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勤めから帰ると、奥方がテレビで『隠し剣 鬼の爪』という映画を観ていた。始まってからまだ20分くらいだというので、一緒に観た。藤沢周平+山田洋次の組み合わせで、セリフの庄内弁をかなり好く再現している。わたしの田舎は山形市なので、庄内弁を喋ることはできないが、聞き取りに不自由することはない。しかし、東京育ちの奥方は、3分の1くらいしか分からないという。それで、途中からはわたしの方が熱心に最後まで観た。

主人公の片桐宗藏ときえは、映画の中途で
「それは、だんな様のご命令でがんすか」
「んだ、命令だ」
という言葉を交わして一旦は別れて離ればなれとなり、また、映画の最後で同じ言葉を交わして、ふたりで蝦夷の地に人生の再出発をする。

『隠し剣 鬼の爪』は、幕末が目の前に迫った時代の話だが、山形地方の人たちには、北海道に新天地を求める気持ちが、それからずいぶん後の時代まで残っていたようだ。

わたしの父の兄、伯父にあたる人は、大正年代の終わりに家を出て北海道へ駆け落ちをした。

長兄に去られ、早いうちに家長の父親をも亡くした残りの家族4人は、困窮し苦労をかさねたようだ。兄がいてくれたらというわだかまりを、父はずっと持ち続けたようで、伯父の身の上の話に触れるのを好まなかった。だから詳しい経緯などは分からない。
けれど、2人で旅立った伯父の新天地での生活も、辛酸をなめただろうことが思われる。それは後に、駆け落ちした伯父夫婦のあいだに出来た長女を、身売り同然に置屋に養女に出しているなどの事実があるからだ。わたしの父が、身の処し方の相談にのっていた親戚の女性が、そういう不幸な履歴をもったひとであることを知ったときの、子供ながらの驚きを思い出す。

伯父の家族は道南に定着し、養女に出した長女の下に出来た双子の女児を育てあげた。父やわたしたち家族との交流が復活したのは、伯父が亡くなり成人した双子が結婚し、日本経済が高度成長を始めたころだったと思う。毎年、1斗缶に入った塩辛が北海道から贈られて来るようになり、お返しには柿を贈った。
双子の1人と結婚し婿となった人は、戦後労働運動史に三池の争議と並び称される王子製紙争議の組合リーダーだった。組合代表として、別の新天地の首都モスクワまで、何かの賞を受賞に行ったこともあったと聞いている。けれどその労働争議は、後に右翼の黒幕とよばれた、田中清玄などの介入で第2組合、第3組合を作られて、第1組合は解体状態となった。わたしが会ったころはもう組合運動から身を引いて、物静かな人になっていた。

わたしは養女に出された長女や、双子の女児といとこ関係だが、年齢的にはその子供たちと同世代である。新天地、北海道の第3世代は、わたしより1つ年上の長男を筆頭に、2歳ちがいに女児、男児と3人兄弟だった。
長男は東京の私学を出て、大手広告代理店に勤めた。2年勤めて道南に帰り、タウン誌を始めた。町興しのような方向に仕事を広げて行きたいと思っていたようだ。大学受験浪人をしていた弟もその仕事を手伝った。趣味も良心も理想も、家計や経営に与するためには、生半なちからではおぼつかない。4年ほど続けて会社は資金繰りに詰まった。新天地の第3世代は、出身地の山形にまで足を伸ばし金策に駆け回った。しかし、出身地に残る第1世代はすでに年金生活に入って、企業を救うほどの余力を持つものはもう誰もいなかった。

第2世代が築いた家を抵当に渡して、わたしの伯父の子孫たちは道内に四散したのだった。

わたしの親族の場所から遠く見る新天地、北海道は、さまざまな夢の破片がちらばった危うい大地である。

めじょけねえ、片桐宗藏ときえはその後どうなったのだろう。架空の未来にも心配は尽きない。


我が家では、夫婦がそれぞれワンコを1匹づつ抱いて寝ている。
奥方はミニチュアダックスフンドのももこと、わたしはヨークシャーテリアのななこと寝ている。
わたしが先に寝に就くときは、ももこも一緒に寝ることもあるが、朝はいつのまにか奥方の方に行っている。ななこもわたしが朝出かけた後は、奥方の方へ行って2度寝する。
ワンコはどちらも寝つきがよくて、わたしに腕枕をさせたり、肩に顎をのせたりして、フンーとため息をついてすぐ寝入ってしまう。

子供の頃、わたしは末っ子なので母親と一緒に寝ていた。
時々、父が一緒に寝ようと誘うのだが、わたしはいつも嫌がった。父の身体は煙草くさかったし、酒くさいこともあった。そして抱き寄せられる身体がゴツゴツしていて、気持ちよくなかった。
すると父は『少年ケニヤ』を読んでやるから、と誘うのだった。
父が読んでくれる「おもしろブック」の連載『少年ケニヤ』には、ウラーという土人の、妖術つかいの呪術師が登場して、少年ケニヤと対決する。
崖っぷちの細道の行く手は土砂崩れに阻まれ、土人たちとウラーが迫って来る。ウラーの髪はメデユッサのように顔の前に乱れ、その奥から真っ赤な目が睨んでいる。
小学生になってから、麻疹に伏せて昏睡しているとき、わたしはこのウラーの真っ赤な目に追われて、何度も長いうわ言をつぶやいた。逃げても逃げてもウラーが追ってくる。息を荒げて、なにか叫んで目が覚めた。
目は覚めたが、目が開かなかった。目蓋のなかの目やにが固まって、目が開かなかったのだ。わたしは目が潰れてしまったと思って、母親を呼びながら泣いた。

