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(261)『図解・仏像の見分け方』

  • (261)『図解・仏像の見分け方』

大法輪編集部:編 (大法輪閣  1992年8月10日発行)

 

なんともうしましょうか、「僧侶なんだから仏像には詳しいでしょ?」そう聞かれるとちょいと辛いものがありまして、申し訳ないけど「解らない仏像はいっぱいあるよ」、と答えています。

あまり納得されないかもしれませんが、しかたがありません。

 

むしろ、仏像に関する専門家は、仏教美術を専門とする学芸員や仏師の方がはるかに広く深い知識を持ってらっしゃいます。

ですから、私は、彼らによく教えてもらっています。

 

私のお寺のご本尊は不動明王。

お寺と奥の院のお不動様の両方とも立ち姿です。

ただ、私が見た限りでもその作風は異なっており、時代も違うようです。

お不動様でも、坐像もありますし、その他独特なお姿をしているのもあります。

比較的、姿よ持っている紋などが特徴的なもので、解りやすい仏像の一つの言っていいでしょう。

 

数年前、初めて依頼を受けて、ある集落へお地蔵さん(地蔵菩薩)の御堂改修工事のためご供養に行きました。

仏像は石造で立派なお姿でしたが、豪雪地ゆえ、お堂の傷みが激しく、しばらくの間御祭りをお休みしていたとのことでした。

 

ただ、ご供養ししばらく眺めていたら、どうもその顔や姿、手にもっている蓮の花など、観音様にしか見えなくなってしまいました。

お地蔵さまの特徴である、人間らしいお姿とか寶珠や錫杖というものも持っていないし・・・。

意を決して、代表の方に「この仏さまは、観音さんではありませんか」と尋ねてみました。

「いやぁ、おらだは昔からお地蔵さまってお参りしったぜ」とのことでした。

「そうですか・・・」ということになりましたが、どうも納得できない想いです。

その後、改修工事を終えて、開眼供養を修めさせていただきました。

 

地蔵経という本には、お地蔵さまは人を教化し導くために、様々な形に姿を変えると書いてあります。

そうだとしたら、お地蔵さんが観音様に姿を変えたとしても不思議ではないことになりますね。

それ以降、その集落からはお祭りに呼ばれなくなりましたので、お参りに行く機会も得られないでおりますが。

 

様々な仏さまの姿を知って、その願いをお経などから学ぶ姿勢は必要でありますね。

2014.03.06:dentakuji:コメント(0):[お寺の本棚]

(260)『ことわざの知恵』

  • (260)『ことわざの知恵』

岩波書店辞典編集部:編 (岩波新書 2002年1月18日発行)

 

人と話をしている時、何気なく「ことわざ」を使ったりすることがある。

職業柄、法話などというほどでもないのだけれど、小咄的なお話しをすることが、時々あったりして、そんな時も。

 

先の、日常での会話の中では「五十歩百歩」というのはひょっと使いますね。

もっと品わるく言う時は「目くそ鼻くそを笑う」を略して「目くそ鼻くそ」とうような意味で、たいして変わり映えしないものを比べて優劣つけることを揶揄する感じになります。

「豚に真珠」とか「馬の耳ん念仏」とか「猫に小判」というのもありますね。

これはそう頻繁には使いませんが、使い方や場所を弁えぬと、とんだ失敗に終わりますの注意しなければなりません。

 

後者の方でいえば「袖振り合うも他生の縁」というのがある。

これは、今生きているこの時だけでなく、生まれ変わる過去か未来のどこかの命の中で縁があって、こうして巡り合うことができる。というような意味で、仏教的な死生観があるわけです。

縁がなかった、という言い方もよく聞かれますね。

ことわざではありませんが、努力が必ずしも報われるとは限らない、そんなことを原因が自分の手の届かない領域もあるという諦観も必要な時があるように感じます。

 

最後はこれ。

「好きこそものの上手なれ」

趣味であれ仕事であれ、好きで続けていくことこそ、上達の道だというわけですね。

本が好きで、その感想を書き続けていれば、文章もうまく表現できるようになるのではなかろうかと続けているのではありますがね・・・。

「下手の横好き」ということわざもちゃんと用意されていたりするのですよ。

ことわざの面白さはこういったとこにあるのかもしれない。

 

2014.02.27:dentakuji:コメント(0):[お寺の本棚]

(259)『ふるさとの詩』

  • (259)『ふるさとの詩』

遠藤岩根:著 (不忘出版  2005年10月15日発行)

 

