小岩沢地区の字碇田(イカリダ)です。
イカリという地名には、漢字で「碇」「猪狩」「五十嵐(イカラシ)といった字が使われます。
川(自然)がイカル=「怒る」「溢れる」という意味を持ち、洪水の被害に遭いやすい場所や水はけの悪い場所を示しているということです。
碇田も前川のそばにあり、大雨になるとすぐ冠水する場所です。
(画像2は大雨の時の様子です)
中川地区は山に囲まれた地域ということもあり、災害地名が数多く残されています。
参考文献:災害・崩壊・津波地名解~地名に込められた伝言 太宰幸子著
川樋地区の字天矢場(テンヤバ・テンニャバ)です。
天矢場は一般国道13号上山バイパス改築事業に伴い、山形県埋蔵文化財センターによる天矢場遺跡の発掘調査が行われたことがあります。
調査報告書に
「天矢場遺跡を含む周辺には縄文時代の中期~晩期にかけての集落跡が存在していたものと考えられ、陥穴や石鏃から天矢場遺跡は当時の狩猟場の一部であったと推測される。」
と記載されています。
天矢場を通る通称日影道の近くには昔、秋になると鳥を捕獲するための霞網が仕掛けられていました。(現在は違法で、所持することも違反です。)
それだけ野鳥が集まる場所だったようです。
天矢場の地名の由来は鳥獣を捕獲するため、矢を射たところから名付けられたと考えます。
引用文献:天矢場遺跡発掘調査報告書 山形県埋蔵文化財センター調査報告書第174集
平成21年 財団法人 山形県埋蔵文化財センター
参考文献:中川風土記
中川小唄の原作の作詞者は小関仁四郎先生です。
小関仁四郎先生は明治32年東置賜郡伊佐沢村※に生まれ、大正15年から昭和6年3月まで中川尋常高等小学校に勤務していました。
当時の卒業アルバムがありましたので紹介します。
中川小唄の原作の歌詞は小関先生が、中川村の様子や風景を織り交ぜて作られたようです。
当時の資料がなく、現在の歌詞とは少し違うといわれています。
また、小関先生は岩部山三十三観音について、昭和5年に「北山観世音由来」という冊子を書き著しました。
現在、中川公民館で保管している「北山観世音由来」は手書きの文章をコピーしたもので、判読できない箇所が多数あります。
原本をお持ちの方がいれば、中川公民館までご連絡願います。
※現長井市
当時、伊佐沢村は東置賜郡に属していました。昭和23年4月1日に所属郡が西置賜郡に変更されました。
参考:中川小唄について 後藤嘉一著(元館長代理)
古い画像は旧国道13号(現一般県道南陽川西線)のバイパス工事の様子です。
昭和9年(1934)東北地方を冷害が襲いました。
昭和5年以来の恐慌と6~7年の凶作の中で、農産物は下落し農村は極度に疲弊していました。
そこに追い打ちをかけるように冷害に見舞われ、山形県では平年作の約半分強の収穫しかありませんでした。
当時、中川村の農地は他市町村の大地主(不在地主)所有が多く、3分の2が小作地でした。
大凶作にもかかわらず、自家飯米も顧みず、小作料を現物で納入したため困窮を極めました。
国は被害農家を救済するため各地で土木事業を行い、農民に現金収入の途を与えました。
中川地区内では、国道鳥上坂の切り下げ工事、川樋から中川駅裏を通るバイパス新設、花窪坂の切り下げ工事などが行われました。
賃金は60銭内外で希望者が多く、未明から起きて現場で待っていたといいます。
参考:南陽市史下巻、中川風土記