ぼくのニワトリは空を飛ぶー菅野芳秀のブログ

忙しい中、時間を割いて、映画「新聞記者」を見て来た。
東京新聞記者・望月衣塑子氏 の同名小説を原案にしているだけに、
安倍政権下で実際に起こった事件を彷彿とさせ、
映画ではあるが、とてもリアルに描かれている。
結果は、行ってよかった。
まだの方にはぜひお勧めしたい。
この映画の続きはまさに今、
展開されている現実の中にあるということだろう。

ここで何度か書いて来たけど、ゲージ(籠)に入れられたニワトリたちは、あまりにも悲しい鳥たちなので繰り返し取り上げたい。少しでも彼らの救済につながればと思ってのことだけど。
日本で飼育されているニワトリの92%以上がこのゲージ飼いだ。日本人が普通に食べている卵、スーパーから買ってくる卵は全部これ。「森のたまご」であろうが「ヨード卵光」であろうが全部これ。ひとたびそこに入れられたら最後、彼らは羽を広げることはおろか、歩くこともできない。そこには金魚鉢の金魚ほどの自由もない。

 想像してみてほしい。狭い籠にギュウギュウに詰められ、絶望の中で暮らす毎日を。おそらく世界中の生き物の中で、最も自由を奪われている生き物が彼らだ。生きること自体が地獄の日々。叫びたくなるような過酷な日々。実際に泣いてもいよう。叫んでもいよう。生産効率が何よりも優先された飼育方法の行きついた先がこれだ。過密状態で大量に飼育される「工場」の中で、鶏たちは苦しみ、もがき、絶望しながら短い一生を終える。

 ヨーロッパではすでにこのケージ飼い養鶏は禁止となっている。それは「動物福祉」という考え方から来ている。アメリカでも6つの州で禁止が決まっていて、その輪は年ごとに拡大しているという。経済動物ではあるけれど、処理される直前までその動物らしい暮らし方が保障される。いのちの尊厳が守られる。
なんとか不幸な彼らをこの境遇から救う手立てはないものか。まず、その実態を映像で見てほしい。「ニワトリ、動物福祉、動画」で検索すれば彼らのリアルな日常を見ることができる。これが「安い卵」の背景にある現実だ。

それらを見ながら俺も考えた。これはニワトリだけの境遇ではないなと。我々日本の農民もまたこの「経済効率」で潰されかかっているし、多くの日本に住む人々の上にだって辛くのしかかっているのもこのモノサシから来る現実だ。
あまり大きなことは言えないが、ニワトリたちを企業養鶏から救済するだけでなく、あわせて「経済効率のモノサシ」自体を問い直すことが必要だろう。そうしないとニワトリ同様、我々もまた「生きて行く幸せ」を実感できぬまま終わってしまいかねない。ニワトリ解放戦線を作ろう!まず彼らを大地の上に解放だ。それとともに我々日本人。我々には何重にも籠があるが最後の籠を破って外に出た時が解放の時だ。経済効率のカゴと日米地位協定、アメリカのカゴ。
歯を見失った。入れ歯のことだ。下の歯の真ん中から少し左に三本、10年ほど前から部分入れ歯にしていた。そこはモノを噛むとき一番活躍するところで、無くなれば大いに不便で、まるで年朗さんみたいだ。年朗さんとは近くに住んでいる先輩で、半分ぐらい歯がない。モノを食べてもほとんど噛めずに、舌で丸めて飲んでしまう人だ。時々大きく口を開けて「フェッ、フェッ」と笑う。年齢よりも10歳は老け見えた。
「早く歯を入れないと身体を壊すよ」と忠告したが、笑うだけで歯を入れようとはしなかった。やがて年朗さんは身体を壊して入院してしまった。だから言わんこっちゃないと思っていたけど、今の俺はその年朗さん状態だ。たぶん見た目も悪かろうとわざわざ大口を開けて笑ったところを家族に見てもらったが、この点はまだ大丈夫だという。歯がない事までは分からないらしい。あとはかみ合わせだけだ。見失ってからもう5カ月。早く見つけなくちゃ。家の中にあることはほぼ間違いあるまい。
「えー、またか〜!」家族のこんな声を何回聞いただろう。家族だけでなく、歯医者さんまでもがうんざりした顔で俺を見る。当然だろうな。入れ歯を使いだしてから10年、今回で歯を失くしたのは9回目になるのだから。
初めて歯を作った時は「菅野さんは外で話すことが多いから、滑らかに話すためにもいい歯をお勧めるよ」とまぁ、こんなことだった。そこで勧められるまま大枚をたたいて30万円。でもその寿命はわずか半年だった。ピッタリと歯が入るのだが、つけ慣れないせいで少し圧迫感があるのが気になって歯を時々口から外してしまう。それが失くしてしまう全ての原因だ。
1回目は外した歯をチリ紙に包んで居間の机の上に置いていた。それを使用後のチリ紙と間違えられ、ゴミ箱へ。ゴミ箱からゴミ配送車へと30万円が消えて行った。次に作ってもらったのは家族の手前もあって、もう少し安いのにしたが、それも1年と持たなかった。次が・・・なくなるたびに入れ歯のグレードが下がって行く。最後の8番目の歯は国民健康保険で入れた9千円のもの。たぶん30万円から、国保で治した9千円まで段階を踏んでほぼ全てを試したのは日本広しといえども俺ぐらいだろうか。そこでの発見だけど、使った感じは30万円も9千円もほとんど変わらなかったよ。これって後に続く者にとってはとても心強く、かつ貴重な体験なのではないか。
えっ、今かい?歯はまだ入れてない。見失ったままだ。歯医者さんに「9回目ですが・・作ってください」
とはいえずに家族のヒンシュクを買いながら家の中を探し回っているよ。
ツバメが来てくれた!
昨年、夫婦ツバメの一羽が猫にやられ、残されたツバメはそこから去って行った。そのツバメが残して行った巣に、今年、新しいツバメ夫婦が来るようになってほぼ一週間。
卵はまだ産んでないからか、今は外から通っている。
定着してくれるかどうかはイマイチ分からなかったが、たぶん間違いない。良かった。
玄関の戸は終日開けてある。