ワンコたちは寝ていて、わたしも顔負けの鼾をかいておどろかせたりする。
女の子のくせに無作法なと、首を起こし薄目をひらいて見ると、ワンコたちも薄目をあけて見ている。ももこはマイペースでまたすぐ寝入ってしまうが、ななこは「なに、なに、何なの」という表情でわたしを見ている。
寝つきの良いワンコたちはすぐにまた寝入って、何の夢を見ているのだろう。庭の土を掘ってでもいるつもりなのだろうか、ななこがしきりに前脚を動かしている。


ワンコが登場する2つのサイトが気になって、わたしはほとんど毎日見に行く。

1つは『daisukeとnanaの部屋』というブログサイトで、daiちゃんというやや大きめなミニチュアダックスフンドを中心にして、辰つぁんとその家族の日々の様子が綴られている。辰つぁんは、わたしも参加していた『んだんだ方言掲示板』という山形弁限定サイトの、書き込み仲間だった。
http://blog.goo.ne.jp/daisuke-nana

もう1つは『ほぼ日刊イトイ新聞』の『きまぐれカメラ』というコーナーで、イトイさんちのブイヨンちゃんが『にんげんのおかあさん』や『ばかおやじ』と、”ほぼ日”食う寝る遊んでいるのを見ることができる。
http://www.1101.com/cgi-bin/photolive.cgi?p=060216kimagure&s=0

この2つのサイトに登場する、daiちゃんとブイヨンちゃんは、ピーナッツコミックのように人間の言葉をつぶやく。サンケイ新聞の連載漫画で、スヌーピーに日本語を語らせているのは詩人の谷川俊太郎だが、daiちゃんとブイヨンちゃんに日本語をつぶやかせているのは、辰つぁんとイトイさんという『オヤジドノ』たちなのである。

『daisukeとnanaの部屋』のある日の画像
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/53/3d/1f0ea3d3542e13b1655130b19a9082f9.jpg
にそえられた、daiちゃんの顔をした辰つぁんの気持ちはこう言う。
『ママがボクのソファーにコタツ置いたから困ってるの。』

わたしは、この最後尾についている『の』が可愛いなと思って、しばらく見ている。
『ハラスがいた日々』で中野孝次は、ワンコ好きなひとの歌った短歌を紹介していて、それは、今度生まれ変わったら犬になって、自分の愛犬と心ゆくまで戯れてみたいという大意だったが、ナンダ、辰つぁんハ生マレ変ワラナクテモ先取リシテ楽シンデルジャナイカ、と羨ましさ半分でわたしはつぶやく。

『きまぐれカメラ』の方はこうである。
http://www.1101.com/cgi-bin/photolive.cgi?p=060216kimagure&s=20 03/05 10:29
ブイヨンちゃんの顔をしたイトイさんはご機嫌だ。
『お掃除をする前に、人間のおかあさんが、「あさからできあい」をしてくれました。ほんとは「できあい」よりも、散歩のほうが好きです。<『ブイヨンの気持ち(未刊)』より>』

「できあい」というのは、ブイヨンちゃんに樋口可南子さんが頬ずりしていることで、その女性らしい仕草をみとめて、手を肩におくような軽い批評性が、ワンコ言葉のなかに込められている。これまたわたしは羨ましさ半分で、少シおやじノ顔出シスギダヨ、と文句を言いながら、けれど、可愛さが失われない画像と言葉を、いいなと思って見ている。

もうひとつ、ワンコ絡みでほとんど毎日見ている、この日のサンケイ新聞朝刊のピーナッツコーナーでは、チャーリー・ブラウンの妹のサリーが、隣の部屋にいるチャーリーに『もう、おなか空いた?』と呼びかけていた。
チャーリーはスヌーピーをお腹にのせて、ソファーに横になっている。『返事をしたら、お腹が動いて犬が目を覚ましてしまう』と困っている。
我が家のももこがまだ4ヶ月くらいの幼犬だった頃、あぐらの中で眠らせて、チャリーと同じ理由で足のしびれを我慢していたことがあったのを、わたしは思い出した。あれも、もう8年前のことになる。

世界で1番知られているワンコ、ピーナッツの漫画は、1950年に始まっている。
チャーリー・ブラウンも齢を重ねていれば、わたしや『オヤジドノ』たちと同世代になっていたはずである。
漫画の世界に住んでいるチャーリーは歳をとらないが、1950年初期の漫画の絵と、今の姿ははっきり変わって来ている。肥ったわけでも、皺ができたわけでもない。チャーリー・ブラウン もともと頭髪は薄め?。
けれども初期の絵に比べて、描く線はやわらかく丸くなった。思いやりがあり気さくで、周りに控えめに生きていくための性格が、チャーリー・ブラウンの姿かたちの特徴に、重ねられる年齢の代わりに定着している。

