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小岩沢 道標2

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「花山道」の道標(みちしるべ)と同じ大正14年(1925)に建てられたのが、県道原中川停車場線と市道小岩沢南沢山線の交差点にある道標です。

 

こちらの道標は風化と削られた跡があり、判読できない文字があります。

正面に「子易観音□二□□□」

側面に「二井宿□□□□□□」

反対側の側面に「大正拾四年四月建設 中川青□會」

(□は判読できず。會は会の旧字体)

と刻まれているように見えます。

 

この当時は青年団と青□会の2つの組織があったようです。

2021.10.15:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

小岩沢 道標

  • 小岩沢 道標
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小岩沢地区にある道標(みちしるべ)です。

小岩沢公民館前の坂道を登っていくと右側に建っています。

 

正面に「花山道」

側面に「子易観音経二井宿近道」

背面に「大正十四年五月建 中川青年團小岩沢支部」

と刻まれています。

市道小岩沢南沢山線は「花山道」という名前だったことを初めて知りました。

 

この道は子易観音堂までは車で行けますが、観音堂からは標高600mの急な山を通る山道です。

高畠町二井宿を経て七ヶ宿・奥州街道に通じる近道でした。

2021.10.14:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

小岩沢 小森岩の碑

  • 小岩沢 小森岩の碑
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ラジオやテレビなどなかった江戸時代・明治時代の人々の楽しみの一つに、鎮守様のお祭り、またそのとき神社に奉納した草相撲などがありました。

大勢の見物人が見守る土俵の上で、力自慢の草相撲の力士たちが技を競いあい、勝ち力士は見物人の拍手のなか意気揚々と引上げました。

 

小岩沢上の市道に面して高さ2メートルばかりの石碑が建っています。

正面に「三代目 秀ノ山門人 小森岩」と刻まれ、台石の左右には軍配、手桶などの相撲道具が浮彫になっている手のこんだ碑です。

この「小森岩」の碑は明治20年4月、門人たちが建てたもので、世話人である唐糸左之助と小櫻藤四郎の名が刻まれています。

 

参考:市報なんよう 歴史の散歩道 錦三郎 著 平成3年

2021.10.13:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

寛政十二年の新田村

  • 寛政十二年の新田村
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公民館だよりに「宝山塔」を紹介しようと新田地区の山崎神社に行ってきました。

神社参道入口の石灯篭をよく見ると「寛政十二庚申天」と刻されています。(画像1と2枚目)

 

寛政十二年(西暦1800年)の新田村は石碑・石造物の建設ラッシュでした。

 

山崎神社参道のそばにある「百萬返塔」(画像3)もこの年の建立です。

この年は庚申の年、新田庚申塚にも「庚申塔」(画像4)が建てられました。

また、川樋との境にある地蔵堂の近くにある「日本廻國供養塔」(画像5)もこの年に建てられています。

 

寛政期の米沢藩は上杉鷹山公による農村復興や領民保護など様々な改革が行われていた時期です。

天明の大飢饉(1783~1787)などの凶作で疲弊していた農村が徐々に立ち直り、寛政十一年(1799)の豊作で、少し余裕が出て来たことが石造物の建立から伺えます。

2021.09.10:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

北赤湯信号場

  • 北赤湯信号場
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昭和38年に設置された新田地内にある北赤湯信号場です。

昭和43年には赤湯駅~北赤湯信号場間が複線化されました。

まだ、中川駅方面は単線なので、対向列車の待ち合わせに使われています。

 

参考:山形県の鉄道輸送 山形県

 

画像1枚目は北赤湯信号場

画像2・3枚目は新田地内の複線区間です。

2021.09.07:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]