ぼくのニワトリは空を飛ぶー菅野芳秀のブログ
「虹色の里から」では、少しずつ、バックナンバーを更新しています。
「ぼくのニワトリは空を飛ぶ」は、だいたい10日から2週間に一回のペースで更新していきます。下の話は「番外編」です。 朝、まだ眼が覚めぬが眠っているともいえない「まどろみ」の時間に、夢とうつつが重なり合って、思わぬ方向に発想がふくらんでいくことがある。 ある日、まだフトンの中でトロトロしている時、「20才の頃の私」と「桃太郎」と、それに「一寸ぼうし」がつながった。 以下、その話を紹介するが、多少の飛躍や、突然の転換には眼をつぶっていただきたい。なにしろ、まどろみの世界でのことなのだから。 20才の私はどういうわけか生き方を求めていた。自分らしい生き方をさがしていた。 人生の岐路に立った時は、たいていの場合、自分がそれまでにたどってきた道を振り返り、どこかにヒントがないかを捜そうとする。当時の私に最も大きな影響を与えていたのは高校時代の三年間のはずだった。しかし、思い出すのは三角関数や英単語だけとはいわないが、頭の中をさぐっても、出てくるのは生き方とはあまり関係のない、あれやこれやの雑多な(と思える)知識がほとんどだった。 そこでようやく私は、「いかに生きるか」を全く考えることなく20才になってきたという、それまでの人生の浅薄さに気付いた。 やがて、どうも、その浅薄さは私だけのものではなく、おそらく程度の差こそあれ、同時代人にかなり共通しているもの、あるいは大部分の日本人にさえ言えることなのではないかと思うに至った。 何故かといえば、その根っこは、だれもが幼児の頃からくり返しくり返し聞かされてきた「桃太郎」と「一寸ぼうし」の中にあるのではないかと思ったからだ。 まずは「桃太郎」。最大の問題は話の終わりかたにある。荷車いっぱいの戦利品、お宝を満載して桃太郎は村に帰ってくる。桃太郎は「お金持ち」となった。そして・・。話はそれで終わりだ。手に入れたお金で川に橋を架けたり、学校を造ったり・・・そんな話はまったくない。 「一寸ぼうし」。彼も鬼退治をして、助けたお姫様と結婚し、やがて「エライお役人様」となった。そして・・、この話もそれから先がない。話はそれで終わっている。 手に入れたお金を使って何をしたのか、あるいは「エライお役人様」になって何をしたのかは全く語られてない。つまり、何かお金を得ること、あるいはエライお役人になることが目的であるかのように描かれているのだ。 こんなお話を、小さい時から、くり返し聞かされてきた結果、「お金」や「出世」が人生の目的であり、その成否もそこにある、と考えるようになってしまったとしてもおかしくはあるまい。 私の感じた「浅薄さ」と桃太郎たちをつなぐものは「生き方」、哲学の不在である。 まどろみながら、論理の飛躍を楽しみつつたどりついた結論は次のようなことだった。 私達は、「桃太郎」と「一寸ぼうし」に変わる「新しい童話」を子どもたちに語り聞かせなければならない。それは俺たち自身の物語だ。あっちでぶつかり、こっちで泣いた、けっしてカッコイイ話じゃないけれど、自分がたどってきた中から得た「生き方」を子どもたちに。 これが、まどろみの中の結論だった。どうだろうか、ご同輩。 ...もっと詳しく |
春になった。
春になると米作農家は種モミの準備にはいる。まず始めは塩水に浸して、沈むモミと浮き上がるモミを選別する「塩水選」。私たちの地方ではこの作業を「しおどり」と呼んでいる。実の充実した種を選ぶ大切な作業だ。 その後引き続いて、種モミの消毒をおこなう。種モミに付着しているいもち病、バカ苗病などの、もろもろの病原体を取り除くためだ。私はこれを「温湯法」でおこなっている。 「温湯法」とは60度のお湯に種モミを5分間浸け込み、その後冷水で冷やすという方法だ。それまでの私は農薬を使ってこの消毒をおこなっていた。でも、ある出来事をきっかけに今の方法に変えた。15年ほど前のことだ。 「チョット来てみてくれ。大変なことになった。池の鯉がみんな死んでしまったよ。」緊張した表情で訪ねてきたのは近所で同じ米づくりをしている優さんだった。