「蚕桑駅は母を恋う駅共に降り 田の間(あい)行きき祖父の家へと」(武子)
短歌は武子さんの作品である。「蚕桑駅は母を恋う駅」というフレーズに作者の思いのすべてが表現されているように思う。そして、列車の中でお母さんはどんな話をしてくれたのだろうか。お母さんの手を握りながらお爺さんの家が見えて来た時は、どんな気持ちだったろうか。お爺さんはどんな顔で迎えてくれたのだろうか。また、お祖母ちゃんはどうしたのだろう、などと読む人の想像を掻き立てるのである。それは短歌が持つ「余白の力」なのかもしれない。
写真は鈴木啓公さんの作品である。鈴木さんは、「今展のテーマを知る前に、“視線”を意識して撮った作品です。」と教えてくれました。うす暗い車内灯を視野の片端におきながら、車窓に流れる桜の景色をぼんやりと“眺め”ている自分がいる。焦点の定まらない視線の先には何が見えているのだろう。心の中に広がる空虚なもの。それは楽しかったひと時との別れか、あるいは逝った祖父母との惜別だったのか。写真は画像として切り取られた一瞬ではあるが、そこには時間の流れがあり、その時空に浮遊している“自分”という存在を見るのである。
通常のコラボ展では「写真を見て短歌を詠む」あるいは「短歌の世界観に合わせて写真を撮る」という手法が一般的なようである。しかし本展では、それぞれが全く独立して制作されたものである。この展示空間に立つ人は短歌から写真を想像し、写真から短歌を詠もうとする。そしてその次には、脳内に穏やかならぬコンフリクトを抱えながら、自分なりの新たな心象風景を描こうするのではないか。そのように考えると、本展は歌詠み人と写真家、そして鑑賞者の三つの視線が交差する舞台ではなかろうか。今回紹介した二つの作品を観てそんなことを感じた。



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