真中の山が大洞山(標高737m)です。
江戸時代から川樋村大洞山には北条郷東部の村々の入会山(いりあい)がありました。
入会とは、平野部にあった村(俗に沖中(おきなか)と呼びます)が山間部にある村の山や林野を共有して薪や草を刈り取り、燃料や飼料、肥料にする制度です。
大洞山に入会していた村は、石岡村・大橋村・鍋田村・中野目村・高梨村・島貫村・郡山村・若狭郷屋村・三間通村・二色根村の10カ村です。
(現在の大洞山財産区の区域(地区)と違うのは、近世になってから色々あったようです)
大洞山に続く大谷地も沖中10カ村の入会地でした。
山元である川樋村と新田村の入会は認められておらず、訴訟や紛争による傷害事件まで発生しました。
明治8年(1875)地租改正の際、ようやく川樋の加入が認められ、明治32年(1889)に大谷地が川樋新田の村民12名に貸付け、大谷地の開墾が始まりました。
大正13年(1924)に入会権を解消し、中川、赤湯、糠野目、沖郷の各町村に分割されました。
参考:南陽市史、沖郷村史
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