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国内ものづくりの危機

新聞、テレビ、ラジオ等のメデアで最近大きく報道されているのが
国内"ものづくり"産業の空洞化の加速。
アジア諸国に比べ法人税、従業員の賃金、電気料、等の
製造経費が、国内は非常に高いその上"超円高"の昨今
アジア諸国の中での日本の世界での、競争力低下は目を見張る
ものがあり、いずれの中小企業でも仕事の減少の大きさと
価格低下に、アップアップの情況に身をさらしている。
いかに技術力にすぐれていても、それを生かす環境が
荒廃しては生き残るすべがない。TPP問題にしろ円高にしろ
それらに対する政府の対外施策も、および腰で井の中の蛙
状態である。過去に貧困農民がブラジル移民で新天地を求め
広大な原野を与えられ開墾して現地で生きのびた事例のように
今海外に新しい生産環境を作り、再び持っている技術力を
生かすか、このままジリ貧の国内で別の道を模索するか
今激しい判断を強いられている国内中小企業であろう。
国内に一時的な判断で、"ものづくり"の灯を消してはならない
が、雇用や次世代の国の根幹に関わる"ものづくり"産業を
国民、新政府一体となって考える大きな転換期が、到来してる
事への認識を大にしたい。

老兵の半生(分かれ道3「高校卒業」)

9月5日付けの友人でもあり、同業者でもある長井製作所
の横山社長のブログに、"自由と束縛、権利と義務"の
下りで、「杭から100mの紐に繋がれた羊は、
自由が無いと考えるのか」との命題がありました。
紐に繋がれているから束縛されて不自由だと考える人
半径100mをはみ出そうと考えれば束縛(不自由)だが
半径100mの中は、紐に繋がれているとはいえ、
束縛は無く自由だと考える人。
どちらが正解というわけではありません。
というくだりがありました。
彼の言いたい内容とは、少し解釈が違って引用しているのですが
私にとって、卒業時に迎えた分かれ道はまさに、100M
範囲の自由で、生活の安定を選ぶかそれを、超えた自由を
求めて飛び立つか、二者選択の分かれ道だったのです。

1965年24歳、いよいよ卒業時を迎えたある日、今は亡き
担任の先生から「この学校で実習助手を募集してるから、
ならないか、身分は県職員になるがどうか」
将来通信教育等で教員免許を取得すると、教諭採用の道も
あるよ、ともいわれ心が大きく動いた事は確かでした。
家族も大賛成で、その方向を勧めましたが、私の心の中で
もう一つピンとこないものがありました。
それは生き方の問題で変化に富,誰に指示されることなく
自分の意思を通し続ける事の出来る、職業をやりたいとそれまで
転々としたわけですから、此処で固まってはいられない
そんな思いで、その申し出を断ったのでした。
高校に入ったのも最大の目的は、そんな思いを達成するため
の武器を得るためで、決して楽な道を歩む手段では
無かったのです。ふとそのとき先生の言われた方向を
選択してたら、今の妻にも出会わなかったろうし、今の
子供たちにも、孫にもめぐり合うこともなかったと思うと
人間の意志、これこそ形もない、色もない、匂いもない
つかみ所のないものであるが、此れによって全ての
環境や建物、経済、文化、社会それらのすべてが、意思から
作られていると、考えると自分の人生は自らの思いを
具現化しようとする、意思の強弱によって大きく変わって
くることを今しみじみと実感している。

新社長の初訓示

全社員の前で、就任挨拶をかねて"ものづくり"の基本理念
と八月が決算期であったため、新しい期(31期)を迎えての
基本戦略を発表した。私は参加してなかったが新専務から
の報告では、安心できる社長挨拶であったとの事でした。

まず基本理念は、私の在任中の"ロマンこそ想像の源"の
言葉を継承することとし
基本戦略には
◎提案型の省力自動機の製作
◎特殊仕様のプレス(小型プレス製品)に柔軟に対応できる
 体制づくり
◎過剰品質を排除した社内設計 自動機よう部品加工
◎ラフな品質、高品質、顧客に合わせた柔軟な加工方法の
 習得
◎ニッチ市場に合致した、今までの技術をいかせる商品の
 開発に努力する。

重点事項
* 付加価値を生まない時間を削除する
「探さなくても」「調べなくても」「考えなくとも」良い
 仕事が出来る工夫を考える
* 基本的な所に経営資源を集中する
{いつも使うもの、リピート品、そういうものにこそ、注目し
改善する。レギュラー、ベンチ、補欠、を明確に}

まあ私からすると最初にしては合格点かな。

老兵の半生(分かれ道2「高校入学」)

人生の長い道のりの中で、ふとした人からの助言で
枝道を選択し、遠回りの道や少し後戻りして出直す事が
多々あると思います。そのときは並んで走っていた人達から
かなり遅れてしまったなあーと感じてしまいますが
後から考えて見ますと、そのことが意外と正解だったと
思われる事案が多い。人によって人生の中身や長さが違い
したがって、ゴール地点も様々である。
確実に中身の濃い人生を歩もうとするなら、急がばまわれは
時として重要な、事かもしれない。新総理大臣の野田さんの
泥臭く、汗を流して一歩一歩確実に進む、これも中身の濃い
生き方の一つ。

1961年、「兄ちゃん来年一緒に高校に行こう」
七つ年下の中学三年生の末の妹が、声をかけてきました。
当時長井工業高校が新しく1962年度から、開校することを聞いて
きたのでしょう。当時地元の小さな工場で旋盤工を
やっていた私には、その言葉が心に突き刺さりました。
「何を言ってるいまさら、俺のことは心配せず自分の進学に
全力をあげろ」といったもの「夜間部もあるらしいよ」
との妹。半年ほど悩みぬいた結果妹の言葉に従い
長井工業高校の夜間部に、1962年春入学する事になる。
このことが自分の将来を、大きく変える事になるなど知る由も
無かったわけで、まして現在のこの歳まで長井工業高校に
関わり続けるとは、夢にも思わなかった。まさに妹の言葉は
チャンスの神様の言葉で、今考えるとそう思います。
たかが高校入学でと、思うでしょうが七つ年下の子供らと
同級生になる、まして一度上京して何年か社会人を
経験した者にとって、改めて学生をやるということは
かなりの決心が必要であったのです。
これも私にとっての、大きな分かれ道。なぜそれを選んだのか
当時旋盤工をやっていて、もっともっと"ものづくり"に
対しての基礎的知識がほしかったの一言につきると
思います。人は様々で順調に階段を上る人、段を踏みはずし
ながらも、又挑戦する人。様は一度道を選んだら次の
分かれ道が、現れるまでその道に全力を尽くすことが
大切な事であろうと、この歳になって実感してます。

新社長の初日

自分のブレーンは、数ヶ月前から少しずつ人選してたようで
私にしては、まあまあかなと思っている。
社長方針も明日発表するようで、楽しみである。
親ばかで、思っているのだろうが社長就任といっても
気負いもなく、じっくり物事を分析してやるタイプなので
社員にも気を使い、私とは違う"静"で深い思慮の経営を
やりそうである。中々データーに強く、がむしゃらな"動"
の私とは違う、景況の停滞期をどう乗り切っていくのか
彼の手法が試される。
出掛けに妻より「お父さん、息子の芽を摘まない
様にしてね」と駄目だし。