つばめが飛ぶ季節になった。今年、我が家に来てくれるのだろうか。複雑な気持ちで空を眺めている。というのはこんな背景があったからだ。
 昨年の6月、我が家の玄関の内側に巣を作り、卵を産んだばかりのツバメが1羽、猫の部屋に引きずり込まれて冷たくなっていた。巣では残された1羽のツバメが、卵を温めることなく、いつまでももう1羽の帰りを待っていた。
 2年前、子ツバメがスズメに全部殺された時には、安全なところに巣を移し、もう一度卵を産んで育てたのだが、今度は夫婦の一方が殺されたのだ。
果たして立ち直ることができるか。結局、数日間、連れ合いの帰りを待っていたツバメは、そのまま卵を温めることなくどこかへと去って行った。
 あれから1年たち、近所の友人が「ツバメがきたよ」と教えてくれた。果たして我が家に戻って来てくれるだろうか?来てほしい。そう思いながら、空を眺める日が多くなった。玄関を終日開放して待った。
 それから20日経つが我が家にツバメはやって来ない。もうだめかもしれない。玄関の戸を閉めよう。そう思っていた。
 ところが今朝、突然、玄関先からツバメのにぎやかな鳴き声が聞こえて来た。「えっ、まさか!」
ツバメだ。2羽のツバメが内玄関の中で戯れている。来てくれたのか?いや、まだ分からない。立ち寄っただけかもしれない。それから夕方まで、何度も空を見あげた。近くにはいる。でも、我が家におさまってくれるか、その確証はない。

 まるで恋しい人を待つかのような気持ちだ。
眠っていた服の整理をした。

そのほとんどが古くなったもの、色落ちしたもの、シミができたものなどで、捨てずにしまい込んでいたものだ。それというのも農作業用に回せばまだまだ使えるからで、洗っても落ちない油じみなどもあるが、それだけなら作業着として全く問題はない。破れて役にたたなくなるまでまだまだ使い続けることができる。こんな風に見ていくと捨てるものなどはほとんどなくなってしまう。
 靴下もそうだ。片一方に穴が開いても捨てることはない。穴の開いてないものを持ってきて新しく組み合わせればいいだけのこと。

 「あれ、菅野さん、新しいファッションですか?」
左右違う模様の長くつを履いて町に出た時などはこんな声をかけられたりもする。そうかファッションになるか!確かに人目を引くだろうな。 

