力鍋はあるはずだ。
 ある日、同じ県内に自然食のお店を見つけ、試食の玄米を食べてみたら、なんと、関西での記憶にそっくりで、柔らかくふんわりしていて美味しかった。この炊飯器を直ぐに注文した。おかげで今はおいしく玄米ご飯を食べている。
 二つ目の大丈夫なコメと出会うこと。コメに農薬が一番残るのは、玄米の表皮にあたる糠(ヌカ)部分、胚芽の部分だ。玄米を食べる場合、その点に注意することが大事で、普通に栽培したコメは玄米食には向かない。
 ここからは私見だが、各県に「特別栽培米」というのがある。慣行栽培の半分以下の農薬となっていて、ずいぶんましだとは思うが、それでも玄米食には不十分だ。今でもラウンドアップ(グリサフォート系農薬・除草剤)やネオニコチノイド系農薬(殺虫剤)が広く使用されているが、そんな農薬を使用したコメが、たとえ特別栽培米基準に合っているとしても、俺はこれを玄米で食べることは勧めない。
 繰り返すが、もっと多くの人たちが玄米食を楽しめるようになるためには、手軽に炊ける圧力鍋の普及と、それにふさわしいコメ作りの拡大が不可欠だ。それが時代の要請だとも思っている。
 その上で・・偉そうだが・・俺が玄米を更に美味しく食べるためにやっていることを紹介したい。それは1合あたり一つまみの自然塩と、小豆を入れて炊くことだ。ゴマや大豆、乾燥シイタケなども試した。いずれも美味しかったよ。


朝、真っ白な霧が上がると、にぎやかな光景が顔をだす。紅葉するモミジやドウタン、桜などの木々に、色づく柿やリンゴの実の数々。里の秋はそんな光景にあふれている。
庭のリンゴの樹の下をくぐり、我が家の畑に行ってみると、大根や白菜はすでに充分に成長していた。
 雪がくる前に庭木を雪害から守る作業も忙しい。
 山里の深まりゆく秋。冬を前に忙しく働く勤勉な農民たち・・。とまぁ、読む方々は全体を美しく想像してしまうに違いないが、このことをその渦中にいる百姓、それも決して若くはない俺の視点から語れば、また違う風景が出てくる。それれも決して悪くはないが、言うほど美しくもない。そしてな、それをただ外から風景としてみていたのではまず、分かるまい。あえて語ればこんな話になる。以下。
寒くなりましたねぇ。
畑で冬野菜の世話をしていますと思わず鼻水がタラァーッと出てきます。ズーズーッとすするのもなんですから、ヒッと手鼻をかむ。鼻水が霧状になって飛んでいきますぞ。決して手にかかったりはしないね。その辺は熟練ですねぇ。慣れたもんですよぉ。
 どんよりとした寒空の下、頬っかむりして、蟹股で、少し腰の曲がった大男が手鼻をかみつつ野良仕事に励んでいる。こんな姿は、晩秋の雪国に似合いますねぇ。寒村の風景ですねぇ。絵になりますねぇ。でもどこか切なげですねぇ。哀しげですねぇ。憐れさが漂ってますねぇ。
 そう言えば近ごろ、頭のてっぺんで季節の移り変わりを感じ取れるようになりましたぞ。数年前からです。改めて体験してみると・・驚くほど新鮮な感覚ですねぇ。冷気が無防備な頭をジンジン刺激する。こんなことになろうとは想像していませんでしたよ。
 秋の陽はすぐに落ちて、夕暮れが足早にやって来る。昔、晩秋の黄昏時ともなれば人恋しさが一層募り、センチメンタルな気分になったものですが、この歳になるとそれは無くなり、ただ恋しいのは人ではなくお酒。色気もへちまもあったもんじゃありません。でも冷えた身体には熱燗が一番。おちょこに注いだお酒をグィッと一つ飲み干せば、熱いものがあっちこっちに浸み込みながら降りて行く。良いですねぇ、この感じ。
 飲むほどに、酔うほどにどんどん気分が高揚し、「コメがあり、野菜があれば勝ったも同然!文句アッカ!!」などと鼻息荒くして、ついさっきまで、腰が曲がったの、髪の毛が禿げ上がったのと言っていたのが、古風な言い方だけど、「矢でも鉄砲でももってこい!」となるんですね。背はデカいけど、根が単純なんですねぇ。
 冬を含んだ秋。その物悲しさを含め、決して嫌いでないなぁ。秋から冬、それは一つの生命の終わり。鮮やかな紅葉は、枯れ行く冬の前の一時の化粧、終わりゆくいのちの華やぎ。その移り行く季節に浸りながら、我が身の来しかた行く末・・、つまり・・人生を考えて見るのも悪くはない。なっ、分かったべ!ヒッと鼻水飛ばしながら哲学してんだよ。外からではなかなか分かんないだろうがな。




