おはようございます。
これから天気が下り坂になっていく予報ですが、今のところはいいお天気です。
空をみると雨雲らしき雲がいっぱいありますので変わりやすい天候に注意してください。
13日に配布されます敬老会の記念品の準備中です。
小岩沢字静御前にあるお堂の参道に「巳待塔」(みまちとう)が建てられています。
碑の右側に寛政三辛亥(1791)と陰刻されています。
左側に「講中」と刻まれていることから、巳待講の講中によって造られた巳待供養塔です。
巳待講は日待講の一つで、以前紹介した川樋の金華山講も巳の日に行う巳待講です。
「梨郷村史」には「春・秋二回巳の日に講中の男衆が宿に集まり、蛇の掛図をかけ、灯明・だんごを供えて拝みあげ、終って一献酌みかわしたという。」と講の様子が記載されています。
養蚕が盛んな地域では蚕を食べる鼠避けとして、巳(蛇)が信仰の対象になりました。
中川地区には巳待塔が一基、金華山塔が四基建立されており、隣の中山地区には高さ3メートルを越える大きな巳待塔が建立されています。
(画像3・4枚目 中山白髭神社の西側)
参考:梨郷村史
小岩沢地区には「静御前」とい珍しい字名があります。
吉田橋があるところです。
静御前は源平合戦で活躍した源義経の愛妾です。
文治元年(1185)義経は兄の頼朝に無断で、後白河法皇より任官されたことから追討を受け、弁慶ら従者と共に日本海北陸路から奥州平泉に逃げたとされています。
伝説では
義経の子を身ごもった静が義経の後を追いこの地まで来たが、急に産気づき旅の疲れもあり倒れてしまう。
そして子を産み落としたが、生まれた男の子は死産であった。
近くの鏡池で亡き我が子に産湯を使い、お寺に埋葬し、再び義経を追って旅立ったという。
静がこの地を去った後、夜になると赤ん坊の泣き声が聞こえるようになった。
村人は供養のため地蔵様を祀り、今も夜泣きを治してくれる地蔵様として信仰されている。
村人は静御前をあわれんで、地名を「静御前」と名付けたという。
参考:南陽市史 民俗編
川樋地区の岩屋堂にある嶋崎明神には「片目の魚」の伝説があります。
鎌倉権五郎※1が川樋の岩屋堂※2の戦いで、敵を追い散らして陣屋があった岩屋堂に戻ったとき、どこから飛んできたか、流れ矢が右の目を射抜いてしまった。
権五郎は矢を抜こうとしたが抜けるのを見た部下は、自分が抜いてやろうとして、右手で矢をにぎり抜こうとしたが抜けない。
そこでわらじを履いた足を額にかけて、ようやく抜いたが、それを見た権五郎は、「この矢を射た奴は、わしによほどのうらみがあるのだろう」といって、右の目を傍らの池で洗うと、池は権五郎の目の傷で真っ赤になった。
それからこの池の魚はみな片目になってしまったという。
※1平安後期の武士、後三年の役で源義家に従軍し奮闘する。
※2こぶし荘付近の字名(岩谷堂という表記もある)
参考:南陽市史 民俗編
嶋崎明神の故事は、江戸時代に編纂された「米沢事跡考」や「米沢里人談」にも掲載されています。Hさんの協力をいただきながら、くずし字を解読中です。
なお、このような鎌倉権五郎と片目の魚の伝説は、東北から関東各地に伝承されています。
山形県内でも山形市本沢の蓮沼、天童市の八幡池、立川町(現庄内町)の翁池など各地に伝わっています。
嶋崎明神は明治の中頃まで九尺四方の堂宇が建っていたが、乞食が宿って火事を出し焼失したといわれています。
画像1枚目の鳥居が新しいのは、以前の鳥居は倒壊の危険性が高く、10年程前に新しくなりました。