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北赤湯信号場

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昭和38年に設置された新田地内にある北赤湯信号場です。

昭和43年には赤湯駅~北赤湯信号場間が複線化されました。

まだ、中川駅方面は単線なので、対向列車の待ち合わせに使われています。

 

参考:山形県の鉄道輸送 山形県

 

画像1枚目は北赤湯信号場

画像2・3枚目は新田地内の複線区間です。

2021.09.07:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

中川駅5 紀念碑

  • 中川駅5 紀念碑
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小岩沢地区の岩崎神社建物の傍に大きな石碑が建立されています。

鉄道貫通・停車場創立の紀念碑(記念碑)です。

先月、漢文で刻された碑文を訳して冊子にしてみました。

内容は江戸時代の小岩沢宿駅の様子や駅開業までの苦労などが記されています。

駅予定地の土地価格が暴騰し、買収停止命令が出されたことを初めて知りました。

碑文の最後の方に「後昆知驛之所以創立」(訳:駅創立の由緒を後の世の人は知る。)とあり、まさに令和の時代になって知ることができました。

 

なお現在、神社建物の屋根工事で石碑近くに行くことはできません。

2021.09.03:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

中川駅4

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昭和49年には跨線橋ができ、線路を渡って向い側に行っていたのが、階段を上がって向い側ホームに、更に国道まで出る事が出来るようになり大変便利になりました。

しかし、国鉄の機構改革合理化により、乗客の少ない駅は無人化すると通達があり、無人化反対で国鉄と交渉するも叶わず、昭和50年に無人駅となってしまいました。

 

参考:ふるさと中川「中川停車場の移り変り」小松久一郎 記

 

画像は跨線橋と北側入口です。

跨線橋は駅利用者だけでなく、通勤ルートとしても重宝されています。

2021.09.02:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

中川駅3

  • 中川駅3
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無人化になる前の駅の様子です。

 

駅舎は待合室と事務室に分れていて、待合室はガラス張りになっており、切符売り場と小荷物扱いとに分かれ、冬になると待合室の真ん中にダルマストーブが置かれて何時も赤々と燃え暖をとられておった。

事務室には常時5~6人の職員がおり、列車が来る時間を見て、切符を売り改札をしたり、小荷物扱いと忙しく働いていた。

駅舎の西側には保線支区の事務室が建てられてあったが、米沢保線支区中川班といって常時6~7人の職員が勤めていた。

 

参考・写真転載(画像1・画像2)

ふるさと中川「中川停車場の移り変り」小松久一郎 記

 

木造だった駅舎は国鉄時代の昭和61年に、貨物コンテナを再利用したダルマ駅舎に変わりました。

建物財産標に「昭和61年3月29日」と標されています。

2021.09.01:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]

中川駅2

  • 中川駅2
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鉄道が敷かれると、物流は牛馬から貨車輸送が担うようになりました。引き込み線も中川駅の南側に一本、北側に二本あり、北側の引き込み線一本は列車通過の待ち合わせと荷物の積み降ろしに利用しました。

自動車の無い時代にはほとんどが貨車輸送でした。青果物に始まり、肥料木炭等が多く、終戦後は川﨑電気KK(現:㈱かわでん)へ大理石※が原石のままで送られてきました。

国道13号道路側の引き込み線からはぶどうの木箱詰め、岩部山から採石した中川石を山から運び、貨車で東京方面に送っていました。

 

参考:ふるさと中川「中川停車場の移り変り」小松久一郎 記

 

※昭和中頃まで配電盤のパネルには、絶縁性に優れる素材として大理石が使われていました。

川﨑電気の工場にトロッコで運び、切断加工を行っていました。

 

画像1枚目は北側の引き込み線跡、画像2・3枚目は跨線橋からの眺めです。

引き込み線のレールが残っているのが見えます。

2021.08.31:nakagawako:コメント(0):[◇中川地区の歴史]