『オヤジドノ』たちもわたしも、『身体と心を滅して』遊んでいるうちに、思えば遠く来たもんだ。



ギックリ腰は魔女の一撃によって起こるという。
もう10年以上前に読んだ、米原万里さんのエッセーでそれを知った。

わたしの魔女は、正体を知られてなお、律儀に1年に2度くらいづつ現れる。
天候が崩れ気味になって、ガラスの腰が気圧に過敏に反応しているときは、細心の注意をはらって免れているのだが、ああ、何時も魔女は不意に現われるのである。

勤め先のトイレで用事を済ませて、手を洗おうとして鏡をみた。右頬に何か黒いものが着いていた。何だろうと鏡に顔を近づけたとき、わたしの魔女が現われた。
また別の時には、テニスのスクールに行こうとして玄関でシューズを履いていたとき、わたしの魔女が現われたのであった。そのまま室内に這いもどって、行けないと断りの電話をかけたのだが、実に情けなかった。

魔女の一撃の祝福の効果は、だいたい平均5日ほどで解消する。普通の一撃には、わたしはその道の職人さんのように手を打って、数日の山篭りで一作ものにした陶芸家のように、日常生活に復帰する。

しかし、ドイツW杯の1年前、フル代表の練習試合があった夜にみまわれた一撃は、これまでの最深最大のものだった。市販の鎮痛剤は効かなかった。少しの身動きが腰の神経を刺激すると、衝撃がのど元にうめき声を迫り上げて、腰から全身に走る。わたしは危うく神様の名前をよびそうになった。

その時は長期の安静に備えて、枕元にミネラルウオータの容器とバナナの房と本を置いてもらった。
床の中で、ソルジェニツインの『収容所群島』6冊を20数年ぶりに読み返した。とにかく部数のある本をというわたしの要請に応えて、わが奥方が本棚から選んだものだった。ソビエット連邦崩壊の直後から、もう1度読み返してみようと思って10数年、実行されなかったことが出来たのだから、わたしの魔女にも配慮の気持ちがあるのだろうか。

しかし、いくらわたしに親密感を持ち始めたといっても、家族にまで近づいて悪戯をするのは困ったものだ。わたしの魔女はわが奥方にも、1年半ほど前、杖の一撃を見舞った。ギックリ腰の初心者は靴下や下着を身につけることさえ、他人の手を借りなければならなかった。

さらにわたしの深情けな魔女は、我が家の愛犬、ダックスフンドのももこにも手を出したようなのだ。
2週間くらい前、ももこが散歩をしたがらなくなった時があった。飯と散歩をなによりの楽しみにしているのだから、奇妙で不安な事だった。2日くらい、したいようにさせて様子を見ていたが、30センチ程のマットにも上らなくなった。係りつけの獣医さんに連れて行くと、ギックリ腰のようですね、というのだった。

我が家、2人と2匹の家族の2人と1匹は魔女に出会った仲間である。わたしの魔女とは、老化と肥満と運動不足の別名であろうかとひそかに疑うわたしは、もう1匹の家族、やきもち焼きのヨーキーななこの喉をくすぐりながら言う、「ななこや、家族だけど急いで皆といっしょの仲間にはならなくっていいよ」と。


法務局に行かなければならない用事があって、武蔵境駅から調布駅行へのバスに乗った。
車内奥に進んで、出口から2列目の2人掛席のひとつが空いていたので、「失礼します」と声をかけてその席に座った。

しばらく、バスの動きといっしょに揺れているうちに、わたしは隣のひとの肩が意志的にわたしを押しているように思えてきた。何か不自然な力を感じるのだった。どうなのだろうと隣を見てみると、もう70歳は過ぎているだろう、色黒な皺の深い老人の顔が無表情に前を見ていた。そしてそれから、押してくる力はますますあからさまなものになった。

わたしは格別大きな体でもないのに、こんなに邪魔にされてはヤレヤレ困ったなと思っていたが、バス停を2つ過ぎたところで最後列の座席が空いたので、そこに移った。

駐車したバス停から新しく乗り込んできた人たちが奥に進んできた。先頭の男性はわたしを2人掛席から排斥した人と、同年輩に見えた。そしてわたしが空けた座席をみつけると、ヨッコイショという掛け声をかけてその席に腰を下ろした。

係争はバスが発車して間もなくから始まった。
わたしが空けた席に座った老人が、隣を睨むように見ていた。やはり悪意の圧力を感じ取ったことを、わたしは知った。
それから、がっぷり四つの無言の力比べの押合いのような状態が、しばら続いた。しかし座席に対する先行受益者=既得権者の老人の体勢が不利になるに及んで、陣営を立て直すべく、人目も有らばこそに押し返したとき、冷戦は熱戦に変わった。

