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飯豊町白川 白川寺の草木塔

  • 飯豊町白川 白川寺の草木塔
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2021年10月25日、柿もぎしてキノコ採り行ってからの飯豊中津川の草木塔めぐり、5年前に行って2回目の探訪、もう少し大きさに石の前後左右を写真に撮るために行って来た、飯豊町中津川郵便局から西に1㎞ほど行くと右に白川公園その奥に白川寺があります、寺にはメイン道路から少し迂回していかないといけないです。参道左側に石塔が並んでいてその中にあります・・参道はというと前は田んぼでその脇に山裾を這うような小道になってますが・・昔はどういう道だったんでしょうかね・・自然石に文久2年草木塔と刻まれてます、文久2年(1862)は生麦事件があった年、この翌年にこの事件がもとで薩英戦争が起きている・・ここの草木塔は何をきっかけに建てたのでしょうかね・・

2021.10.28:li-no2:コメント(0):[歴史探訪]

梓山 木場原の草木塔

  • 梓山 木場原の草木塔
  • 梓山 木場原の草木塔

米沢市街から国道13号線を万世梓山に向かう、米沢スキー場より2㎞ほど手前くらいのところで右に入れる道のすぐのところにある、江戸時代とかではなく平成17年5月15日建立で表の”草木塔”とあり、左下に文字を書いた方の名が入っている、裏には”自然の恵みに感謝しここに草木を供養する”と刻まれており、地元の施主の名があります。ここは、東北中央自動車道が計画され、工事車両の仮設道路が開設、この道路敷にあった樹木が伐採され、代々ここを管理してきた地元の方々が供養として建立したもの・・100年200年とこの自然に感謝する気持ちが後世にも伝わり、またどこかで建立されていくんでしょうかね・・この日は米沢スキー場へシーズン券申し込み行く途中でここだけ寄りましたが、万世梓山地区にまだ4か所古いものがありまた散策しようかと思います・・

2021.10.24:li-no2:コメント(0):[歴史探訪]

下の町の草木塔

  • 下の町の草木塔
  • 下の町の草木塔

5年前に置賜の草木塔めぐりしてから、もう一度、形がよくわかるように前後左右の写真撮るためにまた草木塔めぐり、米沢市内から館山そして小野川方面と大峠の分岐国道121号線を田沢方面に向かうと下の町という集落の道路沿い右側に墓地が見えてくる、その道路側にあります。米沢市内よりに車置けるスペースがありますのでそこにおいていけます。下の町の草木塔と説明看板が立ててありますのでよくわかります、石塔がいくつかならんでますが、草木塔は自然石のほう、文政九年(1826)八月十五日・・最初の位置から道路の拡張等により何度か移動しているということです、高さ82㎝、幅45㎝、厚さ33㎝ 町方施主とある町方は地元集落か城下なのかははっきりしてないとの説明です・・

2021.10.23:li-no2:コメント(0):[歴史探訪]

上中原の草木塔

  • 上中原の草木塔
  • 上中原の草木塔
  • 上中原の草木塔

10月17日の日曜日、スキー友とこの日米沢スキー場シーズン券申し込みして昼食べた後、時間あるんで、米沢にある草木塔めぐってきた・・以前にも写真撮りしたんだけど、今度草木塔のミニチュア作ろうと思い、形がわかるように前後左右と写真撮り、大まかな寸法も図ってみた・・場所が米沢市内から館山過ぎて大峠に向かう国道121号線の三沢西部小を少し過ぎた道路沿いにのぼりが見えるんですぐわかります、元の場所からは道路改修で移動してるようです・・慶応元年(1865年)7月、草木塔とはっきり見えます、自然石は風化しないからいいですね、1.7mの高さ幅60㎝ありました、三田沢講中と施主がわかる、この地区で大切に祀られており6月に供養祭をしてるとあります・・

2021.10.21:li-no2:コメント(0):[歴史探訪]

米沢藩士族 雲井龍雄

  • 米沢藩士族 雲井龍雄
  • 米沢藩士族 雲井龍雄

伝国の杜から南に行って米坂線の踏切手前にある常安寺に米沢藩士族 雲井瀧雄の墓がある、道路面にその説明看板があります。雲井瀧雄は天保15年(1844年)から明治3年(1871年)と27歳の生涯とある。幕末では奥羽列藩同盟のために活躍し、明治維新後は米沢藩の推薦で新政府の集議院に努めるが、不平士族のために嘆願書を新政府に提出したことや新政府に不満を持つ旧幕府方諸藩の藩士が彼のもとに集まっていたことが政府転覆の陰謀とみなされ処刑されたとあります・・明治3年12月26日に判決その2日後にはに牢獄で斬首され小塚原刑場で梟首(きょうしゅ:さらしくび)という重い刑を受けている、同志13名の斬首、22人が獄死と厳しい拷問による取調べもあったはずですよね、斬首には米沢藩1名もいるようですが・郷里米沢ではその名を口にすることはタブーとされていた・後の研究では冤罪ということが明らかとなっているようです。自分の意に沿わぬものは排斥し、自分たちにつき従うものばかりを出世させ取り立て、正当な戦争を起こそうとするならば、天下の公論を定めて、罪を明らかにしてから起こすべきなのに、急に錦の御旗を利用して策謀によって幕府を朝敵に陥れて戦争を起こし、諸藩を脅迫してさらなる戊辰戦争に駆り立てている。薩摩の軍隊は、東日本に侵攻して以来、略奪や強姦をほしいままにし、残虐行為は限りないが、官軍を名乗って規則と称している。瀧雄はその罪を問わなくてはならないと説いている・・勝てば官軍とありますが「権力を正面から批判する勢力がなければ、社会の健全な発展は図れない」というセリフがあります・・すごい人です冥福を祈ります。秋の日ちょっと寄ってみました

2021.10.14:li-no2:コメント(0):[歴史探訪]