HOME > 創業者の記憶 ~吉田功~

しあわせ

  • しあわせ
秋分の日、会社は振り替え出勤でした。

久しぶりに、徒歩で帰宅する

普段感じたことも無い、周りの景色がとても新鮮に感じられ

初秋の秋を、満喫することが出来、悩める景況を忘れ

生きていることの、喜びと感謝を思う。

女房の作品6

幼い子供たちにとって

なんと、惨い世情なのか

命の尊さを 忘れた大人が、今日も

町を歩く

老兵の半生(誕生)

昭和16年3月 私は、第2次世界大戦の勃発の年
神奈川県横須賀港を、一望出来る崖の上にある小さな借家
で母と手伝いに、山形から来ていた祖母の基で、産声を
あげました。
当時父は、海軍工廠横須賀工場に勤務しており、
インドネシヤのジャワ島スマトラに、造船技師の資格で
軍属として出征しておりました。
当時日本は、アメリカ、イギリス等の列強から経済制裁と
軍備縮小を要求されており、経済的にも外交的にも、
行き詰っており、列強に宣戦布告することで、南方諸国
を統治かに置き、そこから重要物資(石油等)を取得し
国力を高め、現状を打破しようと試みていました。
同年12月1日の"第8回御前会議"の基、アメリカ、イギリス
オランダとの開戦が、正式に決定され日本は、
昭和16年(1941年)12月8日、日本軍は
マレー半島に上陸、続いてハワイの真珠湾への攻撃を
開始し、同じ日、アメリカ、イギリス、オーストラリアへの
宣戦の詔勅が発表され、ここに延べ1000万人の兵士が戦争に
参加し失われた兵士数は約200万 非戦闘員まで含めると
約300万の人命が失われ、焼失住宅戸数は310万戸
戦費2200億円と云われている あの痛ましい
太平洋戦争への道につき進んで行きました。
図らずも私の幼年期は、戦争の始まりから終戦の混乱期
その後の貧困の世代を過ごす事となるのです。

女房の作品5

最近の輸入米の、管理の無責任には,腹のたつ思いである
金儲けのためには、倫理も何も無い。国も業者も、汚染米
を平気で、食用として流通させる感覚が、人間以下の行為
である。工業用のりの原料であっても、万一幼児がなめたら
と思うと、ぞっとする。
「お父さんこの人形の糊も、汚染米で出来ているのかな。」
と話す女房の言葉に・・・・
そんな事を踏まえて、トップのあり方、企業を営む意味とは
あらためて、考えさせられる今日この頃です。

女房の作品4

  • 女房の作品4
世の中 景気が悪くて沈んでいる

大黒のうちでの小槌は、何だろうね

きっと笑顔と、希望を失わないことかな