HOME > 創業者の記憶 ~吉田功~

大空を飛ぶ夢

昨夜の夢はヘリコプターの教習所で学んでいる自分。
年齢は不詳だが、眼下の紅葉の山々の間をぬって操縦桿を
上下、左右に動かしながら飛んでいる自分がいた。
不思議なほどに鮮明に記憶に残っている。夢の世界とは
誠に面白いもので、いつも現在の年齢ではなく若い年齢であり
体力的にも万能のようなのであり、疲れも知らない。
夢とはどこから、出てきて映像化され一瞬の記憶として
残るのだろう。本人の思いや、過去の記憶の一部が夢見る人の
都合の好いストーリーに、書き換えられて脳の中で映像として
表われる。
ネットで夢について調べてみると、数え切れないほどの
解釈や著書があり、心理学から夢占い、神のお告げ等々まで
の分析が記されていた。
本人が持っている、願望、観念、等が睡眠中にあたかも現実の
経験であるかの様に感じる一連の心像のことだという
私には難しすぎて、理解できなかった。
現実的には、少し疲れているのか、何か目的願望が強いのか
歳を重ねることへのあせりが、出てきているのか自分の
深窓を分析するまでには、至らなかった。

暖房機の点検

今日は社内暖房機の一斉点検を行う。
いよいよ10月の月末を迎えようとしている。11月を迎えれば
いつ初雪を迎えてもおかしくない季節となり、暖房機
を稼動させる日も多くなるでしょう。スイッチが入るか
燃料ホースが劣化してないか、コンセント部分に埃が溜まって
いないか、各セクションでの点検の指示を出す。
季節の移ろいは誠に早く、もう初冬を迎えようとしている。
今年はカメムシが、異常に多く家庭内にも、社内事務所にも
侵入して、その匂いで嫌われている。カメムシの多い年は
大雪になるだろうと、異口同音に話しているが、その根拠を
説明できる人はいない。昔からの言い伝えらしいが大雪は
ごめんこうむりたい。


星空の下で(5)

「ところで、平井の密造酒思い出すよな」酒好きの松田が
話し始める。

「静かにあがれよ」平井がそっと声を掛ける物置の二階に
通じる梯子を、アノラックを着たままシーンと静まりかぇった
学校帰りの雪の降りしきる9時40分頃平井の後から私、加藤
松田と足音を偲ばせ、平井の部屋に上る。
目的は平井の実家で作った、ぶどう酒いわゆる当時は、密造酒
の部類である。当然アルコール度も日本酒くらいある。
「今日はたっぷりあるから、遠慮するな」平井はそういって
リットル瓶を持ち出してきた。私は買ってきた干しするめを
鞄から取り出し、口でさきながら新聞紙の上に並べる
それぞれ酒が、好きな連中だが一応歳は行っていても高校生
だから、おおびらに外では飲めないし、又そんな金もない身分
であったから、冬場の平井のこの部屋は、色気こそないが
我々のオアシスであった。現状の日本を語ったり、将来の
自分を語り合ったり結構、高尚な話で盛り上がっていた。
平井の実家は葡萄畑を持っていて、一応農家であるがそんなに
大きな農家でなく、長男の彼は加藤と同じ会社で働いていた
私同様この二人も通信教育を受けていて、同様に新設校に
入学して、初めて通信教育でも仲間であったことを知ったのでした
平井も卒業後は、電気部品メーカーの総務部長まで、昇り
積めたのに、定年前に退職しタクシー会社の社長に就任し
55位で、社長を辞任し静岡の蜂蜜屋に弟子いれし、現在は
独立して蜂箱を車に積んで全国を旅してる変わり者。
「さて平井、ご馳走様」それでは儀式。我々は万年床をはぐり
ドライヤーを片手に熱風を、万年床に吹きつける。
「平井はよ床に入れ、梯子下の電気は消していくから」
平井を置いて、夜の雪道を帰る我々、いつしか雪もやんで
満点の星空が輝き、深夜の冷気が紅葉した頬に心地よかった。

タイ国の洪水の影響

徐々に我々にもその影響が出始めてきたようである。
日系企業の洪水による被害は、想像をはるかに超え洪水の
収束も歳を繰越そうと言う思惑で、生産拠点を他のアジア
諸国に移動する動きが、活発になってきている。
日本国内にも一時的であろうが、代替生産の動きが出ているようで
あり、計画生産が大幅に見直しの方向で苦労している
企業が出ているのも確かである。特に車関係においては
日本車のアジアにおける一大拠点として、その地位を磐石に
してきたタイ国、どう復興するのか日本にとっても重大な
懸念材料であろう。東日本大震災で克ってない車生産の危機
を経験し、今度はアジアのデトロイトと言われるタイ国の
洪水被害、それも期間を置かない出の又車生産への停滞要素
である。市場は株安超円高の状態がとめどなく進んでいる。
それに国内ではTPP(環太平洋経済連携協定)の問題で
国内を二分しての攻防で明け暮れている。
国内産業の衰退を、どうにかして防がなければならない
従来輸出産業で国内活性化を、生業としている産業構造を
維持しなければ、その他の産業においても衰退は免れない
感じがする。タイ国に対しても早急で大幅な援助を惜しまず
タイでの日本企業の生産圏域を、今後とも確保していかなければ
韓国、中国の傘下に甘んじる企業群になるのは我慢できない。

星空の下で(4)

「松田熱燗もらおうか、加藤も酒にするか」私がそう声を
掛けると、この二人の酒豪は「そろそろ日本酒もいいね」
とかなりビールを飲んだのに、ケロッとした顔で「女将さん
熱燗一つ」と襖越しに声を掛ける。
高校時代平井にとって、冬季間の夜の通学は実家からは、無理で
町中の農家の物置小屋の二階を、借りて通学していた。
当然台所などなく、火を使うことを禁じられていたから、
朝食は前日会社の社員食堂でコッペパンと牛乳。昼食は社員
食堂、夜は会社社員食堂で、夜勤勤務のある会社なので
夜8時ごろまでは、社員食堂も開いていた時代でした。
勿論火気厳禁であったから、炬燵もなし一時的に夜はドライヤーで
布団を暖め、厚着をして眠る毎日であった。
松田も当時市内の文房具屋に、丁稚奉公しながら努めていたので
そこの旦那と奥さんが、我が子同様に扱ってくれていて
時々平井も冬季間夕飯を、ご馳走に松田の部屋を音連れていた
松田も中々胆の据わった男で、11月の中頃まで少し黄ばんだ
ワイシャツ姿で、通学していた。学生服を持ってないわけでなく
四年間ピンとした一着で、もたせたい。クリーニングも
最小限度にして、卒業時に学生服も心も初志の気持ちで
迎えたいと、良く語っていて高校卒業は通過点に過ぎない
もっと、もっと上の学校を目指したい。と語っていました。
彼は元々は、寒村のお寺の息子であったが、両親の死去のあと
寺を出なくてはならなくなり、丁稚奉公しながらの通学の
道を歩んでいたのでした。後に大学に進み大学院や留学を得て
経済博士号を取得し、有名企業の海外担当取り締まりまで
なるのであるが、このときはクラスでも変わり者扱いで
あったことは間違いありませんでした。確かに当時は
クラスでもトップくらいの努力家で、あまり頭が優秀だとは
思わなかったのですが、卒業時にはとてもかなわないくらい
理論家になっていたのは、間違いなかったです。