さてこの本は、私が出た高校の大先輩であり、縁あって、様々なところで関わらせていただいている方の本なのです。

 

私立の高等学校の教員として長年勤められ、すでに退職なさってから干支が一回りぐらいなさっているはず。

その遠藤さんが、おそらく退職なさってしばらくして、様々なところで書かれた文章をまとめる機会になさったのだろうと思います。

それは学校内の機関誌であったり、地域誌であったり、郷土の文化団体の冊子であったりと多岐にわたる。

あわせて、結婚式の祝辞やスピーチ、講演の記録なども文章化されてあるのが面白い。

 

著者が生まれ育った集落は、大きなダムの計画により、湖底に沈み実際にはなくなってしまった、山間の地域である。

そこはなくなってしまったけれど、その生まれ育った家や地域の中での教育力(と言っていいのでしょうか・・・)が、著者の中にしっかり根付いているということを感じずにはいられない。

ふるさとの形はなくなったけれど、遠藤さんという人間がちゃんとその家庭や地域を体現している。

それがこの著書の『ふるさとの詩』ということになったのではなかろうか。

 

同級生から、遠藤先生というたいへん面白くて素敵な先生がいらっしゃるということは聞いていた。

高校卒業後、約30年経過して出会うことになり、また「ふるさと」について考える機会を与えていただくことになるとは。

ただ、遠藤岩根さんというお名前から、全く勝手な私の想像なのだが、なんというか・・・シュッとしたロマンスグレーの紳士を想像していたのでした。

ところが実際にお会いしてみると、・・・想像以上に素敵な紳士でいらっしゃたのではありますが。。。(^^)

縁あって芸文団体の集まりに参加させていただいた折、遠藤さんと私ともう人方が集められて写真を撮られ、のちに広報紙に「輝ける3人」というタイトルを付けていただいたのでした。

お分かりとは思いますが、人体の上方が輝いており、じつに親しみやすい容貌でらっしゃいました(失礼)。

 

ある講演録の冒頭に「いやぁ、今日は朝シャンをしてきれいにしてきました」というとこが書いてありました。

氏が何度か会議の司会などをなさる時に聞いた言葉です。

こんど、私も使わせていただこうと思っています。

 

ご自分の子供と関わる、大切な時間のことも記してあります。

いつか、私も子供とこんなふうに関わりたいものと、むねがちょっと熱くなりました

2014.02.17:dentakuji:コメント(0):[お寺の本棚]

(258)『おばあちゃんのお茶うけ』

  • (258)『おばあちゃんのお茶うけ』

信州の漬物・おやつ・郷土料理 240品

 

吉田文子:文・写真 (川辺書林  2002年1月8日初版発行)

 

田舎のおばちゃん(おばあちゃん)はお茶のみ(茶のみ話し)が大好きである。

もちろん、街中に住むおばあちゃんだっておばちゃんもそうなのだろうけれども、それが、米沢という田舎にあっても街中と農山村ではちょっと違いがあったりして面白い。

この本の著者は、信州で出会ったばあちゃんたちの、茶のみの様子とお茶うけに興味を持って、人を介して多くの人のお茶うけを見て、写真と作り方、その人たちのエピソードを紹介している。

 

内陸で深い山が多い信州のお茶うけ文化と、こちら米沢の田沢あたりのそれとはどこか似ているような気がしてとても興味深い。

 

私は、他所のお宅に伺って、お茶をいただきながらお話しするという機会が多い。多いというより、おおかたそういう時間なのですね。

こちらでは、「お茶おき」と、なまりなのか方言なのかよく解らないが、そういう。

通常、お盆の上にお茶うけとして「お菓子」「漬物」「煮物」が鉢に盛られてセットされる。

普段の日常と、来客がある場合などで、内容や品数は違ってくるものの、揃えてある。

お客さまによっては、もう一品増えたり、銘々皿に個別のお菓子を用意されることもある。

常平生は、お盆に取り箸ついていて、それで手に取ってとか小皿などがあればそれにとって食す。

 

このお茶うけの習慣がない所からきた、若い人やおっさんが、いきなりとり箸で自分の口に運ぶなんてこともあったりして魂消ることもあるのだが。

 

関東近辺や東京などに行って暮してみると、お盆にお茶うけセットしてあるのは、ほとんど見たことがない。

たいてい、銘々に盛られて用意されているものだ。

 

さて、著者と私は同い年である。

料理教室の講師をしているだけあって、細かく取材して、おばあちゃんたちの昔から伝わる得意のお茶うけ、或いは最近はやりのものも紹介されている。

 