紅葉が進む山々、里の銀杏。
それにリンゴや柿などの果物たち・・。
風景全体がカラフルに色づいている里の秋。稲刈りもすっかり終わった。
 
それはそれとして、世界的な食料不足の中、国内の稲作現場では4割を越える減反に、40年前の半値近いコメ価格がまかり通り、若い後継者は農業から逃げ、あるいは村を出て行き、高齢化ならぬ老齢化に歯止めがかからず、村も、地域社会も力を失い、青息吐息の瀕死の状態が続く・・村の秋。

 あっちこっちから、今年限りで「農じまい」の声が届けられる。小農(家族農)の屍が累々・・と横たわるこの国の村。

 すでに手遅れかも・・という状況なのだけれど、為政者にはちっとも響いてない。どうするんだろうね、この国の食料、この国の農業。そしてこの国自体。

政治の劣化が、この国で生きる人々のいのちの危機に直につながっている。




共同通信の新聞から 
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トルーマン大統領の言葉 

 ハリー・S・トルーマン(1884年5月8日 - 1972年12月26日)
アメリカ合衆国の政治家。同国第33代大統領。太平洋戦争(第2次世界大戦)終結時に以下のようなことを公式に言っている。

「猿(日本人)を『虚実の自由』という名の檻で、我々が飼うのだ。方法は、彼らに多少の贅沢さと便利さを与えるだけで良い。そして、スポーツ、スクリーン、セックス(3s)を開放させる。これで、真実から目を背けさせることができる。猿は、我々の家畜だからだ。家畜が主人である我々のために貢献するのは、当然のことである。そのために、我々の財産でもある家畜の肉体は長寿にさせなければならない。(化学物質などで)病気にさせて、しかも生かし続けるのだ。これによって、我々は収穫を得続けるだろう。これは、勝戦国の権限でもある。」

 ここからは俺だが、今もアメリカの占領政策は続いている。日本に独立国としての政治的主権はないに等しい。実態はアメリカの植民地だ。日本の外交政策も、国内政策も、その実、全ては日米の二国間協定の場でアメリカに指示され、押し付けられている。日本政府にはそれを断ることが出来ない。そしてその気概もない。憲法の柱である「国民主権」の原則もアメリカの枠の中でのみ許されている。沖縄も、その他の基地政策も、原発も、食糧政策もすべて主権を放棄させられ、アメリカの思いのままの・・ポチだ。

 ここまで書くと、やっぱり、ここに幾度か書いた寺山修司を思う。
「そうそう、中学校の頃、公演でトカゲの子を拾ってきたことがあった。コカコーラの瓶に入れて育てていたら、だんだん大きくなって、でられなくなっちまった。コカコーラの瓶の中のトカゲ、コカコーラの瓶の中のトカゲ。おまえにゃ、瓶を割って出てくる力なんてあるまい、そうだろう、日本。―中略―身を捨てるに値すべきか、祖国よ。」