急いで行ってみると池の鯉がすべて白い腹を上にして浮いていた。その数、およそ60匹。上流から種モミ消毒の廃液が流されてきたらしい。川の流れは細く、水に薄められることなく池にはいってきたのだろうと優さんはいっていた。 種モミは農薬のはいった水に浸けられ、殺菌処理されるが、問題はその後の廃液の処理だ。河川に流せば水生生物に被害をあたえる。下流では飲み水として活用する地域もある。流せない。 農協は、河川に流さず、畑に穴を掘り、そこに捨てるようにと呼びかけていた。でも、畑に捨てたとしても土が汚染するだろうし、地下水だって汚れないともかぎらない。どうしようか。種モミの殺菌効果は完璧だが、毎年おとずれる廃液処理に頭を悩ましていた。 そんな中でであったのが「温湯法」である。これを教えてくれたのは、高畠町で有機農業に取り組む友人。この方法はきわめて簡単で、しかも、単なるお湯なのだから環境は汚さないし、薬代もいらない。モミの匂いを気にしなければ使用後、お風呂にだってなってしまう。なんともいいことずくめの方法なのだ。 へぇー、こんな方法があったんだぁ。始めて知ったときは驚いた。環境にいいし、第一お金がかからない。 幾年か経験を重ねた後、近所の農家に進めてまわったが、我が集落で同調する農家はごく少数。15年間増えてはいない。どうも私には技術的な信用がないらしいとあきらめていたのだが、この間、農業改良普及センターにいったら、うれしいニュースにであえた。 「庄内地方に「温湯法」が増加。今年は1,500〜2,000haの見込み」。 いらっしゃったのですねぇ。ねばり強く普及に取り組んでいた方々が。 単純に計算すれば、県内でおよそ400万リットルの廃液ができる見込みだ。 やっぱり俺もあきらめずにPRしなくちゃ。 |
下の文章は「虹色の里から」(朝日新聞山形版)に掲載されたものです。2年前ですがある全国紙の山形版に、レインボープランはうまくいっていないという特集が組まれたことがありました。それに対する反論を朝日新聞紙上に書こうとしたのですが、最初にだした原稿ではあまりにもリアルすぎるという担当記者からの指摘をうけ、少しオブラートに包んで書いたのがこの文章です。
レインボープランがスタートして7年目に入っている。ありがたい激励がほとんどだが、まれに参加農家が減っていることを指摘する声や、生ごみ堆肥の有効性について疑問視する声もないわけではない。 レインボープランのまちづくりは、白紙の状態に絵を描くのと違って、人びとが暮らしているただ中に、市民主体で、循環のシステムを築いていこうとする事業だ。当然すんなりとはいかない。 以前も今も、あっちにぶつかり、こっちにぶつかりの連続で、いつも課題は山積だ。利と理が衝突することもある。問題がでればみんなで時間をかけ、ゆっくりと考えていけばいい。それらは未来にむかっての必要なプロセスであり、肝心なのはいつもこれからという姿勢を保ち続けることだと思っている。参加農家の問題もそういうこととして取り組んでいる。 でも、生ごみの堆肥化自体に問題があるかのような見方は明らかに認識不足だ。よく指摘される問題は効果と塩分の二つ。 まず効果についてだが、堆肥には「作物の肥料として」と、「土づくりとして」の大きく二つの用途がある。窒素成分の低い生ごみ堆肥は土づくりに最適だが、肥料としてなら豚や牛の堆肥の2倍以上は必要だ。それに比べて畜産堆肥は窒素が多く、作物への肥料効果は高いが、土づくりとして使う場合は藁や草、落ち葉などを大量に混ぜ、窒素分を薄めて使うことが求められる。 ちろん生ごみ堆肥にも肥料効果はある。森の木々はいってみたら「生ごみ」をエネルギーにして成長しているのだから。要はそれぞれの堆肥の特性をおさえて上手に使うことが基本だ。このことを取り違えた議論が多い。 塩分の問題はよくいわれることだが、その含有量は酪農堆肥とさほどかわらず、露地での使用にはなんの問題もない。雨が降らないハウスでの使用にあたっては一年ぐらい外に晒してからというのは、畜産堆肥と同じだ。 