「座る権利の半分はオレにもあるんだ」座席に対する後発受益者の老人が怒鳴った。異変を感じ取っていた周辺から、それは乗客全員の注目を浴びる紛争となった。

そして老人同士の赤カテ白カテの押合い競技は、優劣を交換しながら延々、平等の権利を主張する老人がバスを降りるまで続いたのであった。

わたしたち乗客は、見て見ぬふりという使い慣れた擬態をきめこんで、笑えるが醜い、既得権と平等の権利のバランスの実地訓練を、同行30分ずっと見ていた


銀行で用件をすませてから会社に向かうと、品川駅で京急線に乗るのは10時を少し過ぎてしまう。その時間の電車はもう空いていて、のぞくと隣の車輌の様子もよく見える。

電車が品川駅を発車して間もなく、カーンカーンカーンと金属を打つ大きな音が隣の車輌から聞こえた。隣の車輌をのぞいて見ると、乗降口のドアそばに、背丈の小さな黒いコートを着た老人がステッキを持って立っていた。いつも聞いたことがない先刻の金属音は、どうやらそこから発したらしく、ステッキを持った老人は周囲の注目を浴びていた。老人は紅潮した顔をうつむけて何かブツブツつぶやいているようだった。

わたしは品川から2つ目の駅で降りる。
1番先頭の車輌の1番前のドアから降りるのが、その駅の改札口に近いので、急いでいる人たちは先頭の車輌に移ってくる。ステッキを持った老人も隣から歩いてきて、乗降口のドアのそばで私の前に立った。
電車が駅に着いてドアが開くと、乗車を待つ中年の恰幅の良い女性が、黒い革のバッグを持って立っていた。乗車と降車と、バッグを持った女性とステッキを持った老人がドアのところですれ違ったとき、パーンと音がして、女性が悲鳴をあげた。

わたしは見た。背丈の小さな老人が流れるような動作で、ステッキを振って打ったのを。

黒いコートの老人の後姿は、ホームの人たちを追い越しながら足早に遠ざかって行く。電車もドアを閉めて同じ方向に去って行った。乗り降りの瞬時に起きたことに気付いた人は、何人もいなかった。

改札口から道路に出て右方向を見ると、背丈の小さな老人は、ほとんど走る速さで国道の方へ向かっていた。持っているステッキで体を支えることなどは1度もなかった。

別の日に何度かわたしはこの老人を電車で見かけた。ある日は、駅の階段の手摺を激しく打ったのを見た。また別の日には、幼児の目の前で威嚇するようにステッキを振って驚かせていた。ホームで女性に追い越されたときには、後ろから切りつける空振りの動作をして、周りのひとを気味悪がらせた。
遠く離れて眺めた外観は映画の中で観るチャップリンに似ていたが、その外観に反して危険な老人だった。ステッキは身体補助具ではなく、暴力的な威嚇のための道具として持ち歩いているようだった。



品川駅の構内に、むかしの日本食堂の名残を残すレストランがある。
日本食堂の名残というのは、どこか官営の感じがすると同時に、店のコンセプトがよく分からない、雑多な雰囲気が漂っているのだ。けれどある意味、それは居やすい場所で、ダルな自分を投げ出しておける場所でもある。

土曜日に出社して仕事をしようと思った日、朝の8時頃、そのレストランでサンドイッチと紅茶の朝食をとっていたことがあった。

わたしは100円硬貨1枚で買えるサンケイ新聞を読みながら、味ばかりが濃い紅茶をのんでいた。横の席ではわたしと同年輩の夫婦が、モーニングセットを食べながら、娘婿の性格について堂々巡りの議論をしていた。そして、その向こうの席では体格の良い老人が、一人で雑誌を読みながら朝食をとっていた。勤め人が、忙しく食べ物をのみこんでいる週日とはちがった、どこかゆるんだ空気が漂っていた。

「うるさい。うるさーい。うるさーいー。」
突然の怒声による爆撃に驚いて、声がした方を見ると、立ち上がった体格の良い老人が、丸めた雑誌を振りまわしながら怒鳴っていた。歪んだ顔が青ざめている。
訳が分からず、驚くと同時にすこしのあいだ、周りは皆ぽかんとしていた。ややあって、一番間近にいてモーニングセットを食べている夫婦が、爆撃目標は自分たちなのかと、夫婦でアイコンタクトを交わしては、老人を盗み見している。

立ったまま老人は興奮で手を震わせていたが、
「うるさいんだ、うるさいんだよ。朝から英語なんか聞きたくないんだよ。ぺちゃくちゃぺちゃくちゃ黄色い声で、何様のつもりではしゃいでるんだ。30分我慢したが、もう嫌なんだいやだ、うるさーい。」とまた怒鳴りあげた。

英語?ぺちゃくちゃ黄色い声? それは自分でもないし隣でもない。そういえば振り返って見もしなかったが、後ろの方から時々陽気な英語の笑い声が聞こえていた。爆撃目標はそこなのだろうかと、いぶかしみながら振り返ってみた。

そこは立っている老人の後方7メートルほどの席で、周りに牽引式の旅行バッグをたくさん並べて、白人の女性が5人一塊になって談笑していた。週末のターミナル駅にふさわしいその風景にも、そこから聞こえてくる話し声にも、怒声による爆撃を浴びせなければならないほどのことはなにもなかった。

