HOME > 記事一覧

「家族の対話」

家族の対話と一口に言ってもとても難しい。
真の対話は、相手の欠点に触れたり、自分の弱点を露呈することにつながることもある。

それに、われわれ日本人は言葉で表現せずに、互いに察しあうという伝統を長く持ってきた。
急に対話と言われても、そう簡単にはできるものではない。

しかし、現代は家族内でも対話を必要とする時代になってきた。よほどの覚悟でなければ対話はできない。

(「人生学ことはじめ」より)
2006.12.02:反田快舟:コメント(0):[自分を見つめる]

「家族とは何かを問い直す時期が来ている」

 生も死も家庭からなくなろうとしている。
そういう方向でずっと進んでいくのか。
例えば、老人は一人で生きて、老人ホームに行くものなのか。
それとも、もう一度みんなが生きていく原点として家庭の意味を考え直すようになるのか。

 いまは、実験のような感じで、みんな家庭の外に出て行っているが、こうバラバラになっていても結局は楽しくない。
楽しみは苦しみと一緒にあるもので、家族で苦しんだり楽しんだりする方がよいのではないかと反省が起こるのではないか。

(「人生学ことはじめ」より)

2006.12.01:反田快舟:コメント(0):[自分を見つめる]

健康な人間の環境条件

健康な人間の環境条件とは、次のようなことをいうのだそうである。
① 輝く太陽
② きれいな空気
③ きれいな水
④ 完全な食物

 科学技術の発達によって、われわれの生活環境はすっかり変わり、文明、文化の遠く及ばない原始自然の状態とは、まったく隔絶したものになってきた。
放射能、煙害、スモッグ、騒音によって汚染された大気からは、きれいな空気は望むべくもなく、密集して建てられた都市の谷間からは、輝く太陽をながめるすべもない。

 生産機能の拡大は、消費、廃棄、自然還元のバランスを崩し、各種の汚水、加工色素、農薬、防腐剤、消毒剤の混入した水からは、きれいな水は期待できそうにもない。
 
 各種化学薬品の乱用から、食用動物には奇型を生じ、摂取する魚類、牛、豚、馬、ひつじ、とり、たまごなど動物性たんぱく質についても、安全なものはない。

 農産物についても同じことがいえる。失われたものを求めて、原始にかえり、自然に戻ろうという基本的な欲求は、一つは自然環境破壊反対、日照権を守れなどという住民運動となってあらわれているが、個人としての立場からは、自分の力をもって獲得しようと、それをレジャーやセカンドハウスに求め、あるいは科学機器に頼ろうとしている。

この四つの基本的な環境条件に対する姿勢はいずれも
① よりよく-できるかぎりそれに似た状態に
② より近く-空間的に(距離)
③ より速く-時間的に
④ より安く-費用面から
ということである。

レジャーやセカンドハウスという形で、安らぎの場を求めようとする場合は、この条件を満たすものでなければならない。換言すると、レジャー施設のねらい、キャッチフレーズ、セールスポイントなどは、いずれもこれでなければならないということである。

 また、機器開発の着眼もこれである。
太陽の光りに近い照明、太陽光線と同じ作用をする人工光線発生器や、紫外線透視ガラス、空気清浄器から、オゾン発生、除湿、有毒ガスなどの防御装置。
小さくは酸素吸入マスクに至るまでである。

きれいな水となると、水道のじゃ口にとりつける簡易消毒器から、水がうまくなる装置など、種々あろう。

完全な食物となると、自然食品から、玄米食運動、それを容易にするための各種機器も出ている。

われわれは、生き物である以上、生存の根本条件を考え、よりよき人間の環境条件をつくり、社会人類に奉仕し、なおかつ利益をあげる新事業のあり方について、正しい姿勢をとっていくべきではないだろうか。


2006.11.28:反田快舟:コメント(0):[経営箴言]

「母性のジレンマ」

 お母さんだけには何でもいいなさい、と説教する母親がいるけれど、子供が自分の秘密を大切にするということ、信頼や誇りを守ることについて無知すぎる気がする。

 痛み、苦しみといったマイナスの体験は子供になるべく味あわせない方がいい、と母親は考える。子供の涙を見るのは親として辛いからだ。
しかし、人生には耐えねばならないことがあって、怒りや悲しみが自分にとってどんな力になりうるのかを、子供のうちに知っておく必要があると思う。

 日本の女性は、いますごくジレンマにある。母性にも非常にひかれるし、自分の人生を考えると、母性を否定したくなる。そういうジレンマは非常に大きいと考えられる。

(「人生学ことはじめ」より)
2006.11.28:反田快舟:コメント(0):[自分を見つめる]

「父性の崩壊」

以前は家というものが大きい意味での母になっていた。それを支えるために父権があった。
ところが父権の方は壊れたので、母性の方が前面に出てきた。日本の昔のしつけは母性原理ができるようにしつけた。

つまり、自分の好きなことをやれ、というのではなく、やりたいことは辛抱して皆と同じようにしなさい、と。
だから他人に対する配慮をどうするかを優先した。そのしつけは、おやじは非常に厳しかった。

おやじが厳しのは父性的だが、その背後に動いている原理が母性的であった。
ところが今、日本の母性原理そのものがゆらいでいるから、子供たちは一体どちらの原理でとうしたらいいか分からなくなっている。

父親は自分の存在、自分なりの掟を体現して生きているということが一番大切だと思う。
あとは遊んでいようが、子供を放っておこうが、子供は分かる。そういう点はもっと子供を信頼していいと思う。

(人生学ことはじめより)

2006.11.27:反田快舟:コメント(0):[自分を見つめる]