HOME > 創業者の記憶 ~吉田功~

9月14日 S社長コメント有難う

私のブログに時々、短い文章でほっとするようなコメント
を書いてくれるS社長。彼は経営人として今が旬。
新しい感覚で、グローバル的経営に果敢に挑戦している。
先代から事業を受け継いで、まだ数年なのに中々活発に
世界の情勢を見ながらの事業展開を行い、中国展開を進めて
いる。様々な場所で次世代のリーダー的存在で活躍している
おりしも昨日機器販売会社を経営する、若手A社長が来社
二時間ほど懇談していきましたが、彼は超円高を踏まえて
タイや台湾等の東南アジア、或いはユーロー圏のドイツ等
の展示会を視察し、格安で品質も国内製品に近い工具等を
見つけ出し、日本国内の中小企業に提供したいと、自ら単独で
海外に出かけているという。どこかS社長と似たような考え
を、熱っぽく語って行った。日本における今時の引きこもり
的感覚で、内弁慶外味噌的次世代の多い中で、S社長にしろ
A社長にしろ、日本の若手中小企業経営者も捨てたものでは
ないと思い将来の、日本経済にまだ夢は残されていると思い
ほっとした、今日の朝である。

9月13日 ちょっと疲れ気味

トップを息子に託して、ほっとしたのか秋風を受けて、
心に涼しいものが吹き抜けていく。
今までの夏の疲れがでたのか、すこしだるい。
今日は、ぼーとしていよう。

老兵の半生(分かれ道5「希望への出航」)

1972年11月新婚9ヶ月、三年間じっと思いを暖めてきた事を
新妻へ告発。貯金無し、バック無し、取引先無し身一つで
「独立し、"ものづくり"をしたい」
「勤務先には辞表を出してきた」やるしかないと新妻へ告発
私30歳の初冬でした。以外に妻や両親は反対しなかった。
ただ友人達の多くは、「やめたほうがいい、そんなに簡単にいかない」
と大反対。
今考えてみると、初めて自分自身で計画し方向を定め
無理に岐路を作り、進んだような気がしています。
藪だらけで、前の見えない道を少しずつ雑草を取り除き
砂利を敷いて、小さな細道を妻や亡き父の協力で広げて
来た感じがします。
人の生き方の中では、無謀と思われることへの挑戦も
時として選択しなければならないこともあり、その時は
失敗する事など微塵も、考えなかったのは若さゆえと
思っています。守るものが一つもない強さだったのか
貧乏も考えてみると、大きな武器になる。
最近小さく纏まって、冒険をしない若者が多くなり
流れに逆らわず、定職を持たず高学歴にも関わらずその場
その場を浮き草のように、若さを消耗してる次世代の子供
達も多く見られ、一度の挫折で目的を諦めている。
この社会に必要とされて存在する限り、何事にも諦めないで
家庭を持ち、子を作り生きている喜びを味わってほしい。

長井小学校大運動会(9月10日)



秋空は何処までも高く、残暑厳しい中孫達の歓声と
躍動感がグランド一杯に、溢れていた。
小学三年と小学二年の二人の孫の応援に、妻と出かけた。
100M競争で三位を取った孫「じいちゃん夕食は、かっぱ寿司
につれてってね」と「わかった」あまり寿司は好きでないが
孫のいうことは、私にとって絶対だからいつも家族の外食は
孫の言いなりである。この時期の孫と過ごすのが一番
楽しいのかもしれない。もうすぐ成長とともに「じいちゃん
うざいよ」と言われかねないかも知れない。子供の成長は
目を見張るほど早いから。

都会の人達の強靭さ

昨日から今日にかけて、暫くぶりに東京の出張に同伴してみた
全て電車と徒歩で、回る事を試みてタクシーを使わない
決心で、飯田橋、扇方面をご挨拶ながら訪問してきた。
まず夕刻の帰宅時と朝の八時過ぎの通勤時の、電車の混み具合
を、経験してみる。乗り継ぎで駅の階段やホームを歩く
都会の人達のスピードは、いつも思うがすごく早い。
小さな小学生も通学に、電車利用をしているため
ぎゅうぎゅう詰めの、車内の中でも平気で、それが当たり前の
様にして、乗り降りしている。
我々地方は、車無しでは生活できずどんなに近距離でも
車で行くから、足が退化してきているのかなと感じで来た。
地方でも小学生時代は、徒歩通学は当たり前であるが
中学で自転車になり、高校卒業で一部を除き殆どが
車に乗ることになる。其処から足腰の退化が始まる様な気がする
成年時代はそれでも、若さがそれらを補ってくれるが
老年になると徒歩での散策機能ががくんと下がってくる。
同じ年齢でも、都会の方々の足腰の若さは、地方とは格段の
差が有るように見受けられた。
裏を返せば、都会に住むということはそれだけ強靭な
体力と精神で、スピードを必要と言うことにもなる。