老人は爆撃目標たる後方には顔を向けず、余勢でまだその場に立っていた。わたしも周りの人たちも、零戦の第3次爆撃発進を見守って、1分が過ぎた。

2分、3分過ぎても轟音はなく、しだいに時間は間の抜けたものに変わった。
日常生活のざわめきが戻って、周りの人々の動作がそれぞれのものに戻ると、まだ起立している老人は、もう来歴も忘れられたまま小学校の校庭にいる、二宮金次郎のようなのであった。

わたしも速やかに日常に復帰して朝食を終えた。
立ち去り際に振り返ってみると、青ざめた攘夷のこころは、まだそこにしょんぼり立っていた。


M市M町に住んでいたとき、通勤電車の駅に行く道すがら、一軒の家の門標に『阿部定』という名前を見ておどろいたことがあった。
あの有名な事件の本人なのだろうかと、通る度にひそかに観察してみたが、それらしき老女をみることはなかった。夏の季節などに、もう定年をすぎたらしい男性がステテコ姿で、その家の前の道をよく掃き掃除していた。何度か見かけて、このひとがこの家の当主で、門標の名前は『定=さだし』とでも読むのだろうと想像し、しかし、あれ程の有名人とも同姓同名のひとはいるのだな、と感じ入った。

わたしの会社の取引先に、『阿部定』と音のよく似た阿部只という会社があった。あるとき倉庫の出荷業務の人間が、運送便の送り状の宛名書きに、『阿部定』と書いて出荷をしてしまったことがあった。繁忙期の忙しさの中で、意識下にあった名前が不意と出てしまったもので、悪気があってのことではなかった。
しかし、宛名書きを間違われた相手の反応はすさまじく、すぐ電話で怒鳴り込んできた。激高した声は「ふざけるにもほどがある。あんなチンポ切り変態女とうちの会社をいっしょにするんじゃない。おい、責任者を出せ。」と言い出して、なかなか収まらなかった。名前を間違えること自体失礼なのだが、間違って書いた名前があまりに有名なものだったので、弁解をすることも難しく、閉口した。
宛名書きをまちがえた作業員は、年齢も若く、自分の身の上に関わらない、戦前の事件などに特に関心をもつ者ではなかったから、『阿部定』という名前は、一般的な日本人の記憶として、ある根強い喚起力を持っているのだなと思ったものだった。

『阿部定』という名前は、友人や大人たちの噂話を仄聞するというかたちで、わたしも中学生のころから、事件の凡その経緯と一緒に知っていた。それを鮮明な像にしたのは、20代の終わりに観た大島渚監督の『愛のコリーダ』という映画だった。この映画はカンヌ映画祭を騒がしたと評判だった。その映画についての出版物が、猥褻罪の容疑で裁判になったりもした。映画で主演した、松田瑛子という女優の野生的な容姿は、その後数年、他の映画のポスターなどでもよく見かけたが、そのうち見なくなった。『阿部定』という名前も『愛のコリーダ』の印象も自然に薄れて行った。そして30代も半ばになったわたしは、大体自分は大島渚の映画を好きではなかったし、愉しんで観ていなかったことにも気付いた。
その後『阿部定』について知識を得たのは、Adslというパソコン通信の方法が出来て、Webでの回遊が楽になってから、『無限回廊』というサイトに行き会って得たものと、またそこからさらに回遊して読んだ『阿部定事件 予審調書』からのものがほとんど全てである。『無限回廊』というホームページは、近現代の日本におきた犯罪事件を簡潔な記述で収集しているサイトで、今も更新が続いている。
『阿部定事件 予審調書』では、下町の不良少女が、家を出て身を持ち崩し、事件にいたるまでの経過を編年体で通読することが出来る。予審調書に書かれている経過の流れがあまりにも自然で、どこから犯罪事件に踏み越えたのか、見落としてしまいそうになる。その印象を造っているのは、『阿部定』がいつも男女のなかの問題を、身の振り方の転機にしていること。男女のなかの問題が、「男女、7歳にして席を同じゅうせず」という旧倫理に対抗する、「恋愛」という新倫理ではなく、色恋沙汰という、庶民の欲望に流れる不良性に一貫していることにあるように思える。
『無限回廊』では、事件=『愛のコリーダ』が終わったところからの文章に、そうだったのかと認識を新たにすることを読んだ。ひとつは、2.26事件の勃発があった昭和11年という世相のなかで、『阿部定』が事件後、大変な人気者になったという報告である。例として1部の新聞などで「世直し大明神」とまでよばれたこと、また獄中の『阿部定』に、400通以上の結婚申し込みが来たこと、などが書かれている。もうひとつは太平洋戦争敗戦後、『阿部定』が劇団に所属し、自ら『阿部定』劇のヒロインを演じて全国を巡業した、という報告だ。それは生業のためだったといえば、理解はできるものの、やはり自分で自分の事件を演じて巡業するということには、何か尋常でないものを感じた。

その後わたしは、同じ市内ながらM町からS町にマンションを買って引っ越し、通勤電車の駅に通う道も変わった。そして『阿部定』さんの家の前を通ることも永いあいだなかった。
何年か経ってから、友人にテニスに誘われて、コートへ行く道筋としてその道を通った。
阿部という姓は同じだが、名前がちがって門標は変わっていた。板塀にそって並べられていた、たくさんの鉢植えの朝顔なども見当たらず、家の主の代わった気配があった。あのステテコ姿で掃き掃除をしていた『阿部定』さんは、もう亡くなったのかもしれないと思った。

