ぼくのニワトリは空を飛ぶー菅野芳秀のブログ
雪が消えた。
ニワトリたちが外に出て遊ぶ。 緑の草たちも少しずつ増えてきた。 農作業の合間に草の上に腰をおろし 梅の花の下のニワトリたちを眺めている。 いいねぇ。お日様と緑とニワトリたちと・・。 見ている私もどこかゆったりした気持ちになってくる。 一羽が身体をくっつけるように近づいてきた。 羽をなでる。 こんな時にはこの娘の産む玉子はおいしいかな・・なんて考えないね。 ただ春の陽ざしのなか、私とニワトリたちとのいい時間が流れていく・・・ ・・・・ それだけ。 ...もっと詳しく |
寒い雨の日ばかりでお天気が続かない。
例年なら晴天が続き、雪解けが進んで一気に田んぼも乾くのだが、今年はいつもの春ではない。 これではトラクターが入れない。 堆肥散布ができない。 田んぼにレインボープラン堆肥と発酵鶏ふんの二種類の有機肥料を散布する我が家ではついに一部を残し、レインボープラン堆肥の散布をあきらめた。かつてこんなことはなかった。どうなっているんだろう。 このまま発酵鶏ふんさえも振れずに田植えを迎えるなんて言うことはないと思うのだが、いささか心配になってきた。 写真はようやく芽をだし、成長を始めた苗 ...もっと詳しく |
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我が家の庭の雪が消え、沈丁花の花が咲いた。
あの春の香りが漂っている。 私の青春の香り。 以下は以前に書いたものです。 お暇なときにでもご笑覧ください。 <以下> かるーいお茶のみ話です。ぼくの文章はどれをとってもそんなモンなんですが、これは特にそう。申告のための作業が終わってほっとしていたら、ふっと、書きたくなっただけなんです。「ほっと」で「ふっと」なんですよ、あくまで。誰にでもある青春時代の・・・。 早朝の4時、18歳の私は、自転車に270部ほどの新聞を積み、まだ暗い東京の住宅街を走っていた。途中で自転車を止め、新聞を一抱え持っては路地を抜け、階段をかけ上がり、ハッハッハッと息をはずませ、配ってまわる。まだ日が昇らない暗い家並みのなかに「沈丁花」の香りが漂っていた。 朝刊と夕刊の間に大学に通い、日曜日は集金で終わるそんな日々の始まり。新聞店の二階の作業所に作られた二段ベットのひとつがぼくの部屋。作業所とはカーテンで仕切られた一畳半のなかに小さな机をおいて本を読み、その下に足を突っ込んで寝る。汚れた窓を開ければ、隣の飲み屋の排気口があって、たえず、焼き鳥の黒い煙を吐き出していた。 それでも東京のひとつひとつの風景が面白く、出会う人それぞれが新鮮に思え、決してつらくはなかった。なによりも、ここからぼくの人生が始まっていくのだと、「青雲のこころざし」に燃えていたのだから。 すでに兄を私大に送っていた我が家の家計はきびしく、どう考えても大学への道は閉ざされていた。そもそも高校を卒業すれば農家を継ぐ、それが普通高校に通う条件となっていて、進学は高校入学の時からあきらめざるを得ないとおもっていた。 そんなぼくにも大学への道があるのだと、小躍りするような世界に出会えたのは、もうじき高校三年生という年の三月だった。なにげなく新聞をめくっていたぼくの目に、「朝日新聞奨学生募集」という囲み記事が飛び込んできた。そこには授業料、初年度納入金、衣食住など、大学に通う上で必要なほとんどのものが補償されると書かれていた。条件は東京での新聞配達。大学に行けるかもしれない! ぼくは高校一年からの勉強をやり直した。浪人する余裕はなく、時間が足りない・・・。どうせ農業だからと、それまでほとんど使わずにさび付いていたぼくの記憶装置は、ぎしぎしいいながら動き出した。 今年も「沈丁花」がその甘い香りを放ち始めている。その香りのなかでぼくは40年前の「春」を思い出す。 |
苗箱への土入れがようやく終わり、明日から種まきだ。
昨日は大安だった。近所の人たちの中には昨日のうちに一箱だけ種を撒いて、今年の撒き始めをやったことにしたという人が多かった。 俺の場合はその辺はまったく関心が無い。 大安ならそれでよし、仏滅でもこれ以上悪い日がなく、後は良くなるばっかりだと思う方なのであまりとらわれない。 だけど一方で、種まきは失敗が許されない仕事の始まり。稲刈りまでのどこの行程でも、失敗したら即、暮らしが破たんする。そんな日々の始まり。だからこそ昔から「大安・吉日」を選び、祈りを込めて種を撒いてきた。それは今の俺でも良くわかる。 今日は雪交じりの寒い日だった。明日は4人ほどが応援に来てくれる。忙しくなるぞ。雪交じりだってなんだって、寒いなんて言ってられないよな。 ところで今日、鶯を聞いた。ツバメをみた。我が家のコブシの花が咲いた。桜と梅のつぼみがふくらんで来た。 山形の春はすべてが一気に来る。モノクロの世界から色彩豊かな春が始まる。劇的な変化の季節だ。 |
