老兵の半生(疎開暮らし)

「おい、都会子来てみろ」「わらび取りにつれていくから」
7、8歳の、兄ちゃんがたに、連れられ遊びは常に
食料探しで、山菜取りや、野イチゴ、つぶ(田螺)、栗、
栃の実、岩魚取り、葉わさび、キノコ、あるいはイナゴ等
食べられる物は、何でも取る事が、最上の遊びでした。
常に季節、季節で彼らは、どの場所にいけば何をとる事が
出来ると、知っていて私に教えてくれました。
不思議と今で言う"いじめ"等の記憶がないのは、
助け合わなければ、成り立たない地域性が、幼いとき
から、彼らに染み付いていたのかも知れません。
また大人たちの行動する背中を常に見て過ごして
いたせいかも、知れません。
しかしながら、母にとってはいかに実家での暮らしと言え
相当な苦労であった様です。母の荷物から衣服類が、次々と
消えて行くのが、とても悲しい思いで見ておりました。
それらは全て、私たちの食料に代わって言ったのです。
この年(昭和20年)の8月6日広島市に原子爆弾リトルボーイ
が投下され、広島市民14万が、死亡し3日後の8月9日には
長崎市に投下され、死者7万と負傷者7万9千人と
伝えられてる人類史上初めての核爆弾の犠牲者が、日本人
となったのです。
疎開先でも"ピカドン"が落ちたと子供たちの会話にも
もちきりでした。
かくして日本は矢も折れ力尽き、
原爆の投下後の8月14日にポツダム宣言を受諾し
日本は、無条件降伏を受け入れ終戦を迎えたのでした。
・・つづく・・

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