明治から大正にかけては、日本が西欧に追い付き追い越せと、近代化に向けてひた走った時代でした。それは同時に、開発の波に乗り遅れまいとして、国内の各地方が競い合った時代でもありました。この当時、地域振興の切り札と考えられたのが鉄道でした。そうした時代にあって、軽便鉄道長井線の実現の陰には、どのような人物がいたのであろう。鉄道建設にかけた故郷の先人を探ってみたい。
第1回は長晴登氏。南陽市史に「奥羽線赤湯駅の命名者」として登場する人物であり、慶應2年赤湯生まれ、米沢興譲館、慶應義塾大学を卒業。明治28年8月から32年9月まで山形県議会議員、明治37年3月1日から大正3年12月まで衆議院議員でした。この時期は、明治39年(1906年)に鉄道国有法、明治43年(1910年)には軽便鉄道法が公布され、明治44年(1911年)第22回鉄道会議で赤湯~長井間の軽便鉄道予算が承認された時期にあたります。大正3年(1914年)第31回帝国議会、第35回帝国議会においては、長氏が委員長となり置賜・上白軽便鉄道建設建議案の審議・可決にあたっており、国会においても実力者であったことが伺えます。
【参考資料:南陽市史、帝国議会会議録データベース】
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