常善院はかつて川樋地区にあった寺院で、法印様(ホーエンサマ)と呼ばれていました。赤湯町史では「宝善寺・天台宗」と記載されていますが、江戸時代に編纂された「米府鹿子」では「常善院・当山派」※と記載されています。
80年以上前に廃寺になったので地元でも正式な寺院名を知る者は少なく、「ホーエンサマ」で通用します。
(建物は昭和50年頃まであり、持ち家のない世帯が入居していました。)
法印様は江戸時代、寺子屋を開いていました。明治6年(1873)川樋学校が創設されると院主の北条智学は訓導として子弟の教育に当たりました。
智学の子、弘善も秀才でしたが病を得てしまい、西村山の慈恩寺から法印が来ていました。昭和10年頃、北条家は離散してしまいました。
常善院跡にあった墓石の中には、天文二十年(1551)、また天正三年(1574)と刻まれたものもあり、昭和44年に南陽市指定文化財(考古資料の部)に指定されています。
現在は跡地近くに移設され川樋地区で管理しています。
(今年も6月21日に墓石周りの草刈りを行いました。)
川樋下の地蔵様の隣にある智賢沙門碑も法印様に関係した史跡です。
※当山派とは、真言宗醍醐寺三宝院を本寺とする修験寺院の組織のことです。
「米府鹿子」によると米沢藩の修験寺院は
当山派 121院
本山派 3院
熊野方 1院
羽黒派 95院 に分れています。
なお、修験寺院の場合、寺院名と宗派が変ることは珍しいことではありません。
明治5年に修験宗禁止令が出て、修験寺院は宗派の変更を余儀なくされました。
また、室町以前からある古い寺院なので、一宗に統一しているとも限りません。
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