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40番目 川西町上奥田飯坂の草木塔

  • 40番目 川西町上奥田飯坂の草木塔
  • 40番目 川西町上奥田飯坂の草木塔

上和田に建てらた同じ年に、川西町にも建っています。

口田沢から小松へ向かう道を、上奥田集落のすこし山手の方の道沿いに、木立があり大宮様という小さな祠があるその前方にありました。

大宮様の祠は、氏子さんらしき名前が書いてある碑や、布がかけられており、お祭りがおこなわれているのがわかります。

 

草木塔の方は、その前方にひっそりとあります。

もともとここにあったものなのか、どこかから移動してきたものかはわかりません。

ここの脇は旧道があったのではないかという感じの名残があります。

 

草木塔は凝灰岩でできており、お墓形です。

表面には「草木塔」という文字ですが、草の日の部分を縦線が通っています。

年月日塔は摩耗しており、かろうじて読める程度。

資料によると、明治9年(1876年) 、一村中とありますが、もうちょっと何か書いておるように見えました。

後日、もっと詳しく調べようと思います。

石塔の脇には、町で建てた説明看板がありましたが、すでに雪囲いされていました。

 

大宮様のお陰で、集落の人に見守られてちゃんと建ってるように感じました。

 

 

2013.12.15:dentakuji:コメント(0):[草木塔を歩く]

39番目 高畠町上和田土合の草木塔

  • 39番目 高畠町上和田土合の草木塔

上和田の草木塔の二つ目は、38番目の太田釣堀さんの側からそれほど遠くない、井上さんという方が所有されているブドウ畑のの一角にひっそりと建っていました。

 

凝灰岩でできているようで、おそらく高畠石だと思われます。

草木塔の「草」の字は「くさかんむり」だけで読ませる字体です。

私の撮った写真ではあまりできが良くなくて、見えにくいのですが、実際はもうちょっと解りやすいようです。

このときは、草木塔の会の団体での見学でしたので、じっくり撮ることができなかったもので・・・と言い訳をして、また時間を作ってちゃんと撮り直してみたいものです。

 

さて、資料によると、建立年月日は、明治9年(1876年)8月8日。

上和田のもう一つの塔と全く同じです。

この塔には台座があり、建立者名が刻まれているそうです。

金子仁三郎 金子又右エ門 金子徳右エ門

左側に 入会村 石工 我妻喜惣兵  と、あるそうですが、全く確認できませんでした。

 

前回も書きましたが、窪田村の入会山がある4ヶ所に建てたとすれば、それがこの一つなのかもしれません。

となると、もう一つのものが建立日が同じということから、趣旨は同じというかのせいも考えられます。

けれど、同じ趣旨で同じ日に建立ということなら、石塔も同じような字体であったり意匠であるような気もしますが、果たしてどうなのでしょうね。

 

この石塔がある所には、その他にもいくつかの石塔が立っていたり転がっていたりしていました。

雪に押されたりしてそうなったのでしょう。

その一つが、道の分岐点を表す石だと、この日の参加者の一人がみつけました。

この石塔が立っている場所の脇には小路が残っており、昔の街道だったと言う説があり、興味深いものでした。

 

井上さんの先代の方が、この畑周辺にあった石塔をここに寄せたともいわれているそうですが、詳しい由来は、また次の機会にお聴きしたいと思います。

2013.12.01:dentakuji:コメント(0):[草木塔を歩く]

38番目 高畠町上和田の草木塔

  • 38番目 高畠町上和田の草木塔

高畠町にもじつは(古い)草木塔があります。

上和田の太田釣堀というところがあり、向かい側のブドウ園側の道の向こう側でした。

紅葉した木の脇に、ちゃんと建っていました。

ただ、資料にある写真と比較したら、位置が変わっているようなしまwした。

凝灰岩で、やや加工された感のある石です。

表面にははっきりした字体で「草木塔」と刻まれています。

段差がついていますけど、字がしっかり残っているので、割れたりしたものではないのでしょう。

建立年月日ははっきり読みとれませんでしたが、資料によると、明治9年(1876年) 8月8日。

同じく資料によると、建立者は佐藤八三郎。

さらに左側に世話人 二宮佐エ門 我妻冶三郎 二宮惣兵エ とあるそうです。

高さは1mほどで、よく目立つ所にあり、よいですね。

 

建立の趣旨はよく判らないのですが、高畠町の歴史に詳しい方によると、米沢の窪田町の入会山に関する文書があり、その中に和田地区の入会山に4基建てたという記述があるそうです。

そうであれば、4基の草木塔が建っている可能性があるのですが、見つかっていません。

この草木塔は移動している可能性もあるそうです。

2013.11.24:dentakuji:コメント(0):[草木塔を歩く]

37番目 飯豊町琵琶郷の草木塔

明治5年(1872年) 8月25日 建立と資料にある草木塔。

飯豊町中津川地区にある、はずなのでありますが・・・。

ついに、いまだ見つけることができません・・・でした。

藤巻氏や梅津氏の資料によると、間違いなくそれはあるはずなのです。

広河原地区へ向かう途中で、すでに集落は無くなっている地域です。

旧道沿いの金毘羅様境内にあると、梅津氏の資料にはあるのですが、どうしたことでしょう。

来春、改めて探してみたいと思います。

 

2013.11.14:dentakuji:コメント(0):[草木塔を歩く]

36番目 川西町時田の「草木供養塔」

  • 36番目 川西町時田の「草木供養塔」
  • 36番目 川西町時田の「草木供養塔」

同じ川西町の平野部に現れます。

時田の八幡寺(やはたじ)さまの境内の中に建立されている「草木供養塔」。

国道287号沿線にある、お寺の門を入って、本堂と庫裡が一体になっている建物の、庫裡の前にある築山の中に建っています。

庭はきれいに手入れをされておられ、その中に建っていました。

しかも、今回の目的の草木塔の手前に、もう一基「草木塔」が建っていました。

これについては、順を追って、次回以降にご紹介します。

 

さて、今回の草木供養塔は、凝灰岩で60センチほどの大きさの塔です。

特徴のある文字で、中央の「草木供養塔」と刻まれているのははっきり読みとることができます。

けれども、その両側の文字は摩耗が進んでおり読みにくくなっています。

西側を向いて建っているので、晴れた日の夕刻に訪れたのですが、ところどころはっきりしない箇所があります。

資料とあわせながら観ると「あぁなるほどぉ」という感じです。

「明治二年 三月十七日」 とあり 建立者は不明です。

 

玉庭御伊勢町の草木塔建立から半年足らず。

しかも、冬の三月ではまだ雪が残っていたことでしょう。

そして、「草木塔」からまた「草木供養塔」。

以前、町の民俗に詳しい方に聞いたところでは、建立の経緯ははっきりしないとのことで、もともとの建立地はこの近くの別の所だったのではないか、ということでした。

 

八幡寺さまは元禄2年(1689年)の創立で、寺号を受けている古刹ですが、それ以前から加持祈祷を行うお堂があり法印がいたとのこと。

明治の神仏分離令が出た折に修験宗から新義真言宗に移っておられます。

このあたりの経緯は、私どもの田沢寺も同じ経緯をたどっています。

本堂とは別に、八幡さまを祀るお堂が建っています。

そのお堂の裏側には、湯殿山をはじめとした石塔群が並んでいます。(草木塔がある所とは別です)

 

この度は、お寺のおばさまに挨拶をして、撮影の許可をいただきました。

手入れされた庭で大切に守られている草木供養塔でした。

2013.10.17:dentakuji:コメント(0):[草木塔を歩く]