HOME > 創業者の記憶 ~吉田功~

新社長の初訓示

全社員の前で、就任挨拶をかねて"ものづくり"の基本理念
と八月が決算期であったため、新しい期(31期)を迎えての
基本戦略を発表した。私は参加してなかったが新専務から
の報告では、安心できる社長挨拶であったとの事でした。

まず基本理念は、私の在任中の"ロマンこそ想像の源"の
言葉を継承することとし
基本戦略には
◎提案型の省力自動機の製作
◎特殊仕様のプレス(小型プレス製品)に柔軟に対応できる
 体制づくり
◎過剰品質を排除した社内設計 自動機よう部品加工
◎ラフな品質、高品質、顧客に合わせた柔軟な加工方法の
 習得
◎ニッチ市場に合致した、今までの技術をいかせる商品の
 開発に努力する。

重点事項
* 付加価値を生まない時間を削除する
「探さなくても」「調べなくても」「考えなくとも」良い
 仕事が出来る工夫を考える
* 基本的な所に経営資源を集中する
{いつも使うもの、リピート品、そういうものにこそ、注目し
改善する。レギュラー、ベンチ、補欠、を明確に}

まあ私からすると最初にしては合格点かな。

老兵の半生(分かれ道2「高校入学」)

人生の長い道のりの中で、ふとした人からの助言で
枝道を選択し、遠回りの道や少し後戻りして出直す事が
多々あると思います。そのときは並んで走っていた人達から
かなり遅れてしまったなあーと感じてしまいますが
後から考えて見ますと、そのことが意外と正解だったと
思われる事案が多い。人によって人生の中身や長さが違い
したがって、ゴール地点も様々である。
確実に中身の濃い人生を歩もうとするなら、急がばまわれは
時として重要な、事かもしれない。新総理大臣の野田さんの
泥臭く、汗を流して一歩一歩確実に進む、これも中身の濃い
生き方の一つ。

1961年、「兄ちゃん来年一緒に高校に行こう」
七つ年下の中学三年生の末の妹が、声をかけてきました。
当時長井工業高校が新しく1962年度から、開校することを聞いて
きたのでしょう。当時地元の小さな工場で旋盤工を
やっていた私には、その言葉が心に突き刺さりました。
「何を言ってるいまさら、俺のことは心配せず自分の進学に
全力をあげろ」といったもの「夜間部もあるらしいよ」
との妹。半年ほど悩みぬいた結果妹の言葉に従い
長井工業高校の夜間部に、1962年春入学する事になる。
このことが自分の将来を、大きく変える事になるなど知る由も
無かったわけで、まして現在のこの歳まで長井工業高校に
関わり続けるとは、夢にも思わなかった。まさに妹の言葉は
チャンスの神様の言葉で、今考えるとそう思います。
たかが高校入学でと、思うでしょうが七つ年下の子供らと
同級生になる、まして一度上京して何年か社会人を
経験した者にとって、改めて学生をやるということは
かなりの決心が必要であったのです。
これも私にとっての、大きな分かれ道。なぜそれを選んだのか
当時旋盤工をやっていて、もっともっと"ものづくり"に
対しての基礎的知識がほしかったの一言につきると
思います。人は様々で順調に階段を上る人、段を踏みはずし
ながらも、又挑戦する人。様は一度道を選んだら次の
分かれ道が、現れるまでその道に全力を尽くすことが
大切な事であろうと、この歳になって実感してます。

新社長の初日

自分のブレーンは、数ヶ月前から少しずつ人選してたようで
私にしては、まあまあかなと思っている。
社長方針も明日発表するようで、楽しみである。
親ばかで、思っているのだろうが社長就任といっても
気負いもなく、じっくり物事を分析してやるタイプなので
社員にも気を使い、私とは違う"静"で深い思慮の経営を
やりそうである。中々データーに強く、がむしゃらな"動"
の私とは違う、景況の停滞期をどう乗り切っていくのか
彼の手法が試される。
出掛けに妻より「お父さん、息子の芽を摘まない
様にしてね」と駄目だし。

老兵の半生(分かれ道「退却」)

人には歳を重ねるその時々の道筋に、必ず右か左か選択する
分かれ道が現れる。
もしも別の方向へ歩んだなら、どんな今が有るのだろう
そんな事を考えると、不思議な思いに駆られる。
よく"七転び八起き"が人生の真髄だと言われますが
私など転びぱなしの青春時代であったような気がします
複雑な枝道を歩み続け、挫折と奮起の繰り返しいつも明日は
どうにかなると思い続ける。だから道を探すしかし必ず道は
枝分かれしている。心の動きで道を選ぶ
その場面では"編みだくじ"を選択して、右にいったり、
左に行ったり、下に行ったり、上に行ったり目的が
はっきりしないのに、ひたすら歩み続ける。
私にも大きく変わる、分かれ道が何度かありました。
15歳の春集団就職で、上京しわずか数週間で帰郷すべく
模索を繰り返し、1人では心もとないと一緒に上京した
仲間を口説き落として、三名で夜の闇にまぎれて逃げ帰った
その後中間達は、雇い主の説得で再びその職場にかえった
らしいが、私は再度上京しましたが別の職場を見つけて
その後転々と職場を変え、今で言うフリーター的
生活を味わう。その中で思ったのが当時金の卵とおだてられ
多くの若者が、集団就職と言う方法で都会に集められたが
所詮殆どが使い捨て当然の労働力、田舎者は、田舎者
私は田舎で意地でも暮らしてやると、二十歳の時帰郷する。
理屈をつけた負け犬の遠吠えであったかもしれない。
これが多分最初の分かれ道

9月ですね

新内閣野田政府は、じっくりと動きだした。
様々な難題を抱え、全員野球で国の難題を泥臭く一つ一つ
解決すると宣言した。おりしも大型台風が接近中
巨人が四連勝、首位ヤクルトに1.5と迫る。
9月に入り世の中前進の方向に、動き出した。暗い現状を
打破するように全ての事が、さわやかな初秋の時期を向かえ
良い方向に進む事を念ずる。