上杉時代館の「直江兼続公」講座(別館) - 山形県米沢市

上杉時代館の「直江兼続公」講座(別館) - 山形県米沢市
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米沢城には本丸、二の丸、三の丸の堀がありましたが、明治6年(1873年)に城が取り壊されると二の丸、三の丸の堀は埋められてしまいました。辛うじて二の丸の堀の一部が上杉伯爵邸南側に残っています。三の丸の堀は当時のまま残っている所はありません。(一部河川となっています)

僅かに遺る米沢城の二の丸の堀。(画像右奥の水路)


幅と深さは2間3尺(3.6m〜4.1m)との記録がありますが、現在はかなり浅くなっています。


以前はもっと奥まで遺っていましたが近年更に少なくなりました。


米沢城跡 二の丸の堀の地図


上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館)

米沢藩中興の祖「上杉鷹山公」は、10歳の時に日向国(宮崎県)高鍋藩秋月家から上杉家の養子となられ17歳で家督を相続されました。その後35歳の若さで次代上杉治広公に家督をお譲りなられた鷹山公は、お住まいを米沢城本丸御殿から二の丸へと移されています。ご逝去される72歳まで藩政の改革にお力を注ぎながらお過ごしになられたお屋敷が餐霞館(さんかかん)です。

米沢城本丸の菱門橋を渡り二の丸にあった上杉鷹山公隠居所「餐霞館」。


訪れる人の姿もなくひっそりと静まり返っています。


なせばなる・・・米沢の子供達はその教えに触れながら育ちます。


餐霞館前の通りは、お忍びでお出かけの際通られた道で「お忍び小路」と呼ばれていました。


上杉鷹山公隠居所 餐霞館跡の地図


上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館)

明治29年(1896年)に上杉家最後の藩主である茂憲公の邸宅として建てられたのが上杉伯爵邸です。大正8年(1919年)の米沢大火で焼失し、現在は大正14年(1925年)に再建された建物が遺っています。設計は米沢市出身の中條精一郎先生で国の登録文化財に指定されています。

かつては上杉謙信公の祠堂を守り供養を執り行う十一寺が建ち並んでいました。


昭和24年(1949年)、上杉家から米沢市に譲渡されました。


玄関右側の外窓のガラスは大正時代の物です。(表面が波打っています)


庭園は、林泉寺、法泉寺の庭とともに米沢三名園とされています。


お庭を眺めながら米沢の郷土料理を味わうことが出来ます。
詳しくは → 上杉伯爵邸

上杉伯爵邸の地図


上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館)

米沢藩中興の祖「上杉鷹山公」は、産業の振興、質素倹約、文武の奨励と全てにおいて自ら先頭に立ち実践され、20万両にも及ぶ膨大な借金に喘ぎ廃藩寸前だった米沢藩を見事に黒字の健全な藩に復興されました。ご逝去される72歳までその生涯を米沢のため民のために捧げられ豊かな米沢を造られた名君でございます。

松ヶ岬第二公園の上杉鷹山公座像。(以前は北西の方角に向けて置かれていました)


現在は南の方角を向いて鎮座されています。


上杉鷹山公を祀る松岬神社境内の「伝国の辞」の石碑。


御堀端(おほりばた)史跡保存会 作成資料より引用。

35歳で隠居される際、次代上杉治広公に贈られた国を治める心得が「伝国の辞」です。

上杉鷹山公座像の地図    「伝国の辞」の石碑の地図



上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館)

慶長3年(1598年)、豊臣秀吉の命により上杉景勝公は越後から会津120万石に移封され、同時に直江兼続公は領内の米沢30万石(実質6万石)を拝領しました。現在松岬神社が建つこの場所は、米沢城主となった直江兼続公の屋敷があった場所です。しかし慶長6年(1601年)の上杉家米沢30万石減封により直江屋敷は移動し、その後は上杉家の世子御殿となりました。

明治35年(1902年)、明治政府から上杉神社が「別格官弊社」に列せられ祭神は上杉謙信公のみとされため、上杉鷹山公をともに祀ることが出来なくなり、大正元年(1912年)、上杉鷹山公を祀る神社として松岬神社が創建されました。更に上杉景勝公を合祀し昭和13年(1938年)には直江兼続公も合祀されています。その他にも上杉鷹山公の師である細井平洲、上杉鷹山公の家臣の竹俣当綱、莅戸善政が祀られています。

会津120万石時代、米沢城主直江兼続公の屋敷があった場所です。


上杉景勝公、上杉鷹山公、直江兼続公を祀る県社指定の松岬神社。


境内には上杉鷹山公が隠居される際に次代上杉治広公に贈られた国を治める心得「伝国の辞」の石碑があります。(上杉鷹山公 伝国の辞でご紹介します)


松岬神社の地図



上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館)


上杉景勝公(喜平次)と直江兼続公(樋口与六)が、越後国上田庄坂戸城下(南魚沼市)の「雲洞庵」で通天存達和尚(上杉景勝公の父である長尾政景公の兄弟)と北高全祝和尚から教育を受けていた頃、永禄10年(1567年)9月5日、伊達政宗公が米沢城で誕生しています。

「上杉」一色の米沢にあって唯一の「伊達」の文字。(以前は標柱でした)


今は立派な石碑となりました。(標柱は撤去されたようです)


本能寺の変で織田信長が亡くなり、上杉景勝公、直江兼続公が初めて豊臣秀吉と面会していた頃、米沢の伊達政宗公は、会津侵攻を目的に米沢から喜多方に通じる大峠(おおとうげ)を開いたり、米沢城下の西部では新しい山城を築くための工事を行っていました。伊達家の岩出山移封により城は未完成のまま終わりましたが、今でもその名残からこの一帯は「館(たて)の山」、「舘山(たてやま)」という地名になっています。平成22年から米沢市教育委員会によって調査が行われており、平成24年度からはいよいよ本丸の調査が始まります。

(画像は舘山公園から見た米沢市内)


築城工事が行われていた頃の天正17年(1589年)、伊達政宗公は骨折され小野川温泉で湯治されたとの記録が残されています。

伊達政宗公生誕之地の標柱の地図



上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館)