働きに伴う喜びが、諸々の喜びの中で一番強い、という説があります。
人によるだろう、という方ももちろんいらっしゃるでしょう。
具体的な例を引っ張ってきて、自分にとっては、働きよりもこっちのほうがはるかに強い
喜びである、と。
もちろんそれは真実でもあり、一方、そうとも言い切れないかもしれません。
西洋では、「働く」=「labor」と「work」の2つに分かれます。
レイバーには苦役という意味合いを含んでおり、仕事というのは何か悪いことをした人へ
の罰、あるいは奴隷労働的なニュアンスがあるため、若くして財を成し、早期リタイヤ
することを成功者と呼んだりしますね。
日本でもこういった価値観が広まってきましたが、伝統的には天皇自らが田んぼで稲を
刈ったり、勤労を貴(たっと)ぶ国柄(くにがら)です。
江戸時代には、「稼ぎ3割」という言葉があり、直接銭をもらえる仕事は時間的にも
3割程度でしたが、あとの7割で近所のおばあさんの障子の貼り替えをやってあげたり、
塀を直したり、いずれにしても誰かのために「働いていた」のです。
働く=傍楽、周りの人が楽になるように幸せになるように、という思いを込めた仕事は、
銭金ではない大切な志事でした。
たとえば我が家で最近ガーベラの花が咲いてくれました。
つい最近この双子の花が咲いてくれたのですが、水をあげ、肥料をあげても、なかなか
花をつけず、それでも根気よくいつか咲くであろうことを想像しながら、欠かさず世話を
してきました。
そういう積み重ねを経ての開花だったため、その喜びは大きいのです。誰かが世話をした
ガーベラの花とは一味違う喜びがあるわけです。そして、もし、この花を咲かせることで
例えば病に臥している誰かを喜ばせることができる、ということが分かっている場合、
この開花の意味はますます大きくなるわけで、喜びがさらに大きなものとなるでしょう。
そしてそれが社会のためにもつながっているとなればなおさらであり、時代を創っている
という実感があればそれもひとしおでしょう。
それぞれのステージでの喜びは比較するものではないかもしれませんが、やはり、
より高次なものへのチャレンジを忘れてはならないと思います。