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昭和9年

  • 昭和9年
  • 昭和9年

古い画像は旧国道13号(現一般県道南陽川西線)のバイパス工事の様子です。

 

昭和9年(1934)東北地方を冷害が襲いました。

昭和5年以来の恐慌と6~7年の凶作の中で、農産物は下落し農村は極度に疲弊していました。

そこに追い打ちをかけるように冷害に見舞われ、山形県では平年作の約半分強の収穫しかありませんでした。

当時、中川村の農地は他市町村の大地主(不在地主)所有が多く、3分の2が小作地でした。

大凶作にもかかわらず、自家飯米も顧みず、小作料を現物で納入したため困窮を極めました。

 

国は被害農家を救済するため各地で土木事業を行い、農民に現金収入の途を与えました。

中川地区内では、国道鳥上坂の切り下げ工事、川樋から中川駅裏を通るバイパス新設、花窪坂の切り下げ工事などが行われました。

賃金は60銭内外で希望者が多く、未明から起きて現場で待っていたといいます。

 

参考:南陽市史下巻、中川風土記

2022.03.12:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

地名考 大貝

  • 地名考 大貝
  • 地名考 大貝

元中山地区の字大貝(オオガイ)です。

上山市中山地区と隣接し、中山から釜渡戸を経由し宮内へ至る宮内道が通ります。

 

カイ(貝)は峡谷(峡:カイ)や崖地、また開墾地(開:カイ)をいう場合があります。

大貝は山と山に囲まれていますが、大きい(深い)峡谷ではありません。山麓の傾斜地に水田や畑が広がる場所ですので、開墾地の意で名付けられたと考えられます。

 

1595年頃の邑鑑によれば、中山村(元中山含む)は戸数72、人口434、村高1700石でした。

江戸時代、中山村では開墾が進められ、文政10年(1827)村目録では戸数199、人口979、村高2927石と大きく発展しました。

大貝もその開墾地の一つと考えられます。

 

参考:地名のなぞを探る~やまがた~ 木村正太郎著

   南陽市史中巻

2022.03.04:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

地名考 中ノ倉山と御林下

  • 地名考 中ノ倉山と御林下
  • 地名考 中ノ倉山と御林下

小岩沢地区の字中ノ倉山と山の麓が字御林下(オハヤシシタ)です。

 

御林は江戸時代、米沢藩の官林のことで、御林に取立てられると山年貢その他税負担を免除されますが、その山では草を刈ることも出来ません。

江戸時代は草葉を使った刈敷(カリシキ)※に頼って田畑を耕作していたので困ることになります。

 

米沢藩は山を単なる木材の供給地とするだけでなく、水林や保安林として重要視していました。

「御林集」という藩の台帳によれば、南陽市に関係ある御林は53カ所あり、中ノ倉は雑木立と書かれていますので保安林として管理されていました。

 

さて中ノ倉の地名ですが、小岩沢地区には「倉」がつく字名が一ノ倉山、柴倉山、免古倉とありいずれも山で急傾斜地です。

盆地の中にある倉(山)で中ノ倉になったと考えます。

 

※刈った草葉を地中に埋めて発酵させた肥料

 

参考:南陽市中巻

2022.03.03:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

地名考 小屋場

  • 地名考 小屋場

川樋と金山との境にある字小屋場です。

 

明暦3年(1626)12月に米沢藩は北条郷(現南陽市一帯)において大鳥狩を催しました。

南陽市史中巻より引用

「藩主網勝は、22日午後4時頃、中條・平林両奉行以下を供に赤湯御殿に到着した。雪路なので雪舟(そり)に乗ってきたという。

翌23日は明け六ツ(午前6時頃)に御殿を出立、「御小屋場」に向った。御小屋場は「宮内村之内石切場」とある。「御狩場之図」で見ると川樋村と金山村の間あたりらしい。その辺で石を切り出していたのであろう。」

 

コヤがつく地名は荒野の新開地が多いのですが、石切りに鍛冶小屋は必ず附属していますので、そこから名付けられたのでしょうか。

 

字小屋場の近くには砥石沢鉱山(金山地区)があり、字鍛治屋敷もあります。

2022.02.21:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

地名考 寺浦と稲葉山

  • 地名考 寺浦と稲葉山
  • 地名考 寺浦と稲葉山

川樋地区にある字寺浦(画像1)と稲葉山(画像2)です。

 

寺浦は松林寺の裏側にあることから名付けられました。寺裏とも書きます。

以前は水田が広がっていました。

お米の生産調整が始まるまでは、水があればどんな山の奥でも田んぼにして、お米を作っていました。

小さい田んぼだと6畳くらいの大きさしかなかったと教えていただきました。

川樋字吉蔵田も山の中にあるのですが、国土地理院HPの空中写真を見ると田んぼが確認できます。

 

稲葉は稲の干場のことです。

南向きで日当たりが良いことから、寺浦の田の稲を稲葉山麓の道沿いに干していたことから名付けられました。

2022.02.15:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]