田畑から雪がなくなった。 いよいよ農繁期だ。 昨日(14日)はTPP含みの会議で日帰りで上京したが 今日はその分、挽回しなければ。 幼馴染が助っ人で来てくれる。 苗箱に土を入れる段取りと 種の目出しに玉子の配達・・。 下を向いて仕事をしているうちに、いつの間にやら 桜が咲いていた・・なんてね。 実際、花が咲いたことは分かるが、ゆっくり愛でる余裕がない。 どこの農民もそんな中で種を撒いている。 さぁ、ニッポンの百姓のみなさん! なにかと、馬鹿を相手に疲れることの多い 日が続きますが、 あきらめずにまいりましょうぞ! ...もっと詳しく |
今日(4/13)の新聞に
屈辱的なTPP「日米合意文書」が載っている。 すべてがアメリカペースで押し切られた。 日本にとって得なことは何一つない。 初めからわかっていたことだ。 TPPの残りの会合は5月と9月。 10月には大筋の合意を得たいという参加国の方針の中で、 日本はたった1回しかテーブルに着くことができないのだ。 過去16回の会合の中身は何一つ知らされておらず、 それらを無条件で飲むことを条件に、残り一回の交渉に着く。 「国益」を守るなんてできっこない。 それができるなら、あのような「日米合意文書」など交わさずに済んだはずだ。 戦後積み上げてきた様々な諸権利とともに日本の制度が全体的に見直され、多国籍企業の前に、 国民が単なる無防備な消費者となってさらされていく。 アメリカの完璧な「ポチ」となって、浸食されていく日本。 どっちが得かという問題ではない。 これから事情が分かるにつけ、こんなはずではなかったという国民の声が 大きくなっていくだろう。でもそれからでは遅い。 今は「TPPに反対する人々の運動」の共同代表として 参加阻止の運動を精一杯盛り上げることに精力を集中したい。 どう考えてもそれしかない。 ...もっと詳しく |
作業場のシャッターを開けっぱなしにしていたら、玉子を40個ほどカラスに持っていかれた。「ごんべぇさんが種を撒くとカラスが・・」という歌は知っていたけど、こんなに多くの玉子を持っていかれるとは・・・予期せぬ出来事だった。 その次の日よりカラスたちは、朝のまだ明けきらぬうちから我が家のまわりを、大きな声を競うように発して騒ぎまわるようになった。うるさくて、うるさくて、ゆっくり寝てなんかいられない。 「奴らのエネルギーが余っている。きっと玉子を食べたせいだ。くそっ。」 我が家のニワトリたちは自然養鶏。ニワトリたちが遊びまわりながら産んだ健康な玉子だ。おいしいし、栄養だって満点だ。 まどろみの中、どこかカラスにあなどられているぞと感じながら悔しい思いをしている。 ...もっと詳しく |
今日(3/24)、山岸地区(39戸)の総会が行われた。 いよいよ今月いっぱいで一期二年間の地区長としての役割を終える。 やれやれだ。 地区長になればその上の区の役員を兼ね、かつ私はその上にある旧村の代議員を兼ねていた。 出席した会議や事業は一年間で・・・なんと80回!! 地区長をやり、そのほかにレインボープランのNPOをやり、反TPPをやり、もちろん百姓もやって・・・ どうりで疲れるわけだ。 人が言うには頭が白くなった、 あるいはハゲがすすんだ・・・・とかいう。 正直にいえばそのぐらいですんでよかったというのが本音かな。 村の役は逃げられない。 でも、ようやく解放だ。 ...もっと詳しく |
まあ見てやってください、この写真。
ダブルクリックで大きくなります。 実に堂々とやっていますよ、立ちション。 生き方までわかるようなこのほれぼれする姿。 俺もよく立ちションするけど、ここまでじゃない。 いいですねぇ。 この猫、きっといい人生を歩んできたのだろうな。 自信をもって生きてきたんだろうな。 この姿は一つの目標、到達点ですね。 オレ、人生、がんばろう。 ...もっと詳しく |
copyright/kakinotane
おもしろい文章を見つけました。
かなりの程度、私もこのように思っていました。
TPPをこの文脈で読めばよく見えてくると思います。
ちょっと長いですが、お時間のある方はぜひお読みください。
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壊れゆく日本という国 神戸女学院大学名誉教授・内田樹(朝日新聞)
日本はこれからどうなるのか。いろいろなところで質問を受ける。「よいニュースと悪いニュースがある。どちらから聞きたい?」というのがこういう問いに答えるときのひとつの定型である。それではまず悪いニュースから。
それは、「国民国家としての日本」が解体過程に入ったということである。