そもそも私たちが毎日の食事で使っている程度の塩分は土にとって大きな問題ではない。自動車もさびつくほどの潮風があたる海岸端でさえ、田や畑を耕しながら人びとの暮らしがつづいている。潮風によって田畑の土が壊れたと言う話はきかない。 東京農工大の瀬戸教授は、生ごみ堆肥に含まれている塩分を30年分投入した野菜の成育調査において、発芽、成育になんの問題も無かったという研究成果を発表した。教授は生ごみを堆肥にするための疎外要因はなにもないと結論づけている。 生ごみを燃やせば猛毒のダイオキシンが発生する。土から生まれたものを土にもどすことが循環型社会の基本である。そうはいっても人間社会は一筋縄ではいかない。当然のことを当然の状態にもどすことにおいてすら、さまざまなためらいがあるということか。 |
それぞれの地域にはその地固有の風土があり、暮らしがあり、それに見合った食材と食べ方がある。それを「郷土食」というのだそうだ。その郷土食は近年、ファスト・フードやたくさんの冷凍食品などに押され影が薄くなっていた。でも最近その存在がみなおされてきたという。
「なんといっても健康が第一だよ。だから郷土食。」と若い友人はいう。 私はその郷土食で育てられてきた。思い出すことができる夏の郷土食といえばナスの漬物、蒸したナス、ナスの煮物、炒めもの、キュウリの漬物や煮物など、買ってきたものはほとんどない。旬の野菜というと聞こえはいいが自分の家の畑で採れたものばかり。ほとんど毎日が同じもののくり返しだった。 当時、郷土食という気取った言い方はなかった。あったとしてもそれは貧しさの別の表現だったと思う。今でもわが家の食事はそのころとあまり代わってはいないけれど。そんな身からすれば若い友人の言葉にいささか思いは複雑だ。 ふ〜ん、健康にいいってかぁ。そりゃそうだろう。でも大丈夫かい、質素だよ、と人ごとながら心配になる。 そんな折り、長井市の西根地区公民館から郷土食の調理本である「里のめぐみ」が発行された。作成したのは地区の60代、70代の四人の女性達。夏の郷土料理を食べながら、冊子の完成を祝いたいという案内をいただき参加した。出された献立は、お赤飯、くじら汁、だし、みずのおひたし、つけものなど。 「生まれて始めて取り組む、慣れない作業でした。郷土の素朴な料理や味を若い人達に伝えたい」とご婦人方の弁。 「残しておきたい郷土の料理」という副題のついた冊子を手にとり、めくってみる。「ふきのとう味噌」から始まるおよそ40品目。酢の物、あえ物、煮物、佃煮、炒り物、からめ物・・・そこには春、夏、秋、冬と季節ごとに分けられた様々な料理が丁寧な調理法と解説つきで書かれていた。 驚いた。質素だなんてとんでもない。限られた食材に加えられた多様な調理、工夫のかずかず。たしかにわが家の夏の郷土食といえば、ナスずくしだったが、一年を通してみればやっぱりいろんな物をたべていた。 ところで、郷土食というのはそれこそ何百年もの間、親から子、姑から嫁へと伝えられてきたものだった。しかしいま、郷土料理の本を都会の人達へではなく、おなじ郷土で暮らす人達にむかって発行しようとするのは、その伝達が立ち行かなくなっている現実があるからだろう。 この本の発行によって、若い人たちの中にも作ってみようという人が増えるかもしれない。そうあってほしいと思う。地元の風土に根ざした食の技(わざ)。このまま忘れられてしまうのはいかにもおしい。 冊子の問い合わせ;西根地区公民館(0238−84−6326) |
高校時代の三年間は、いい意味でも悪い意味でも、俺たちのその後の人生にずいぶん影響を与えているよね。えっ、その中の特に何がですと?笑うなよ、いいかい。それはな・・・こい・・koi・・恋。恋なんだよ。