わたしは自分自身の名前としっくりしたことがない。周りのひとに訊いてみると、そういう気分をもっている人達はけっこう多いようなのだ。ただわたし達は、江藤淳が『昭和の文人』で論じているように「任意の親の任意の子」であることは出来ない。だから、初めは苦く感じたお茶の味にも慣れて行くように、名前との齟齬をも親しんだ風味として生きて行く。
だが、自分の姓名を言うたびに『阿部定』が脇に立ち、つねに同行者のいる『阿部定』さんの人生は、ある苦節であったろうと思う。そして『阿部』も『定』も、姓と名としては珍しいものではないから、事件前に産まれて、同姓同名となったひと達は案外多かったのではないか。

「大日本帝国」と国号が統一された年に起きた『阿部定』事件から、もう70年経っている。

...もっと詳しく

最近、昔の知り合いの顔を30数年ぶりに見るという機会が、2度もあった。

1度目は例の洋画家和田義彦氏の酷似絵画の問題で、文部文科学省・文化庁の事務次官が、テレビで釈明会見をしたときだった。
画面の下に肩書きと名前のテロップが出ていた。
見覚えがあった。
おお、彼の名前じゃないか、と気づいてマジマジと画面を見詰めた。
確かに彼なのだが、30数年ぶりに見る姿形は、どこもここも緩んでいる。
ボカシが掛かっているのである。このことは、私自身にも同様のことが起きていることを、ただちに了解させる。
テレビの中の映像からは、なかなか焦点を結ばない若いころの彼の姿を探して、
わたしの視線は、クンクン地面をかぎまわる犬の仕草のようなのであった。

2度目は行きつけのイタリアンレストランの立ち飲みコーナーでのことだった。
そこでわたしは、モンテプルチアーノダブルッツォという赤ワインを、28杯飲んだという人を知った。
噂の酒豪と、会えば挨拶を交わし、時の話題について話し合ったりもした。
あるとき彼から、映画が好きで上映会を企画していることを聞いた。
ほうどんな映画をと問いかけると、「初映はゴダールの『勝手にしやがれ』」と答えた。
それから、映画の話題に話しが弾んだ。
『リトアニアへの旅の追憶』のことを話すと、
「同時期に、日本でも個人映画をやっていた若者がいましてね」と、ある個人名をあげた。
それはわたしの知遇の名前でもあった。
お互い何処で個人映画の作家と知り合ったのか話してみると、渋谷のアップルハウスという所に行き着いた。
アップルハウスは、30数年前ビートルズファンの会が、解放区として渋谷に確保した住居であった。
70年代の、野放図な自由に放たれた若者達が出入りしていた。
わたしは思い出した。
目の前にいる彼は、そこの主催者の1人だった。

若いころの姿は、私たちの中に潜んでいる忍びの者になってしまった。
分身の術で現そうとしても、すでに術は覚束ない。
ながいあいだ泥土に馴染んで、隠れ忍の草として過ごし、自分自身の正体も今は分からなくなってしまった。
敵は誰、味方や仲間は誰だったか。

そうだったのか、まあ、今夜は呑もう、と酒豪は言った。


土曜日の朝6時頃、ヨークシャーテリアのななこがやって来てわたしの部屋の扉を開けろ、とガリガリ爪をたてた。
扉を開けて、はしゃぎ娘が来たからには、ああ、もう眠れないと覚悟して、机の上の読み止しの本を取った。
そのとき机の上にあったペットボトルに手が触れたらしいのだが、気がつかなかった。
わたしはスノコベッドに入って、腹の上に載って来たななこを片手であしらいながら、本を読んでいた。
そのうち、ななこはわたしの手にじゃれることに飽きたらしく、腹の上から何処かに行ってしまった。
本を読んでいるわたしの耳に、小さなカチカチという音が聞こえて来た。
ななこが何かを齧っているのかと思って、回りを見てみたがななこの姿はなかった。
机の下に潜り込んで何かしているのかと、机の傍にも行ってみたが、そこにもななこはいなかった。
けれどもカチカチという音は、机から聞こえてくる。
見ると電源を切ってあるはずのノートパソコンが、ONのランプを点灯して聞き慣れない音を発している。
あっと思って見ると、ペットボトルがノートパソコンに倒れ掛かって、中のミネラルウォーターが、容器の半分ちかく流れ出してしまっていた。
ONのランプは点灯しているが、画面が真っ暗だったので、一度電源を切ってまた電源を入れた。
WINDOWSの文字が現れて、画面はまた真っ暗になってしまった。
もう一度電源を入れてみると、『オペレーティングのソフトが見当たりません』という文字が現れて画面はまた消えた。
それが、これまで5年間ちかく使って来たノートパソコンからの、最後の挨拶だった。
いわゆる水濡れ故障で、わたしのノートパソコンは成仏してしまったのである。

