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老兵の半生(舞い上がる)

平成4年電子関係の会社の社長に呼ばれ、自動機をやってみろ
といわれましたが、当時冶工具設計ほどしか出来ない実力で
到底無理な話でしたがその社長は、何事もやってみなければ
先には進まない。俺が面倒みるからやってみろ。
色々な社長の所の装置を、説明しながら私に決心を
促してくれました。
それが私のところで作った第一号の装置でした。
様々な試行錯誤で、一部新潟の設計屋を頼んで
何とか作り上げることが出来ましたが、あまりいい出来では
成りませんでした。
それでも、その社長は文句一つ言わないでその後も、何かに
つけて、様々教えてくれ現在があるのも、この社長のおかげ
だと思っています。今は他界されていますが、経営に関する
思いは、今も私の心の中でしっかりと、生きています。
平成5年には、当時取引先であった、大手の地方工場の
組織削減から、その会社の設計課長と制御の係長を
受け入れる事になり、本格的に装置産業へ力をそそぐ事と
成りました。
平成6年にはある商社を紹介され、そこの専務が当社を
訪れ、新製品開発と製作を依頼され、その間一年をかけ
何とか商品化にこぎつけ、現在その商社を通じて、年間
400台位日本国中の各メカーに発送しております。
安定した生産で、今も売上げの基盤となっております。
平成の夜明けとともに次々と私にとっては、思い描いていた
方向に進んで、いました
社員も、取引先にも次々と恵まれ私も、
少しのぼせ上がっていた時期だったように思われます。
ゴルフを始めたのもその頃だったと思います。
片足を引きずりながら、迷惑をかけながら
ロータリーの仲間たちにとプレーしてました。
理由をつけながら、韓国や、台湾に渡航したのも
うぬぼれの、一端だったのでしょう。
8年後平成14年に、創立最大のピンチが訪れようとは
夢にも思っていない日々でした。


・・つづく・・

ジャスコにて

  • ジャスコにて
ハローインの子供たち

老兵の半生(散って行った戦友たち)

1978年~1988年の10年間
主に流れものの部品加工で、機械加工の基礎作りと
社員の技術アップと、経営の安定化を目指し
がむしゃらに、進んできました。
仕事を始めてから、17年
ふと気づいたら、私も47歳。その間様々な苦悩や
苦痛、人のやさしさや、人の無情さを味わってきました
その中でもいくつか、忘れられない悲しい事例を、
いくつか見てまいりました。
今騒がれている株価の値下がりや、貸し渋り、貸しはがし
等々の激しい経済状況か゛何度かありそのたびに、何人かの
友人たちが、消えていきました。
他の企業に吸収されても、名をすて社員を救った友人たちは
それなりに、頑張ってきたと思います。
しかしながら、玉砕して自ら命を絶った友人、全てを
投げ出して、逃亡した友人その度に、後始末の一端に
関わらければ成らなかった時期、そのつど経営の難しさと
気力の大切さ、企業経営の本質とは自問自答の連続でした。
事が起きるたび、家族、親族ね友人に、負荷をかけなければ
維持できない企業経営なんて、空しい。
いかに小企業といえども、甘えのない組織作りと、本当に
社会から必要とされる企業に育ってこそ、生き延びる
ことが出来るという結論に達したのでした。
それには、トップの生き方が全てを物語っているのでは
ないか。私にとってこの10年間大きな試練の
連続だったのです。
昭和63年12月昭和の終わる、一ヶ月前念願の本格的な
機械工場建設をなしえて、自宅より一キロほど離れた現在の
場所に引越ししました。
いよいよ創立時の私の夢であった、製品開発と装置産業への
第一歩を歩みだすことになるのです。
自分の仕事の、合間に続けてきた母校へのボランティア
運動の基盤作りも、充実したい。
それには、一層の自分の資質を高めて生きたい
なかなか難しいことですが。昭和の終わりの足音が
聞こえてきてるのも、知らずにそう思ったものでした。
・・つづく・・

