HOME > 創業者の記憶 ~吉田功~

星空の下で(7)

「菊池の遭難事件の時も、先生必死だったよね、すぐさま
連絡が入ったものね」続けて加藤が口を開く
「俺の家が学校から一番近かったから、クラスの主だった
級友を招集して、菊池の家付近の大川べりを棒と懐中電灯を
持ってさがしたものね」
菊池の家族から、担任の先生に子供が帰ってこないと連絡が
入ったのは、授業終了後一時間くらい経ってからだだつたと思う
彼の家も川べりの所にあったが、比較的学校から近く多分
徒歩で20分ぐらいの、所にあったと思う。
その日は2月上旬の吹雪がひどく、学校の授業も繰り上げ
下校となっていた。先生とクラスメート十名くらいで
彼の下校道筋を手分けして、探したが見つからず挙句の果て
長い竹棒を持ち込んで、川べりの吹き溜まりを突っつきながら
探し回ったが、見つからない。二時間ほど経ったが
「警察に届けて捜索してもらう外ないね、もう辞めよう」
先生がそういったとき「いました、いました、
申し訳ありませんでした」我々と一緒に探していた彼の
母親が駆けてきました。「どこにいたんですか」先生が訪ねると
「すみません、家の隣の小屋に藁に包まって、寝てました」
と母親が頭を先生に、何度も下げ続けていました。
「それはよかった、それでは全員解散気をつけて帰れよ」
先生の号令で我々は、解散。

「しかしあの日いくら吹雪の日とはいえ、なぜ100Mも離れていない
自宅に帰らないで、寒い小屋などにそれも藁の中に、包まって
寝たんだろうね」加藤が続ける。「あの事件は今だ謎だよね」
松田も相槌を打つ。「でも先生ほっとしてたね後で、本人には
何も言わなかったらしいよ」加藤。「まあ変わり者の
クラスだから、本人も色々あったんだろうね」

「ウイスキー飲みたいね、何があるのかな」「高級な物は
ないよ、シーバースぐらいにしとけよ」と加藤
「松田まだ飲むのかよ、お前婿殿だから家では控えているのか」
「いやいや俺は、妻に惚れられて婿に入ったんだから、亭主
関白よ」宴は益々盛り上がって行く。

西置賜産業会例会

10月28日西置賜産業会例会を行った。
工業高校の来年度50周年記念式典への協力要請が、同校教頭
先生からあり、当会としても協力を惜しまないことを確認した
一般議題終了後、特別講師として中村循環器医院の中村院長
より、心筋梗塞等の病気や循環器気等の臓器の働きに
ついて、勉強しこれから冬季に向かっての健康管理に
大変有意義な、講義をしていただいた。


インドネシア日系企業からの来社

インドネシア日系企業に納入する装置の立会いと今後の
日程打ち合わせに、商社を含めて三名の来客有り。
一週間ほどの出張を、要請され来月担当社員を派遣することに
なる。私も行ってみたいが行っても役にたたないしね。
それはさておき、その企業もタイに数箇所の工場があり
生産活動に報道以上の、悲惨的情況だと言うややもすると
今までのタイでの生産を、ベトナムやインドネシアに移行せざる
を得ないと語っていましたし、復興がなされても全部
今までどおりのタイでの生産は、難しい情況になるかも
知れないらしい。国内生産は一時的応援はあるかもしれないが
あくまで一時的な処置で、国内に戻ると言う事はありえない
だろうと語っていた。円高によるコストの問題で多少インフラ
不足でも、海外展開は今後加速的に多くなるだろうとの
見解でありました。
国内での製造業、特に中小企業の立場は世界の生産情況を
聞くにつけ、今後の方向性をしっかり立てていかないと
不安が募る事になりかねない。

社内健康診断の結果

血圧正常、但し貧血気味毎年少しずつその値が5年間ほど
低くなっている。早速主治医に駆け込んで診察を受ける
色々検査をしてもらったが、男子としては確かに貧血気味と言う
鉄分が足りないらしいが、悪い血液の病気はなさそう
鉄分が足りないとは、日頃沢山の鉄に囲まれて仕事を
しているのにと思ったが、それと此れは別か。
改善するのは65歳前までだと効果が有るが、70歳では
そんなに気にする事はないと主治医はいう。「でもね、せめて
80代までは生きたいから」と言うと「大丈夫だよ」と
笑われてしまった。
「もうひとつ先生アルコールを飲んだ夜は、小便が近くなり
何回も便所に行かなければならないから、それに効く薬や
処方はありませんか」と聞くと「酒を飲まなきゃいいだろう」
と言われ「アルコールは利尿作用が有るので、小便が近く
なるのは当たり前」とこれもわらわれてしまった。
主治医がいると言う事はありがたい。精神的にも話すと
気持ちが安定する。

星空の下で(6)

「しかし、我々は担任の"ほしこ"には大分迷惑を掛けたクラス
だつたよね」と加藤 今は亡き"ほしこ"(担任のあだ名)の
話に移っていく。彼はほっそりとして背が高く年齢は、当時
50歳を超えていたと思う。感じが干物の干し子に似ていて
性格が、しなこかったのでそういうあだ名で、影では呼んでいた
しかし我々には全力で、接してくれていて問題が起こるたび
校長に直談判、いつも我々の盾になって庇ってくれていた。
自慢は自分のクラスが、全校の中でも地域の他の高校の中でも
平均的な学力は、ずば抜けてよかった事でした。
我々のクラスは個人的問題をおこすより、全体で問題を起こす
回数が多かったのかも知れません。個人的問題も全体責任と
考え、年上がしきって全体で処理しようする気運がおおかった。
担任の彼は、少々学則に外れた点が起きても新しい学校の
中で、定時制と言うハンデで劣等感を持ってはいかん
成績だけは負けるなといつも話していて、唯一赤点を取った
時は、何のために学校で苦労して学ぶのかと、ひどく怒った
事を我々は覚えている。
我々が卒業して、20数年後彼は逝去しているがその一ヶ月前ほど
訪れた我々に、弱弱しい声で「立派に生きてるな、頑張った
かいがあったね」といった言葉がいまも耳に焼き付いている。
話は少しそれたが、彼に迷惑を掛けた一番の問題が
遭難事件、次が灰皿事件であった。