HOME > 草木塔を歩く

27 飯豊町大字岩倉の「草木塔」

  • 27 飯豊町大字岩倉の「草木塔」
飯豊町の中津川へ、また戻る。
米沢市万世町梓山の草木塔から4年後に建っている。
年代を追って回るという、一応自分で決めたルールを守って訪ねていくと、本当にあちこちへ跳ぶ格好になる。

さて、中津川の白川荘からさらに奥の方へ進んでいくと、資料によると塩の畑(しおのはた)という場所に建っているらしいという情報のみ。
もともとの場所から移設されているということで、たいていわかりやすいところへ移すものだが…と車をゆっくり走らせると道端の小高い畑の縁に石塔群が建っていた。



すぐ近くに人家はなく、数百メートル先に人が住んでいそうな建物が見える。
中津川は、元気のある地区だけれど、過疎であるには違いない。
その途中までも、廃屋や、家が解体された跡などが目についた。

さて、この場所は、午前中に来た方が、碑面がよく見えたに違いない。左後方から西日が射し、資料として見るにはちょっと画像は難しい。

碑面には、「草木塔」と刻まれている。
しかし、石塔の上部がだいぶ壊れてきているようで、草という字はだいぶ読みにくい。
建立年は、資料によると安政5年(1858年)とある。
大きさも、135cmとあるのだが、破損か地面にめり込んだかわからぬが、1m足らずにしか見えない。


石塔の裏面もだいぶ磨滅しており、この地は半端な豪雪地ではないだけに、今後の保存は気にかかるところだ。

ただし、他の4基の石塔と並んでいて、庚申塔ともう一つは穴あき石が供えられているところから「どうろくじん」ではないかと思うのだけれどどうだろう。
お参りをしている形跡があり、こうして石塔が身を寄せるように建っていると、きっと守られていくんじゃないだろうかという気がする。


旧中津川村は、かつて三沢村と同じ南置賜郡であった。
昭和二十年代後半から三十年ごろの、いわゆる昭和の大合併のとき三沢村(田沢・簗沢・小野川・赤芝)は米沢に合併し、中津川村は西置賜郡飯豊町となった。

かつて、同じ選挙区であったことや、山仕事なども一緒にしたという話を、年配の方々から聴くことがある。実際、姻戚関係も多い。
そう考えると、中津川に数多く草木塔(草木供養塔)が建っていることはそう不思議なことではない。
2011.08.07:dentakuji:コメント(0):[草木塔を歩く]

26 米沢市万世町梓山の草木塔

  • 26 米沢市万世町梓山の草木塔
川西町上小松から、また大きく離れて米沢市の東のはずれの方にある梓山の奥にある草木塔。

万世の福祉の里の前を通り、さらに奥に進んだところに、昔からの集落があり、ここには元から住んでいた人よりも、新に住人になったり、別荘を建てている人の方が多い場所になっている。

個人的な感想になるが、なんとなく落ち着ける雰囲気を持つ土地なのかもしれない。

その道を進むと、梓山山の神社が鎮座している。
鳥居の先に、参篭所と思われる建物があり、石段の奥には大きな石宮の祠が祀られている。



鳥居をくぐった先に、その草木塔は鎮座している。
なんといっても、その高さは2mを越えるもので、碑面の「草木塔」という文字も非常に大きく力強く堂々と刻まれており、陽の雰囲気が漂っているように感じる。
江戸期に建立されたものとしては、おそらく最大だと思われる。

資料によると、嘉永7年(1854年)10月2日建立 一村中 とある。
凝灰岩の加工石とあるが、見た感じから今までの凝灰岩の墓石型とは全く異なっている。


よく言えばおおらか、別な言い方をすれば加工が雑なように思う。

万世には1841年に赤浜に建った「山の神 惣木供養塔」、1845年 刈安の「草木供養塔」 そして「草木塔」。
三基の碑文が、年代が近いにもかかわらず、まったく別というのはどういうことなのだろうか。



万世地区は、米沢市の西に位置する簗沢・三沢・綱木と並び、木流しが行われてきた地と聞いている。
双方の地に山仕事や木流しの交流があったものなのだろうか。
2011.08.06:dentakuji:コメント(0):[草木塔を歩く]

25 川西町上小松諏訪の草木供養塔

  • 25 川西町上小松諏訪の草木供養塔
玉庭の奥の温井から、小松の街中へ向かう。
小路に入って諏訪神社の鳥居の横側に並ぶ石塔群の中に建っておりました。



碑面には「草木供養塔」としっかり刻まれております。
ただし、供養の「養」という字は、文字を左右に配したような字(このPCで出てきませんーー;)。

資料によると、嘉永三年(1850年)三月十七日建立とある。
塩地平に建立されてから70年経過した頃。
今まで見てきた草木塔(草木供養塔)の中では、最も街中に近いところに建っているのかな。
昔の村の様子はわからないけど、現在地で言えばそういう感じ。