 次代に送るべきはそんな日本か?
では何から始めるべきか・・。
その問いに応えるのは俺たちの責任だろう。





小農の楽しさと強さ
――山下惣一さんを想う
 山下惣一(享年86歳・農民・作家)。今年(2022年)7月10日、肺がんのため唐津の病院で亡くなった。家族には「俺は寿命で死ぬのであって、ガン(病気)で死ぬのではない」と繰り返し、言っていたという。「俺は自分に与えられた天命を生ききったのだ」という事だろう。山下さんらしい話だ。
俺は幸運にも彼の葬儀に参列して、遺骨を拾うことが出来た。そして……「骨を拾う」ことの意味を繰り返し自分に問うていた。
 俺が両親の後を追いかけながら百姓としての人生を歩み始めたのは26歳の時。それから2,3年たった頃、偶然にその本『惣一ちゃんの農村日記』(日本農民新聞社)と出会った。
「えっ、こんな人がいたんだ!」いっぺんに持っていかれてしまった。作品上ではあるが、それが山下さんとの心地よい出会いの始まりだった。
 彼は平地に恵まれない佐賀県は玄界灘の山間部の農村で農業を営んでいた。村を覆う現実は何をとっても深刻なのだが、それを村の活きたエピソードとして、村人たちの泣き笑いの中で書いていた。それがすこぶる面白い。タテマエやアルベキ論、理想論のたぐいは一切ない。全てホンネ。だから東北の百姓の俺もスッと入っていける。「そうだ、そうだ」と同調し、笑い、怒り、共感しているうちに、著者の意図した着地点にいつの間にか運ばれている。気持ちのいい読後感と「あ、そうか。そんな見方もあるのか……」と数多くの気づきを与えられた。
以来、今日までいつも身近に山下惣一さんがいた。
 戦後、農政は、一貫して兼業農家や小農、家族経営農家の首切り、淘汰を進めてきた。山下さんはその渦中、彼自身が整理される側の小農、百姓として、小説、評論、ルポなど、50冊余に及ぶ作品を書いて来た。
当時も今も、時の政府は、離農促進政策と規模拡大政策が避けられない「鉄の法則」でもあるかのように触れ回り、それでもなお、農民であることをあきらめない者を恫喝し、農業を続けていくことが世間に対して悪い事でもしているような気分に追い込んでゆく。
「お前たちがそんな小さな農業を続けていること自体、社会のお荷物だ。いつまでこの国の経済成長の足を引っ張り続けたら気がすむのか」。俺自身もこんな言葉を投げかけられたことは一度や二度ではなかった。
「私たちは長い間、日本の農業は零細でダメだ、ダメだと言い聞かせられながら、首をすくめて生きてきました。もっと自信を持ちましょう。専業でも、兼業でも、半農半Xでも、日曜百姓でも、家庭菜園でもいいのです。全て小農です。小農だからいいのです。強いのです。楽しいのです。豊かなのです。そして強い農業が生き残るのではなく、生き残った農業が強いのです」(山下惣一「小農学会設立総会基調講演」から、2015年11月29日)
 山下さんは農と村の現場から、一貫して小農潰しの農政に、異を唱え、逆らい、そのことが農業、農民の利益だけでなく消費者の利益にも、社会全体の安定にもつながっていく道だと主張し、踏ん張ってきた。俺が今日までの農民としての人生を、誇りを失わずに歩んでこれた背景には、山下さんの大きな存在があったと今更ながら気づく。
 また、山下さんは「アジア農民交流センター」と「TPPに反対する人々の運動」の代表者でもあり、実践する百姓でもあった。俺も山下さんと共にそれらの団体の共同代表として、国内だけでなく、タイや韓国などの農民と交流を共にする機会があった。山下さんは現地の農民にすぐに溶け込む。その意味では稀有のオルガナイザーであったとも思う。
 実際に生きたことを言葉にし、話した世界を生きた。決して大言壮語の人、口舌の徒、筆先だけの人間ではない。
 山下惣一。彼の様なような農民は二度と現れまい。間違いなく彼は、戦後日本の自作農(運動)が産みだした屈指の人物だろう。
 小農はいま、いよいよ存亡の危機に追い込まれようとしている。山下惣一さんはすでに逝った。我々に求められているのは言うまでもなく「ため息」ではない。逆らっても抗っても、小農を絶滅危惧種に追い込む政策が勢いを増す中、まず、それらに立ち向かう次代を孕んだ地域事例。それも小農と市民との連携を主体とする地域事例を実態的に築いていくことではないかと思っている。俺はその道を歩み続ける。
山下さんの骨を拾いながらそんなことを考えていた。
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岡田照男
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