国民国家というのは国境線を持ち、常備軍と官僚群を備え、言語や宗教や生活習慣や伝統文化を共有する国民たちがそこに帰属意識を持っている共同体のことである。平たく言えば、国民を暴力や収奪から保護し、誰も飢えることがないように気配りすることを政府がその第一の存在理由とする政体である。言い換えると、自分のところ以外の国が侵略されたり、植民地化されたり、飢餓で苦しんだりしていることに対しては特段の関心を持たない「身びいき」な(「自分さえよければ、それでいい」という)政治単位だということでもある。
この国民国家という統治システムはウェストファリア条約(1648年)のときに原型が整い、以後400年ほど国際政治の基本単位であった。それが今ゆっくりと、しかし確実に解体局面に入っている。簡単に言うと、政府が「身びいき」であることをやめて、「国民以外のもの」の利害を国民よりも優先するようになってきたということである。
ここで「国民以外のもの」というのは端的にはグローバル企業のことである。起業したのは日本国内で、創業者は日本人であるが、すでにそれはずいぶん昔の話で、株主も経営者も従業員も今では多国籍であり、生産拠点も国内には限定されない「無国籍企業」のことである。この企業形態でないと国際競争では勝ち残れないということが(とりあえずメディアにおいては)「常識」として語られている。
トヨタ自動車は先般、国内生産300万台というこれまで死守してきたラインを放棄せざるを得ないと報じられた。国内の雇用を確保し、地元経済を潤し、国庫に法人税を納めるということを優先していると、コスト面で国際競争に勝てないからであろう。外国人株主からすれば、特定の国民国家の成員を雇用上優遇し、特定の地域に選択的に「トリクルダウン」し、特定の国(それもずいぶん法人税率の高い国)の国庫にせっせと税金を納める経営者のふるまいは「異常」なものに見える。株式会社の経営努力というのは、もっとも能力が高く賃金の低い労働者を雇い入れ、インフラが整備され公害規制が緩く法人税率の低い国を探し出して、そこで操業することだと投資家たちは考えている。このロジックはまことに正しい。
その結果、わが国の大企業は軒並み「グローバル企業化」したか、しつつある。いずれすべての企業がグローバル化するだろう。繰り返し言うが、株式会社のロジックとしてその選択は合理的である。だが、企業のグローバル化を国民国家の政府が国民を犠牲にしてまで支援するというのは筋目が違うだろう。
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大飯原発の再稼働を求めるとき、グローバル企業とメディアは次のようなロジックで再稼働の必要性を論じた。原発を止めて火力に頼ったせいで、電力価格が上がり、製造コストがかさみ、国際競争で勝てなくなった。日本企業に「勝って」欲しいなら原発再稼働を認めよ。そうしないなら、われわれは生産拠点を海外に移すしかない。そうなったら国内の雇用は失われ、地域経済は崩壊し、税収もなくなる。それでもよいのか、と。
この「恫喝(どうかつ)」に屈して民主党政府は原発再稼働を認めた。だが、少し想像力を発揮すれば、この言い分がずいぶん奇妙なものであることがわかる。電力価格が上がったからという理由で日本を去ると公言するような企業は、仮に再び原発事故が起きて、彼らが操業しているエリアが放射性物質で汚染された場合にはどうふるまうだろうか? 自分たちが強く要請して再稼働させた原発が事故を起こしたのだから、除染のコストはわれわれが一部負担してもいいと言うだろうか? 雇用確保と地域振興と国土再建のためにあえて日本に踏みとどまると言うだろうか? 絶対に言わないと私は思う。こんな危険な土地で操業できるわけがない。汚染地の製品が売れるはずがない。そう言ってさっさと日本列島から出て行くはずである。
ことあるごとに「日本から出て行く」と脅しをかけて、そのつど政府から便益を引き出す企業を「日本の企業」と呼ぶことに私はつよい抵抗を感じる。彼らにとって国民国家は「食い尽くすまで」は使いでのある資源である。汚染された環境を税金を使って浄化するのは「環境保護コストの外部化」である(東電はこの恩沢に浴した)。原発を再稼働させて電力価格を引き下げさせるのは「製造コストの外部化」である。工場へのアクセスを確保するために新幹線を引かせたり、高速道路を通させたりするのは「流通コストの外部化」である。
大学に向かって「英語が話せて、タフな交渉ができて、一月300時間働ける体力があって、辞令一本で翌日から海外勤務できるような使い勝手のいい若年労働者を大量に送り出せ」と言って「グローバル人材育成戦略」なるものを要求するのは「人材育成コストの外部化」である。要するに、本来企業が経営努力によって引き受けるべきコストを国民国家に押し付けて、利益だけを確保しようとするのがグローバル企業の基本的な戦略なのである。