私も食いしん坊である。

あちらこちらの家で用意してくださるお茶うけを、食べずにはいられないのですね。

特に漬物や山菜やその季節の野菜を使った煮物など、どうしても手が出る。

その家その家で味付けも異なり、我が家と同じような味つけに出会ったりするとホッとするし、こんなふうにするといいのかというのもあって、感動である。

 

仕事がら法事の時、お茶を飲む時間があって、田舎の方ではおばあちゃんがいると8~9割方のところで寒天がお茶うけに出る。

私は、これに手を出さずにはおられない。

食べて美味い!という以外に、いろいろ言うものだから、寒天評論家というあだ名までいただいてしまった。

だいぶ山の方のお宅で、自分の所で生ったクルミで寄せた寒天を出してくださるお宅がある。

クルミの量が半端でなく多く、荒っぽく刻んだものを入れてあるのだけれど、口触りと固さも絶妙で、もう最高なのだ。

パクパク食べる姿がよほど美味そうで嬉しそうだったのだろう、それ以来そのお宅に行く度に「クルミ寒天、作ってたからな!」と言われて、ご馳走になって来る。

 

田舎のお茶うけ文化は、なかなか奥深くて素敵なものだと思う。

2014.02.10:dentakuji:コメント(0):[お寺の本棚]

258 『暮しの中の妖怪たち』

  • 258 『暮しの中の妖怪たち』

岩井宏實:著 (文化出版局  1986年8月11日発行)

 

妖怪と幽霊の違いって何だろう。

この本の表紙画を見ていると、これは幽霊なのじゃないだろうか?と思ったのであります。

私のイメージとしては、です。

 

本文の中で、妖怪と幽霊の違いについての記述部分があるので引用してみます。

「・・・幽霊も怪異の共同幻想・共同幻覚から、妖怪と同じに考えられることもあるが、厳密には区別されるべきであろう。妖怪の場合、空想の怪異が動物の怪、樹木の怪その他、様々なものの化け物があるが、幽霊は端的に言うと怨念を持った人間の霊が、その意思伝達のために出現するものである。そして、出現場所はだいたいそれぞれの妖怪によってきまっていて、人間がそこを通らねば妖怪に出会わないのが普通であるが、幽霊は出会いたい人間がどこにいようと、出ようと思えば千里の道も遠しとせず、どこへでも現れる。逆に言えば幽霊に狙われた人間は、どこへ行っても追いかけられるということである。もちろん中にはきまった場所に出現する場合もある。・・・」

 

というようなことであるようだ。

ただし、「番長皿屋敷」のお菊さんや「四谷怪談」のお岩さんのような幽霊はその屋敷や場所に決まって現れるものもあるようでだ。

幽霊は、より個人的な深い恨みを持って現れると考えてもよいのかもしれない。

 

私の世代の妖怪と言えば、マンガやアニメで水木しげるの「ゲゲゲの鬼太郎」に登場する妖怪が親しみやすい。やはり、そこには世の不合理や不条理というよなことが関わっており、どこか悲しいユーモアという部分があるように思う。

 

時代を同じくして、「ウルトラQ」特撮テレビ番組があったものだが、ここに登場する怪物(と言えるかどうかですが)も同じような印象がある。

金の亡者になった子どもがカネゴンという怪獣になったりというように、怪獣というよりは妖怪なのではないかと思っていた。

 

私は特に霊感があったり、亡者の魂と交信ができたり、というようなことはない。

けれど、子どもの頃決まって夢に現れるものがある。

それは、数字なのであります。数字が形になって夜中にトイレに行ってもどこに行ってもついてきて、私に覆いかぶさろうとするのです。もう怖くて怖くて隠れてもむだなのです。そうしているうちに目が覚め、汗びっしょりになって、熱を出しているということが、小学生ぐらいまであった。

これは私一人のことなので、妖怪ではなく、妄想とか幻覚というものなのでしょうけれど、私にとっては今でも妖怪のようなものだと思い出すことがある。

 

さて、3年前の大震災が引き起こした、原発事故が引き起こされ、大きなダメージをうけた(被っている)わけです。

まさに、目に見えない妖怪としてこの先何十年、またはもっと長い時間、向きあって行かなければならないものがあるわけです。

妖怪がいなくなる日を望みつつ、その妖怪の存在を誤魔化そうという妖怪によって、取り返しがつかない事態にならぬことを祈りたいものですね。

 

 

 

2014.02.04:dentakuji:コメント(0):[お寺の本棚]