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しあわせ

  • しあわせ
秋分の日、会社は振り替え出勤でした。

久しぶりに、徒歩で帰宅する

普段感じたことも無い、周りの景色がとても新鮮に感じられ

初秋の秋を、満喫することが出来、悩める景況を忘れ

生きていることの、喜びと感謝を思う。

老兵の半生(疎開)

母が生まれた実家は、山形県の鮎貝村(現白鷹町)にあり
駅から、徒歩で三時間位の所でした。
迎えに来た、10歳年上の従兄弟のリヤカーに荷物と共に
乗せられ二つの山を越え、付いたところが
山と山に囲まれた、小さな集落でした。
平地は少なく、段々畑と谷底のわずかな平地の田んぼ
雪の多い典型的な東北地方の、寒村でした。
林業と山菜、家族がようやく食べるだけの米、冬季に
行う猟、そんな生活のため、相続者以外、多くの人たちは
分校の小学校を卒業すると、都会地等に、移籍して自立して
生活しなければ、家族が成り立たない環境にありました。
(現在は集団移動で人は住んでおりません)
母の実家では、玄関の左手に馬小屋がありまして、太い足の
大きな馬が、一本の棒を境に長い顔を出し黒い大きなめで
私を上から眺め「ぶるぶる」と鼻を震わせ私たちを
迎えて、くれました。
その馬が、怖くて、怖くて母の足にしがみ付き泣き出した
私、「何もしないよ、ほら」従兄弟は馬の鼻頭らを
撫でながら、私ににっこり微笑んだのを、今も鮮明に
覚えています。
その実家の隣接する小屋を、拝借して母子三人の疎開生活が
始まったのです。
1945年(昭和20年)5月の事でした。・・つづく・・

女房の作品6

幼い子供たちにとって

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命の尊さを 忘れた大人が、今日も

町を歩く

老兵の半生(横須賀の空)

「お母さん空がとってもきれいだよ。」
崖の岩壁を彫った、横穴の防空壕の入り口付近から
見える空から、星の光の何倍もの赤い炎が、数え切れない
密度で振っていました。
昭和20年3月の、ある日でした。
父は運良く帰国しておりましたが、今度は兵隊として召集
され、九州のある部隊に所属しており、母と一歳の妹との
三人で肩を寄せ合っての生活でした。
その日も昭和19年11月より始まった、マリアナ諸島を
飛び立ったB29爆撃機による日本本土爆撃の一端で
横須賀軍港や、海軍工廠をめがけての空襲だったのです。
焼夷弾(爆弾の一種攻撃対象を焼き払うために使用)が
降り注ぐ様が私には、花火の大輪の花だったのでしょう。
子供心には、花火の大輪の花だったのでしょう。
そのころの日本は大本営発表とは、裏腹に疲弊し疲れ果て
もう戦う兵器も、物資も燃料も底をつき配給もままならない
状況で、餓えをしのぐため、多くの人々が困難な生活を
強いられていたようです。
支那事変以降、1938年4月に公布された国家総動員法
法の制定をきっかけに広く生活必需品を配給制に
なったことが知られている。
米穀については1982年まで配給制が行われていた。
父から母への再三の手紙で、「子供を連れて山形へ
疎開しろ、横須賀も危ないぞ一刻も早く。」
4歳にして始めての遠出でした。
今と比べれば、比べ物に成らないくらい、困難な
旅であったと、後年母が良く話しておりました
32歳の母は、リックサックを背押された一歳の妹を
背負いその両手には、大きな荷物を持ち、背丈ほどもある
リックを背負った私に、てに持った荷物の端を握らせ、
「放したらだめよ、死ぬ気で掴んでなさい。」
列車のなかは、足の踏み場も無いほどの、人々で
私は母が作ってくれた、小さな隙間に座り込み母のもんぺ
にしがみ付いて過ごした、息苦しい列車の旅を今でも
うっすらと、記憶にあります。・・・つづく・・・

老兵の半生(誕生)

昭和16年3月 私は、第2次世界大戦の勃発の年
神奈川県横須賀港を、一望出来る崖の上にある小さな借家
で母と手伝いに、山形から来ていた祖母の基で、産声を
あげました。
当時父は、海軍工廠横須賀工場に勤務しており、
インドネシヤのジャワ島スマトラに、造船技師の資格で
軍属として出征しておりました。
当時日本は、アメリカ、イギリス等の列強から経済制裁と
軍備縮小を要求されており、経済的にも外交的にも、
行き詰っており、列強に宣戦布告することで、南方諸国
を統治かに置き、そこから重要物資(石油等)を取得し
国力を高め、現状を打破しようと試みていました。
同年12月1日の"第8回御前会議"の基、アメリカ、イギリス
オランダとの開戦が、正式に決定され日本は、
昭和16年(1941年)12月8日、日本軍は
マレー半島に上陸、続いてハワイの真珠湾への攻撃を
開始し、同じ日、アメリカ、イギリス、オーストラリアへの
宣戦の詔勅が発表され、ここに延べ1000万人の兵士が戦争に
参加し失われた兵士数は約200万 非戦闘員まで含めると
約300万の人命が失われ、焼失住宅戸数は310万戸
戦費2200億円と云われている あの痛ましい
太平洋戦争への道につき進んで行きました。
図らずも私の幼年期は、戦争の始まりから終戦の混乱期
その後の貧困の世代を過ごす事となるのです。