少し大きめの制服を着た同級生の中から、一人の女性の姿を眼で追うようになったのは一年生の夏ぐらいからかなぁ。 以来、卒業までの三年間、悲恋、破恋、恥恋、笑恋、大失恋の数々。 あまり胸はってよそ様に語れるものはないけれど、胸の中にはいつも特定の人がすんでいたよ。 廊下ですれちがった時にわずかに眼があっただけで、どんな部活の苦しさにも耐えられると思ったし、そこにほんの少しの笑顔でも付け加われば、それこそ一週間は天国に昇ったような気分が続いたね。 当時はやった「高校三年生」という歌の中に「ぼくら、フォークダンスの手をとれば・・」という歌詞があったけど、そのフォークダンスが何日も前から楽しみで、前の日は念入りに髪を洗い、ツメをきり、と・・。でもね、笑っちゃうのは、イザその娘との番がまわってくるとガチガチになりながらも、わざとそっけなくするんだよね。ばかだねぇ、若いねぇ、かわいいねぇ、あのころの俺、俺たち。 俺たちは三年間の中で、異性とのつきあい方を学んだと思うよね。想像をやたらふくらませ、美化しすぎることなく、また、その逆でもなく、様々な失恋や悲恋の中から、等身大の異性との関係のとり方、つきあい方を学んだんだと思うんだ。 もっとも、俺の場合はまだまだ勉強が足りなかったとみえて、卒業後も悲恋、破恋・・は続くんだけどさ。 |
今月の10日、長井市西根地区の公民館で、「菜の花の村・未来づくりの会」の新年会がおこなわれた。
菜の花を楽しみ、その実であるナタネを搾って油をとり、使った後の廃食油を精製して車を走らせる。そんな目的をもった20名の老若男女が集まって会を結成したのは昨年の9月初旬のことだ。 2.6ヘクタールの畑に種をまき、生育状態を見守りつつ始めての新年をむかえた 2、6ヘクタールという面積は決して小さくはない。昨年、ナタネ油用の栽培面積が山形県全体で5ヘクタール弱しかなかったことを考えれば、お分かりいただけるだろう。初めての年としてはいいスタートがきれたと思う。菜の花の成育も順調だ。みんなの気分はいい。 「春になって花が咲いたらきれいだろうね。」「花畑のまん中にゴザを敷いて酒宴というのはどうだろうか。」鍋をつつきながら、話題はとっくに5月にとんでいる。 そんなとき「これから先の菜の花の栽培だけど・・・」と言葉を選びながら話しだしたのは、会の世話役の敏夫さんだった。 菜の花の栽培は転作作物として補助金の対象にはなっていない。そのため収入はナタネの販売利益だけだが、粗収入はうまくいって10アールあたり6万円ぐらいしか見込めず採算があわない。この現実の中でこれから先どうすすめるか。敏夫さんの話はこういうことだった。 栽培面積がふえている滋賀県などでは県や町の補助金をあてて小麦などと同じ10アールあたり10万円になるように不足分を補っているという。 しかし山形県にはその仕組みがない。いくら菜の花畑がきれいで、ナタネ油が安全でおいしくてもそれだけでは栽培は広がらない。その話を聞きながら「理と利の調和」ということを考えていた。 私は地域づくりには理念と利益のほどよい調和が大切だと思っている。このことは25.6年ほど前の減反拒否の手痛い失敗から学んだものだ。 理念の正しさだけでは仲間は増えず、地域を変える力にはなれない。理念の示すところには同時に利益があるということが、運動のダイナミズムを獲得するうえでは大事だ。これがなければ事業は広がりにくいし、継続しづらいだろう。 生活している立場にたてば、このことはしごく当たり前のことなのだが、その渦中にいると時には見えにくくなることがある。 ささやかな利益でいい。なるべくならそれを自力で確保したい。簡単なことではないことは分かっている。その難しさが「未来づくり」の醍醐味でもあると思えるのだが、現実には敏夫さんの話をどう受けとめたらいいのか。 |
置賜農業高校飯豊分校生が日本学校農業クラブ全国大会のプロジェクト発表文化・生活部門で「食物アレルギーの理解を求めて」という実践発表を行い、最優秀賞を受賞した。昨年の東北大会優秀賞に続いてのこと。
