老兵の半生(横須賀の空)

「お母さん空がとってもきれいだよ。」
崖の岩壁を彫った、横穴の防空壕の入り口付近から
見える空から、星の光の何倍もの赤い炎が、数え切れない
密度で振っていました。
昭和20年3月の、ある日でした。
父は運良く帰国しておりましたが、今度は兵隊として召集
され、九州のある部隊に所属しており、母と一歳の妹との
三人で肩を寄せ合っての生活でした。
その日も昭和19年11月より始まった、マリアナ諸島を
飛び立ったB29爆撃機による日本本土爆撃の一端で
横須賀軍港や、海軍工廠をめがけての空襲だったのです。
焼夷弾(爆弾の一種攻撃対象を焼き払うために使用)が
降り注ぐ様が私には、花火の大輪の花だったのでしょう。
子供心には、花火の大輪の花だったのでしょう。
そのころの日本は大本営発表とは、裏腹に疲弊し疲れ果て
もう戦う兵器も、物資も燃料も底をつき配給もままならない
状況で、餓えをしのぐため、多くの人々が困難な生活を
強いられていたようです。
支那事変以降、1938年4月に公布された国家総動員法
法の制定をきっかけに広く生活必需品を配給制に
なったことが知られている。
米穀については1982年まで配給制が行われていた。
父から母への再三の手紙で、「子供を連れて山形へ
疎開しろ、横須賀も危ないぞ一刻も早く。」
4歳にして始めての遠出でした。
今と比べれば、比べ物に成らないくらい、困難な
旅であったと、後年母が良く話しておりました
32歳の母は、リックサックを背押された一歳の妹を
背負いその両手には、大きな荷物を持ち、背丈ほどもある
リックを背負った私に、てに持った荷物の端を握らせ、
「放したらだめよ、死ぬ気で掴んでなさい。」
列車のなかは、足の踏み場も無いほどの、人々で
私は母が作ってくれた、小さな隙間に座り込み母のもんぺ
にしがみ付いて過ごした、息苦しい列車の旅を今でも
うっすらと、記憶にあります。・・・つづく・・・

この記事へのコメントはこちら

以下のフォームよりコメントを投稿下さい。
※このコメントを編集・削除するためのパスワードです。
※半角英数字4文字で入力して下さい。記号は使用できません。