ペットボトルによる水害というものも、稀にあるものなのだ。


我が家の愛犬たちはどちらも小型犬で、散歩に連れて歩くと、幼稚園の引率のようだと言われる。
2匹のうち1匹は、ミニチュアダックスフンドのももこで、今年の夏が来ると、もう8歳になる。
もう1匹、ヨークシャーテリアのななこは、我が家の末っ子役で、今2歳半である。
生後8ヶ月ほどで体の成長は止まり、その後見た目は同じようなので、私たち夫婦はいつまでも子供扱いを止めない。
犬の年齢を人間の年齢に換算してみると、ももこは46歳、ななこは25歳となるのだが、夫婦は子離れが出来ないのである。
幼児語で話しかけることは珍しくなく、愛称も、ももちゃん→ももちん→ももぴん→ももちゃんぐむ、と(ななこの場合も同様)甘く意味不明に変形して、収拾も歯止めも付けられないまま、この先どうなるかも分からない。
子供を持たない私たち夫婦が、愛犬たちに幼児語ではなしかけるのは、堰き止められていた川が流れ始めたような開放感があって、分別ではやめられないのである。

かくして痴人の愛は進行する。

昨年の4月の頃だったろうか、向かいの空き地の隣で、家の建直しがあったとき、我が奥方は大工さんに片手間仕事の交渉に行った。
それは、前から夫婦で何度か話し合ってきた、心配事の解決策をたのみに行ったのだった。
私たちが居間のソファーに腰を下ろしていると、愛犬たちは、そこに飛び乗って擦り寄って来る。
ソファーの上でキスの挨拶を受けたり、膝の上で体を抱いたまま眠らせたり、手足の肉球をいたずらしたりして戯れるのは、夫婦と愛犬たちと、どちらにも欠かせない安息の時間なのだが、乗り降りのとき、小型犬の足腰関節に掛かる負担が体を傷めないか、心配でならなかった。
そしてその心配事は、私が使っているベッドについても、ももことななこは乗り降りをしたがったので、同じだった。
ソファーの上もベッドの上も、私たち夫婦と愛犬たちが、同じ平面にいるべきではないのかもしれない。
むしろ少しの間我慢して、乗り降りしないようにしつけるのが正しい解決なのだろう。
私は犬の健康・医学・習性・種別特性・心理等々について、すくなくても6、7冊の本は勉強して来たのであったが。

大工さんは、本当に好いのですねと確かめて、ソファーの4本脚をすばやくミニチュアダックスフンド状態にしてくれた。
変形されて、イタリア=ミラノ製の座椅子仕様となったソファーは、分別出来ない私たち夫婦によく似て、格好よくなかった。やれやれの外観になってしまった。
話してみると、大工さんもチワワを飼っている犬好きの人で、私のベッドも知り合いのリサイクルショップに運んでくれることになった。
家具修理屋さんにたのめば、1万円くらいのところを犬仲間友情価格、〆て5千円にしてもらった。
現在、私が使っている通信販売で買ったベッドも、とても奇妙なものだ。
ドイツ製だとのことだが、ぺったんこな枠組みに反った板を張り渡したスノコのようなもので、愛犬たちが乗ろうと降りようと安全は絶対間違いない。

私たち夫婦飼い主は分別を放棄して、痴人の愛に流されているが、愛犬どうしの間には微笑ましいたしかなものが生まれ育っている。
生後2ヶ月弱のころから、ももこと何時も一緒のななこは、ももこを母親と思っているようなのだ。
ななこは嬉しいことがあったとき、先ずももこの脚を甘噛みしてはしゃぎ回る。
纏われつかれるももこにも、それに応える母性が芽生えて来ているようで、散歩のとき他所の犬がななこに接近するのを許さなくなった。
我が家の愛犬たちは、子離れできない飼い主たちとは別に、年齢相応に成育しているのであった。


『涙を、獅子のたてがみに』という映画の一場面をよく思い浮かべた。
終わりの場面かもしれない。

若い女性が海辺に立って、彼方を見ている。
夏の雲が流れ、水平線を船が行き来し、
しだいに暮れなずんで行く中に、女性はいつまでも立ち尽くしている。

その情景が担っていた感情を考えてみたこともある。
時がながれて行っても固定されている悲しみ、私はそう思っている。

可憐だった加賀まりこ。

言葉をどう繋げばいいか困るが、そこにドスンとお地蔵様が落ちて来た、
加賀まりこが動けなかった位置に。

あの、砂の上にあるお地蔵様を見に行こうよ、と奥方が言う。
私は二頭の犬のリードを離して、
ももちゃんぐむ、ななちゃんぐむ、走るぞ、と声をかける。

これ、可愛いね、お地蔵様と並んで立って奥方が言う。
ご当地キティみたいだね、と私が答える。
ももとななは、熱心に足元の匂いをかいでいる。
そういえば、キティちゃんのモデルが加賀まりこだったっていうのは、
有名なはなしよね。それって、団塊のつくった都市伝説?。

いま何時、わたしが訊くと
ソウネダイタイネ、奥方は『渚のシンドバッド』を歌いだす。
カラオケは不得意なくせに。
音楽と官能と味覚はいたずらな三人姉妹で、多くを費やして悔いることなく、