小さな分校の大きな快挙である。 学校農業クラブというのはあまり聞き慣れないが、全国の農業関係科目を学ぶ11万人の高校生の全国組織だそうだ。飯豊分校の実践がそのトップに立った。 地元の人達が集って開かれた「祝う会」で彼らの発表を聞き感動した。生徒達は実に堂々としている。内容もすばらしかった。 その活動を紹介しよう。 スタートは食と健康の視点から玄米に着目したことだった。その効果と活用の実態を調べようと様々な分野の人を訪ね話を聞いた。その結果、玄米の良さに一層の確信を持つが、食べにくいということから敬遠されている現状を知る。そこで学校で作っていた無農薬玄米を使い数々の玄米料理のレシピをつくる。更にレパートリーを広げ玄米ケーキ作りに挑戦。地元のお菓子屋さんと協力して商品化にも成功する。保育園の依頼を受けて自分たちのつくった玄米ケーキを園児たちに提供するようになった。 子どもたちはとても喜んでくれたが、中に食物アレルギーのために食べることができない園児がいることを知った。そんな子にこそ玄米を食べてもらいたいと、アレルギーの原因となる卵や小麦、乳製品を除いたケーキを作ろうと決意する。地元のケーキ屋さんからは「卵などがなければケーキは膨らまない。無理だ。」と言われたが、失敗を重ねて6ヶ月後、ついに成功する。 何度かくじけそうになったというが、苦しむ園児たちを助けてあげたいという思いが勝ったということだろう。 更にそれにとどまらず、アレルギーを持つ子どもたちのことを少しでも知ってもらおうと紙芝居を作成し各地で上演する。食と健康の問題を地域の中で広く訴えるために町民に呼びかけ、玄米フォーラムも開催した。 こんな一連の活動が受賞の対象となった。 これは高校を地域に開き、地域の課題を地域の人達とともに考え、その参加のもとに組み立てられていく新しい教育実践なのではないだろうか。高校の授業の中に地域を活かすというような、よく聞く領域を越えている。生徒もすばらしいが、それを支え、指導する教師の力量と情熱、それに学校全体の協力体制もみのがせない。この受賞は飯豊分校全体が評価され獲得した賞といえるだろう。 残念ながら現代は「食についても学ばなければいのちが危ない時代」である。農業高校は職業としての農業後継者を育てるだけでなく、いのちのみなもとである食や環境について考える生徒、人間を育てる場として今後ますますその役割が大きくなっていくだろう。 飯豊分校はその先頭を歩んでいる。 |
長井市ではレインボープランという名の生ごみと農作物が地域の中で循環するまちづくりをすすめているが、この事業に国内だけでなく外国からの視察者も多い。
先日、タイの東北部にあるカラシン県ポン市から市長一行がやって来た。 すでに同じタイ国のコンケーン県ブアカーオ市では「レインボープラン」という名の、同じ事業が始まっているが、ポン市でもこのプランを実現しようと市長自らが視察に出向いて来られたというわけだ。 タイでレインボープランを求める背景には環境や農業、食料のどれ一つとっても日本の私たちより深刻だという状況がある。たとえば農業だが、輸出用の商品作物を増産しようと農薬と化学肥料を多投してきた結果、土が疲弊し、満足に作物が育たなくなっている農地が増えているということだ。 「化学肥料によって栽培された作物を食べ続けてきたことも一因だと思いますが、人びとの免疫力が低下しています。糖尿病、高血圧、ガンなどの病気も増えてきました。私はいま市民の健康を、食の面から守ることが行政のとても大切な仕事だとおもっています。そのためにも是非レインボープランを実現したい」と市長は語る。 日本の場合も輸出こそしなかったが、堆肥から化学肥料へと農法を変え、タイと同じように効率と増産による最大利益を追い求めて来た結果、土が疲弊し、それが主な原因となって作物の弱りを引き起こしてきた。 「食品成分表」(女子栄養大学出版部)によって1954年と、約50年後の2001年のピーマンを比較すると、100gあたりに含まれるビタミンAの含有量は600単位から67単位へとほぼ1/9に激減している。ビタミンB1も0,1mgから0,03mgに、ビタミンB2は0,07mgから0,03mgへ、ビタミンCも200mgから76mgへと、のきなみ成分値を下げているのだ。 これには驚かされる。 今の私達がビタミンAをピーマンからとろうとしたら54年当時の9倍の数を食べなければ同じ分量にはならない。成分の下落は他の野菜にもいえること。身体は全て食べ物からつくられていくことを考えれば、この数値の低下はちょっと恐ろしい。 ポン市の市長が指摘するように、作物の質の低下は、それを食する者の免疫力、生命力にも大きな影響を与えるだろう。 政治や行政の最大の課題は、人々の健康、すなわちいのちを守ることである。そのいのちを支えるのはいうまでもなく食べものだ。その食べものを育むのが土であるならば、土を守ることは第一級の政治課題でなければならない。ポン市の市長さんの話を聞きながらそんなことを考えた。 ぜひ成功して欲しい。俺たちもこれからだ。 |
