「花山道」の道標(みちしるべ)と同じ大正14年(1925)に建てられたのが、県道原中川停車場線と市道小岩沢南沢山線の交差点にある道標です。
こちらの道標は風化と削られた跡があり、判読できない文字があります。
正面に「子易観音□二□□□」
側面に「二井宿□□□□□□」
反対側の側面に「大正拾四年四月建設 中川青□會」
(□は判読できず。會は会の旧字体)
と刻まれているように見えます。
この当時は青年団と青□会の2つの組織があったようです。
ラジオやテレビなどなかった江戸時代・明治時代の人々の楽しみの一つに、鎮守様のお祭り、またそのとき神社に奉納した草相撲などがありました。
大勢の見物人が見守る土俵の上で、力自慢の草相撲の力士たちが技を競いあい、勝ち力士は見物人の拍手のなか意気揚々と引上げました。
小岩沢上の市道に面して高さ2メートルばかりの石碑が建っています。
正面に「三代目 秀ノ山門人 小森岩」と刻まれ、台石の左右には軍配、手桶などの相撲道具が浮彫になっている手のこんだ碑です。
この「小森岩」の碑は明治20年4月、門人たちが建てたもので、世話人である唐糸左之助と小櫻藤四郎の名が刻まれています。
参考:市報なんよう 歴史の散歩道 錦三郎 著 平成3年
公民館だよりに「宝山塔」を紹介しようと新田地区の山崎神社に行ってきました。
神社参道入口の石灯篭をよく見ると「寛政十二庚申天」と刻されています。(画像1と2枚目)
寛政十二年(西暦1800年)の新田村は石碑・石造物の建設ラッシュでした。
山崎神社参道のそばにある「百萬返塔」(画像3)もこの年の建立です。
この年は庚申の年、新田庚申塚にも「庚申塔」(画像4)が建てられました。
また、川樋との境にある地蔵堂の近くにある「日本廻國供養塔」(画像5)もこの年に建てられています。
寛政期の米沢藩は上杉鷹山公による農村復興や領民保護など様々な改革が行われていた時期です。
天明の大飢饉(1783~1787)などの凶作で疲弊していた農村が徐々に立ち直り、寛政十一年(1799)の豊作で、少し余裕が出て来たことが石造物の建立から伺えます。