凝灰岩の加工石で、墓石型をしている。
これはたしか、
川西町大舟の旧新蔵峠沿いに建っている草木供養塔とそっくり。
表面の処理も似ている。
あちらは文化13年(1816年)だから、37年経過しているものの、当時の墓石はこういうものがスタンダードであったのだろうか。

元々はどこに建っていたものなのか。
この様子だと、石塔群はこの場所に集められて建てられた感じ。


それにしても、神社は寺院と違う清々しさと言ったらよいのでしょうか、こころが凛となるような心もちがいたいます。
なぜここに、街中に近いところに建てられたのでしょう。






2011.08.04:dentakuji:コメント(0):[草木塔を歩く]

24 川西町玉庭温井の草木塔

  • 24 川西町玉庭温井の草木塔
米沢市の万世から川西町玉庭へと戻る。

玉庭も上和合から権平峠へ向かう道を1.5kmほど入っていたところの道端に建っている。
ここから峠までの間には、かつて温井集落があったのだが、いまは、別荘らしき建物はあるものの、残念ながら住んでいる人がいない。
この先から沢沿いに入り、立岩山荘という施設を中心とした自然体験できる場所が造られている。

この権平峠を越えると、飯豊町の小屋集落でえある。

米沢市の田沢地区からだと、戸長里集落から ささ峠(通称)を越えて権平峠に向かうので、わが家からだとそう遠い感じはしない。



小山田信一先生などの報告にも会ったとおり、石塔は真中から折れてしまっているのを補修されて建っていた。
地域の有志の方によってなされたものと聞いている。

碑面には「草木塔」と、素朴な感じがする文字が彫られている。
資料によると、嘉永2年(1849年)8月9日 建立とある

80センチメートル足らずの小ぶりな石塔は、よく見ると三つに割れていたことがわかる。



おそらく、雪や除雪の影響によって壊れたものと思われる。
この場所に修復再建されたことで、散逸せずに残ることができるだろう。

この前の万世町刈安の草木供養塔と玉庭矢の沢の草木塔から4年である。
米沢市田沢地区、飯豊町小屋地区、そしてこの川西町玉庭地区の位置的に真中みたいな場所にあり、ここに建っていることは全く不思議なことではない。



住む人がいなくなり、かつて田んぼであった所も荒れ果ててしまっている。
しかし、この場所には、ここで山の仕事を生業にしていた多くの人たちの思いが残っているような気がする。

2011.08.04:dentakuji:コメント(0):[草木塔を歩く]

23 米沢市万世町刈安の草木供養塔

  • 23 米沢市万世町刈安の草木供養塔
玉庭から米沢市の万世と、まるで反対方向に同じ年に建立された草木供養塔がある。
米沢市内から国道13号線を栗子峠方面へ向かうと、右側に刈安集落が見えてくる。
この地は、昔の万世大路に繋がる交通の要所ではなかったかと想像できる。集落の米沢側のこんもりとした山があり、この頂上に山神が祀られている神社がある。



山の向こう側が米沢方面になる。
向かって右側の下が国道13号線で、ひっきりなしに車が通る音がしている。
逆側の向かって左側は、新しいルートの道路が建設中で、工事と工事車両の音が絶え間なく聞こえてくる。
その真ん中にあって、この場所は、まるで砦のように残っているのではないかという気がしてきた。

草木供養塔は、まさに神社の入り口、鳥居の足元のところにまったく目立たないで建っている。

1m足らずの自然石は、やや地面に埋もれがちで、草木供養塔の塔の字が見えにくい状態になっている。
草の上に「バン」という梵字が彫られているのが見える。
建立日などは肉眼で確認できない。
資料によると、弘化2年(1845年)八月八日、建立者は東原寺とあるらしい。
字体は玉庭の矢の沢のものとは違って、平易な書体のようだ。


草木供養塔の隣には、2倍もあるはるかに立派な湯殿山の塔があり、この左手には、「月山、湯殿山、羽黒山」と刻まれた珍しい石塔もある。


鳥居をくぐってこの山を直登する石段が、急角度で苔が雨で滑る状態におびえながら頂上の神社まで行った。
巨大な岩がご神体になっているようだ。

この場所は、この集落の人々の手によって、とてもきれいに手入れされている。
鎮守の森というか、何かを守ってくれる特別な場所のような感じがした。


はたして、もともとこの場所にあったものはよくわからないのだけれど、この地にあっても不思議ではないような気持になっている。

2011.07.30:dentakuji:コメント(0):[草木塔を歩く]