田植えの季節が終わった。今年も田んぼの主役は年寄り達だった。
今年75才になる我が集落の栄さん。彼は5年前の70才の時、自分の田んぼ1ヘクタールの他に、近所の農家から60アールを借り受けるほど米作りに情熱を燃やしていた。でも、この春、借りた田んぼをもとの農家に返したという。 どんなにかがっかりしているだろうと、田んぼの水加減を見ての帰り、栄さんの家によってみたら、想像していたよりずっと元気だった。 「足腰が痛くてよぉ。これがなければまだまだおもしろくやれるんだがなぁ・・」 「自分の田んぼはつくれるのかい?」 「あたりまえだぁ、だまってあと5年はできるぞ。生きているうちは現役よ。」 まだまだ意欲は衰えていなかった。やっぱりこの世代の人達は今の若い衆とモノが違う。 集落44戸のうち20戸が生産農家で、主な働き手の平均年齢は64才と高齢だ。 私が26才で農業に就いたときは、若い方から数えて三番目だった。若いということで寄り合いの時などは年輩者から「机をだして。」「灰皿ないよ。」と指示され雑用係を務めていた。そのときから28年たった。いまも私は若い方から数えて三番目だ。54才の私は、60代、70代の先輩のもと、同じように皿だ、箸だと率先して動かなければならない。おそらくは10年後も。あまり考えたくはないが。 「俺たちはよう、若い者たちをいたわっているんだよ。」そう話すのは74才の優さんだ。毎朝4時半には目が覚めるけど、家の若い衆を起こしてはならんと、しばらくじっとしていて、田んぼにいくのは5時半をまわってからだという。それもそっと。 そばにいた優さんの奥さんが笑いながらつけたした。 「私も、朝ごはんを出したり、掃除したりと、嫁を起こさないように注意しながらやっているよ。」 外に出てからもな・・と優さんはつけ加える。「勤めに出ている村の若い衆を起こさないように、遠い方の田んぼに行って草刈り機械のエンジンをかけるんだ。」 村では年寄りはいたわられるものという、よそで普通に聞く話は通用しない。我が集落の水田は、栄さんや優さんが現役でいる限りは大丈夫だ。 だが、もう一つの現実もある。栄さんは今年、畔草に除草剤をまいた。除草剤をまけば、畔の土がむき出しになり、崩れやすくなるのだが、足腰の痛みにはかなわないということだろう。 緑が日々濃さを増していく6月の水田風景。そのところどころに、除草剤による赤茶けた畔がめだつようになってきた。これもまた、高齢化する農村と農民の現実である。 10年後、どういうたんぼの光景が広がっているのだろう。 |
今年の4月から、22歳の息子が一緒に農業をやっている。うれしいような、切ないような複雑な気分だ。 何故って?うーん、例えていえばこんな感じかな。 嵐の海。難破船から次々とボートに乗って脱出していく人びとがいる。ぼくはこの難破船に残ることを決めた。他にも残る人はいるが大半は高齢者だ。するとそこに一人の若い男がやってきた。「お父さん、俺も残るよ。」よく見たら息子だ。「えっ、お前も残るのかい?」 ま、息子の決めたこと、尊重しようと思っているけどね。 それにしても・・・と考え込んでしまうよ。 この国の食べものや農業の実情はどうみてもおかしい。そして、そのことに「こんなことじゃダメだ」という声は上がらない。このこともおかしい。 例えば「飢餓の国」とマスコミで報じられる北朝鮮。多くの人は「北朝鮮の人はかわいそう」とテレビを見ているけれど、その穀物自給率は53%。日本はその半分の27%。ひとたび天変地異が起きれば、かの国以上の惨状を呈するであろうことは、容易に想像できるのだけど、誰も不安に思ってはいないようだ。