老兵の半生(無情)

1978年私37歳
父の逝去の、心の痛みが未だ癒えぬ年明けの、2月の雪の
降りしきる午後三時過ぎでした。
一本の電話「おれもうだめだ。借金の一部に工場のプレス
機械の譲渡書を、書いたので早く、取りに来てほしい
明日になると、みんな持って行かれるから」
またしても、友人からの自振手形の不渡りによる
倒産の知らせでした。
さすがの私も体全体の震えが、とまりませんでした。
妻の兄を頼んで、トラックで駆けつけてみると
彼の工場 (畑の中に、自宅と並列した建物)
の周りはもう、獲物をかぎつけた、狼の群れのように
沢山の車と、多くの人たちが、工場から機械や、道具を
運び出していました。私は思わず「譲渡書を持っているのか
持っていないとすると、窃盗罪になるぞ」と
叫んでいました。
それでも彼らは行動を止めませんでした。
友人に合うため自宅に、行くとそこもまた、沢山の人たちが
目ぼしいものを、次々と運び出していました。
その中で、彼は心神喪失の状態で、寒い部屋の中でただ
座っていました。その脇で年老いた彼のお袋が、仏壇に向かって
木魚を叩きながら、念仏を唱え続けていました。
私は自分の損害などもう念頭になく、なんとか彼の家族
だけでも、この場から別の場所に移そうと、電話をかけ様と
電話に手を伸ばそうとした瞬間、誰かがはさみで、電話線を
切り、その黒電話を持ち去って行きました。
まさに修羅場、そして倒産することの無情さ。
不渡りを出した彼の経営というものの厳しさと、責任
の大きさに対する自覚の欠如による、自己責任の結果
だったのでしょうが
持つと早く手は打てなかったのか、取引銀行の指導は
無かったのか。私は人事と捉えることが出来ませんでした。
その時の教訓が、私に自社振出の手形発行は、絶対しない
トップとしての脇の硬さを強め、成金適生活を強く戒め
経営の中に、何のため経営か、何のための事業かを常に
考えて生きることを、この事件で教えられ
創立37年を迎える現在もそのことを維持しています。
・・つづく・・

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