老兵の半生(無情)

1978年私37歳
父の逝去の、心の痛みが未だ癒えぬ年明けの、2月の雪の
降りしきる午後三時過ぎでした。
一本の電話「おれもうだめだ。借金の一部に工場のプレス
機械の譲渡書を、書いたので早く、取りに来てほしい
明日になると、みんな持って行かれるから」
またしても、友人からの自振手形の不渡りによる
倒産の知らせでした。
さすがの私も体全体の震えが、とまりませんでした。
妻の兄を頼んで、トラックで駆けつけてみると
彼の工場 (畑の中に、自宅と並列した建物)
の周りはもう、獲物をかぎつけた、狼の群れのように
沢山の車と、多くの人たちが、工場から機械や、道具を
運び出していました。私は思わず「譲渡書を持っているのか
持っていないとすると、窃盗罪になるぞ」と
叫んでいました。
それでも彼らは行動を止めませんでした。
友人に合うため自宅に、行くとそこもまた、沢山の人たちが
目ぼしいものを、次々と運び出していました。
その中で、彼は心神喪失の状態で、寒い部屋の中でただ
座っていました。その脇で年老いた彼のお袋が、仏壇に向かって
木魚を叩きながら、念仏を唱え続けていました。
私は自分の損害などもう念頭になく、なんとか彼の家族
だけでも、この場から別の場所に移そうと、電話をかけ様と
電話に手を伸ばそうとした瞬間、誰かがはさみで、電話線を
切り、その黒電話を持ち去って行きました。
まさに修羅場、そして倒産することの無情さ。
不渡りを出した彼の経営というものの厳しさと、責任
の大きさに対する自覚の欠如による、自己責任の結果
だったのでしょうが
持つと早く手は打てなかったのか、取引銀行の指導は
無かったのか。私は人事と捉えることが出来ませんでした。
その時の教訓が、私に自社振出の手形発行は、絶対しない
トップとしての脇の硬さを強め、成金適生活を強く戒め
経営の中に、何のため経営か、何のための事業かを常に
考えて生きることを、この事件で教えられ
創立37年を迎える現在もそのことを維持しています。
・・つづく・・

老兵の半生(父の死)

1977年、長男の小学校入学。
工場が手狭になり、隣の土地を借り50坪ほどの工場を建て
社員も10名ほどになり取引先も増え、順調な歩みを
しておりました。その間友達に手形の裏書を頼まれ
友達の倒産とともに、初めての保障弁済を強いられ、家族の
協力により何とか危機を、乗り越えたり銀行取引で
なんとか借り入れも出来るようになっていました。
私もそろそろ次の段階を目指して、設備導入の
計画を練っており、始めての事務員を雇用し本格的な
会社組織を作ろうと思っていた矢先でした。
父の様子が、すこしづつ変化しているのが、私には
解りませんでした。仕事仕事で家族に、心を配ってみる
余裕が無かったのかもしれません。父の食が少しづつ
落ちていたのでした。時には朝5時ごろから、工場に出て
仕事をしているのに気づき、勝手なことしないでくれと
怒ったこともあり、今考えると父に対しては、優しさの
ない息子であったように思えて、悔やんでいます。
父は、末期の胃がんでした。痛みで良く眠れなく朝早く
から仕事をして、紛らわしているのと、私の将来を心配
して、少しでも役に立とうと必死だったのかもしれません。
父の性格は、まじめで温和で、人に好かれ遊びごともせず
夕食前の少量の晩酌と、テレビで大相撲をみることが
唯一の楽しみでした。入院後40日の命でした
父の日記帳の、真っ白に残った最後のぺーじに
私に対しての言葉があり「あまり風呂敷を広げるな、石橋を
叩いて渡れ」と記してあり、その脇に「働きて、働きつづけ
70の坂も越さずに、我は去り行く」
時世の句が記されておりました。
父68歳の初冬でした。
・・つづく・・