おかしい。 例えば、この国の農業に従事している者の平均年齢は60歳代後半で、最も多い年齢層は70歳から74歳だということ。おじいさんとおばあさんが支えているんだよな。これっておかしい。でも、それなのに人々が先ざきのことをまったく不安に思っていないみたいだ。これもおかしい。 あるいは、前回書いた「野菜の質の低下」(24回)。こんなものを国民は広く食わせられているのに、「これじゃ、寿命をまっとうできなし、子どもも育つことができないじゃないか。」とは誰もさわがない。これはおかしい。 ニワトリも牛も豚も狭いケージ(カゴ)に入れられて、身動きできない状態で飼われているのに「かわいそうだよ。彼らにも人生がある。もっと広い所に飼ってあげようよ。」という声は聞かない。ペットには向けることができる思いやりも、彼らには働かない。彼らの不幸は我らの不幸。いのちはみんなつながっているというのに。これもおかしい。 おかしいけれどそれが現実だ。そんな中に新しい農民として旅立っていく息子の人生を考えるとちょっと心配かな。 でもね、いのちの源である土を守り、その上に生命力あふれる作物をつくる。大地を踏んで飛び回るニワトリを楽しみ、コロンと産んだ玉子をいただく。それらを人々に分け与える。 このように、「土」と「いのち」と「食べもの」の健康な関係を何よりも大切にして、汗を流して働くかぎり、人々に必要と認められる生き方はできるだろう。決して贅沢はできないだろうが、それはそれでいい。 大丈夫だ。難破船にだって、必ず道はあるはずだ。信じている。 |
copyright/kakinotane
洗濯竿を積んだトラックが、ボリュームを一杯に上げてやってきた。田んぼの種まきの準備をしていた午後のことだ。
「20年前と同じだとぉ?何を言っている。こっちは1万円も安いぞ。」
作業小屋で一緒にお茶を飲んでいた富さんが、小さくなっていくトラックを見ながらいつになく語気を強めて言った。
富さんが言うのは米の生産者手取り価格のことだ。昨年の米値段は、一俵あたり1万2千円から3千円の価格。今から20年ほど前の一等米の手取り価格が、2万2〜3千円ほどだったから、1万円は下ったことになる。米作り農家にとっては深刻な安さだ。ここ数年間でガタガタッときた。そのうえ約3割の減反。機械代や肥料代は当然のように上がっているから、昨年の場合、ほとんどの生産農家にとって利益がなかったか、赤字となっているはずだ。
「だけどこれはまだ序の口だ」と知人の農政ジャーナリストはいう。「米価はまだまだ下がるよ。数年のうちに1俵あたり一万円は切るだろう」と妙に自信たっぷりに断言した。米価暴落の背後にあるコメの輸入自由化はこれからが本番だからだ。
なぁ、おい・・と富さんの話は続く。
「消費者は、ここまでの安さを本当に求めているのだべか?農家が米作りをあきらめるほどの安さをよ。」
さぁーて、どうだろう。でも米作り農家にとって昨年の手取り価格が数年続くようなら大変な打撃になるだろうし、1万円を切るようなことになれば決定的だろう。
山形県の農業は、風景を見ても分かるように、水田を中心に営まれている。だからその影響は甚大だ。米作りだけでなく、農業そのものに見切りをつけていく人たちがたくさん出てくるにちがいない。
「それで困るのは消費者で、農家はいっこうに困らない。自分で食べるものだけをつくり、金は他に働きに出て稼げばいいのだから、という人もいるよな」
冨さんが反論した。
「そうとも言える。だけど農家にとってもきびしいぞ。公共事業はない。企業も人を雇わない。いま確実に収入として計算できるのは年寄りの年金だけだよ。うちの年寄りもますます勢いづくよなぁ・・」
冨さんはそう言い残してかえっていった。
いま、農業で働いている人の年齢層のピークは70〜74歳で、この層が日本の農業を支えているというのはよくいわれるが、農家の家計もまたこの層に支えられていくというわけか。うーん・・・。
まてまて、あきらめるのはまだ早い。必ず道はあるはずだ。さぁ、種まきにかかろうか。