誰かが私を味見している。
チャングムの美しいイ・ヨンエは、一時味覚をうしなってしまって、多くの苦難を
小さなふたつの舌が、額と喉をなめている。
こらこら、耳のなかまでなめるんじゃない。
わかった、わかった、
何が。永遠が。
海と溶け合うお地蔵様が。


解題『考エゴトヲシテイルウチ、ウトウト夢ノナカニ。オ嬢犬タチニナメラレテ、現ヘ』


もう3年前のこと。

会社の役員の一人Hが、インフルエンザをこじらせて肺炎になったことがあった。
本来なら入院して治療しなければならない程だったが、病室の空きがなく、しばらく薬をもらって家から通院していた。
5日も家にいることが続くと退屈になってきて、まだ顔色も青ざめていたが出社し始めた。
木曜日、金曜日と会社に出て、土曜日曜の休みをはさんで月曜日に出て来たときには、周りの者にも回復の兆しがはっきりと分かった。

それから2日後、外に昼食をとりに出掛けたH役員が、会社にもどって食後服用の薬を飲もうとしていた。
薬袋を見て、「ありゃりゃりゃりゃりゃー」と奇声を発し、顔を引きつらせている。
どうしたんですか、と何人かの社員が周りに集まると、黙って薬袋を差し出した。
見ると袋には、薬の説明が次のように書いてあった。

******錠  うつ病 尿失禁 の薬
******錠  前立腺肥大 の薬
何処で誰がまちがったのか、H役員は肺炎治療とはまったく関係のない薬をのんでいたわけだ。

怒り、恐怖、、動揺、さまざまな感情の嵐に襲われて、H役員の顔色は赤くなったり青くなったりいそがしかった。
周りに集まった者もひとしきりざわめいていたが、社員の一人が
「しかし、こんな肺炎と関係ない薬をのんでいても、しっかり治られるんだから、H役員はほんとに体が丈夫なんですね」と奇妙に感じ入った。
すると皆もそれに同調して、いやいやH役員は間違った薬にも負けない丈夫な体で、大したものだということになった。
感情的に混乱した辛い場面だったが、そんな風にほめられてしまったH役員は、周りの者に怒ることもならず、「いやあ、えへへへへ」などと、ただ苦笑をしていたのだった。


(んだんだ方言掲示板過去ログから転載します)

きょうの朝、銀行さよって外為の仕事さんなねがら、ちぇっと遅ぐ通勤バス
さのったんだ。
ほしたら、2つくらいバス停すぎたとごで、赤ちゃん抱えたお母さんが乗ってきて、
オラが座ってる、前の席さ座ったんだ。
お母さんは赤ちゃんば、胸合わせるみだいに抱いっでから、ちょうどオラの顔ど
前の座席の赤ちゃんが、顔見合わせでしまうんだっけ。
ほしたら、なにが気に入ったんだが、ほの赤ちゃんは、オラの顔見で、ニコニコ、
ニコニコしてんだっす。
「あらら、おじちゃんのこど、気に入ったの(・・?」なて合図ば、目と口で送ったり
しったんだげんと、すこす遊ばせる気になて、
顔下むげで、「ひかりあれー」なて、オラの、光在る頭頂ば、赤ちゃんさ、見せつけでみだんだっす。
ほしたらほれが、赤ちゃんに大うげで、きゃっきゃ、きゃっきゃなんだっす。
2,3度くりかえして、遊ばせで、フト対面の優先席さ(^.^)向けで見だら、
優先席さ座ってだおばあちゃんも、ヘンナオジサン、ば、笑ってだっけっすう。
振り返ったお母さんも、ヘンナオジサン、ば、笑ってだっけっすう。

ほうして見られっど、さすがに恥ずがすいっけ。
んだげんと、笑って始まる、いい朝だっけな。


高校生の悪ガキ4人が集まって相談した。
女の子に声をかけて、つきあった経験があるかどうか。
誰もなかった。
やってみることになった。
4人が在籍している高校の東に、女子高があって、
並木の坂道を女子高生たちが通学していた。
手っ取り早く、これを誘ってみようということになった。
根性をきめて、なんぱに出掛けた。
ところが坂道に行ってみると、
歩いてくる女子高生がほとんどいない。
女子高生は、バスや自転車に乗って帰宅してゆく。
しょうがない、自転車の女子高生をつかまえよう。
じゃんけんで順番を決めた。
決心する間もなく、
おさげのセーラー服が自転車でやって来た。
先発君が駆け足でスタートした。
あ、あのっ、お茶のみませんか。
えー、おさげの顔が歪んで、目がまんまる。
気持ち悪―い。
こぐこぐ自転車。
あのっ、ちょっと、お茶、はあはあ、お茶。
おさげは見る間に遠くなった。
安全地域から何度かふりかえって、見えなくなった。
2番目君、3番目君スタート、
以下同文。
ポニーテールの自転車が走ってきて、わたしの番になった。
駆け足で伴走するかっこうになると、えっ、とこちらを見た。
お話しませんか。
わたしを見ている。成功するかも。
ちょっとの時間、話しませんか。見ている。
自転車をこぎながら見ている。
んー、今日はいいや、あーはははははは。

ポニーテールも去って行った。


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