老兵の半生(父の死)

1977年、長男の小学校入学。
工場が手狭になり、隣の土地を借り50坪ほどの工場を建て
社員も10名ほどになり取引先も増え、順調な歩みを
しておりました。その間友達に手形の裏書を頼まれ
友達の倒産とともに、初めての保障弁済を強いられ、家族の
協力により何とか危機を、乗り越えたり銀行取引で
なんとか借り入れも出来るようになっていました。
私もそろそろ次の段階を目指して、設備導入の
計画を練っており、始めての事務員を雇用し本格的な
会社組織を作ろうと思っていた矢先でした。
父の様子が、すこしづつ変化しているのが、私には
解りませんでした。仕事仕事で家族に、心を配ってみる
余裕が無かったのかもしれません。父の食が少しづつ
落ちていたのでした。時には朝5時ごろから、工場に出て
仕事をしているのに気づき、勝手なことしないでくれと
怒ったこともあり、今考えると父に対しては、優しさの
ない息子であったように思えて、悔やんでいます。
父は、末期の胃がんでした。痛みで良く眠れなく朝早く
から仕事をして、紛らわしているのと、私の将来を心配
して、少しでも役に立とうと必死だったのかもしれません。
父の性格は、まじめで温和で、人に好かれ遊びごともせず
夕食前の少量の晩酌と、テレビで大相撲をみることが
唯一の楽しみでした。入院後40日の命でした
父の日記帳の、真っ白に残った最後のぺーじに
私に対しての言葉があり「あまり風呂敷を広げるな、石橋を
叩いて渡れ」と記してあり、その脇に「働きて、働きつづけ
70の坂も越さずに、我は去り行く」
時世の句が記されておりました。
父68歳の初冬でした。
・・つづく・・

自分とかさなりました

 私の父もまじめで、親分肌で他人の事にも一生懸命でした。息子とはえらい違いです?。私が「仕事がある」というと絶対にそれを優先させてくれ、家庭の一切合財は全て父がやってくれました。78才で生涯を閉じましたが、もっともっと親孝行してやれば良かったと今になってつくづく思います。
 だから、吉田社長のこのお話と重なりとても感慨深くなりました。
 そして、その自分が今「親」の立場なんですね・・・・。
2008.10.23:kuro:[編集/削除]

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