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繰り返し言うが、私はそれが「悪い」と言っているのではない。私企業が利益の最大化をはかるのは彼らにとって合理的で正当なふるまいである。だが、コストの外部化を国民国家に押しつけるときに、「日本の企業」だからという理由で合理化するのはやめて欲しいと思う。
だが、グローバル企業は、実体は無国籍化しているにもかかわらず、「日本の企業」という名乗りを手放さない。なぜか。それは「われわれが収益を最大化することが、すなわち日本の国益の増大なのだ」というロジックがコスト外部化を支える唯一の論拠だからである。
だから、グローバル企業とその支持者たちは「どうすれば日本は勝てるのか?」という問いを執拗(しつよう)に立てる。あたかもグローバル企業の収益増や株価の高騰がそのまま日本人の価値と連動していることは論ずるまでもなく自明のことであるかのように。そして、この問いはただちに「われわれが収益を確保するために、あなたがた国民はどこまで『外部化されたコスト』を負担する気があるのか?」という実利的な問いに矮小(わいしょう)化される。ケネディの有名なスピーチの枠組みを借りて言えば「グローバル企業が君に何をしてくれるかではなく、グローバル企業のために君が何をできるかを問いたまえ」ということである。日本のメディアがこの詭弁(きべん)を無批判に垂れ流していることに私はいつも驚愕(きょうがく)する。
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もう一つ指摘しておかなければならないのは、この「企業利益の増大=国益の増大」という等式はその本質的な虚偽性を糊塗(こと)するために、過剰な「国民的一体感」を必要とするということである。グローバル化と排外主義的なナショナリズムの亢進(こうしん)は矛盾しているように見えるが、実際には、これは「同じコインの裏表」である。
国際競争力のあるグローバル企業は「日本経済の旗艦」である。だから一億心を合わせて企業活動を支援せねばならない。そういう話になっている。そのために国民は低賃金を受け容(い)れ、地域経済の崩壊を受け容れ、英語の社内公用語化を受け容れ、サービス残業を受け容れ、消費増税を受け容れ、TPPによる農林水産業の壊滅を受け容れ、原発再稼働を受け容れるべきだ、と。この本質的に反国民的な要求を国民に「のませる」ためには「そうしなければ、日本は勝てないのだ」という情緒的な煽(あお)りがどうしても必要である。これは「戦争」に類するものだという物語を国民にのみ込んでもらわなければならない。中国や韓国とのシェア争いが「戦争」なら、それぞれの国民は「私たちはどんな犠牲を払ってもいい。とにかく、この戦争に勝って欲しい」と目を血走らせるようになるだろう。
国民をこういう上ずった状態に持ち込むためには、排外主義的なナショナリズムの亢進は不可欠である。だから、安倍自民党は中国韓国を外交的に挑発することにきわめて勤勉なのである。外交的には大きな損失だが、その代償として日本国民が「犠牲を払うことを厭(いと)わない」というマインドになってくれれば、国民国家の国富をグローバル企業の収益に付け替えることに対する心理的抵抗が消失するからである。私たちの国で今行われていることは、つづめて言えば「日本の国富を各国(特に米国)の超富裕層の個人資産へ移し替えるプロセス」なのである。
現在の政権与党の人たちは、米国の超富裕層に支持されることが政権の延命とドメスティックな威信の保持にたいへん有効であることをよく知っている。戦後68年の知恵である。これはその通りである。おそらく安倍政権は「戦後最も親米的な政権」として、これからもアメリカの超富裕層からつよい支持を受け続けることだろう。自分たちの個人資産を増大させてくれることに政治生命をかけてくれる外国の統治者をどうして支持せずにいられようか。
今、私たちの国では、国民国家の解体を推し進める人たちが政権の要路にあって国政の舵(かじ)を取っている。政治家たちも官僚もメディアも、それをぼんやり、なぜかうれしげに見つめている。たぶんこれが国民国家の「末期」のかたちなのだろう。
よいニュースを伝えるのを忘れていた。この国民国家の解体は日本だけのできごとではない。程度の差はあれ、同じことは全世界で今起こりつつある。気の毒なのは日本人だけではない。そう聞かされると少しは心が晴れるかも知れない。
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うちだたつる 50年生まれ。専門はフランス現代思想。憲法9条から格差、温暖化まで論じる。合気道七段の武道家。「街場の文体論」など著書多数。
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