中川地区内には「湯殿山」と彫られた石碑も複数建てられています。
画像の石碑には「文化十年」(1814)と刻まれています。
湯殿山参りは湯殿山だけ参詣するのではなく、月山と羽黒山もお参りしたので三山参りとも云いました。
江戸時代には「西の伊勢参り、東の奥参り」といわれ、関東からも多くの参拝者が訪れていました。
男子は15歳になると三山参りを行う風習があり、成人となる通過儀礼の意味合いがありました。
何年かごとに村の若者で団体を組み、修験(羽黒派だけでなく当山派・本山派なども含む)の先達(世話・案内)で巡拝しました。
三山参りに行く時は、出発1週間は行屋と呼ばれる建物で精進生活を送ります。日中は田畑で働き、食事と寝泊まりを行屋で行います。
肉・魚類は一切食べられず、女子の立入りや家族との面会も禁止されていました。葬式手伝いも、当主や長男が行屋に籠っていたら代理を出す決りになっていたと云います。
当時、三山参りがいかに重要な儀礼であったことが分かります。
参考:南陽市史
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