 世は断捨離だという。でも、いったん買ったのであれば、後は使い切ればいい。そして補充しないことだ。そうすれば自然にモノが減って行く。まだ使えるのにあえて捨てるのは私にはなじめない。少なくとも農村では昔からこのように暮らして来た。こんな考え方の底流にあるのは「足るを知る」暮らし。

 近年、大企業の社長の年収がどうだの、資産家の娘がこうだのという話も耳にするが、金銭的豊かさは人を育てない。過剰な資産は子々孫々に渡っておバカさんを作るだけだ。不幸の種をつくるだけだ。
「子孫のためには美田を買わず」といった西郷さんではないけれど、もしそんな資産があったなら苦しんでいる人たちにあげればいい。その結果、やがて資産家の子息が我々農家のように、いつか使う日のことを考えて、段ボールに古い作業服を貯めだしたとしたら、それはまともな道に立ち返れたということではないか。めでたし、めでたしということだろうな。




我らの松尾君が本を書いた。
「居酒屋のおやじがタイで平和を考える」(1,600円:コモンズ)。

「イサーンの百姓たち NGO東北タイ活動記」に次ぐ、タイと日本をつなぐ草の根民衆運動の実践本として2冊目の本だ。
著者の松尾君は神奈川県横須賀市で「居酒屋・百年の杜」を営んでいる。それが本業ではあるが、彼には世に知られたもう一つの顔がある。それは彼がタイ語通約の達人であるだけでなく、今も日本と東北タイをつなぐ市民、農民活動の第一人者であるということだ。
同時に彼は「アジア農民交流センター」の事務局長でもある。私もその一員だが、そう聞くとどっか堅苦しく、とっつきにくい印象を持つけれど、決してそんな人ではない。何しろ居酒屋のおやじなのだから。長い交流を続けて来た日本各地の百姓を始めとして、多くの人たちからは「まつおくん」と親しまれ、東北タイの人々からも「ゲオ」と愛称で呼ばれる、とにかく「良い奴」なのだ。
日本でもタイでも彼を悪く言う人はまずいない。でも、たいがい「良い奴」が書いた本ってつまらない、読みたくない本が多いと相場が決まっている。しかし、物事には例外はあるもんだ。この本がまさにそれ。読んでみて面白い。そして勉強にもなった。東北タイの人々の現状とその取り組みが、彼の暖かい目線を通して見事に描かれている。
タイへの第一歩が寿司屋のアルバイト先で、そこから長い付き合いが始まったというのも彼らしい。やがてJVC(日本国際ボランティアセンター)の活動に関わり、JVCタイの現地代表として東北タイの農民の「生きるための農業」を支援してきた。
この本に書かれているそれらの実践は、日本とタイの普通の人たちが産みだした最良の実践記録なのではないかと思う。
ぜひ、一読を勧めたい。
もし、あなたが稲作農家の友人でしたら、ぜひ、この文章を最後までお読みください。決して長い文章ではありません。

以下

春。なんといっても我が家は米の生産農家だ。雪解けと同時に気持ちは高ぶり、田んぼに向かう。
作業の手始めは種籾の消毒作業だ。種籾に付着している「いもち病」、「バカ苗病」などの雑菌を退治する重要な仕事で、この作業をおろそかにすれば、苗の生育にダメージを与えるだけでなく、秋の収量にも大きく影響する。このため、多くの農家は完璧を求めて農薬を使っているが、我が家では30年ほど前からそれをやめ、薬によらない方法でおこなっている。

それは「温湯法」と呼ばれている方法で、モミを60℃の温度に10分間浸すだけの簡単な方法だ。60℃という温度は生玉子が白く固まり、ゆで卵に変質していく温度。種にとっても危険な温度なのだが、漬け込む時間を守りさえすれば、ほとんど農薬使用と同じぐらいの効果を上げることができる。更にこの方が農薬代はかからないし、使用後の廃液に頭を悩ますことも環境を汚すこともない。私がこの方法に改めたのはある事件がきっかけになっている。その事件とはこんなことだ。

「チョット来てみてくれ。大変なことになった。」緊張した表情で我が家を訪ねてきたのは近所で同じ米づくりをしている優さんだった。急いで行ってみると優さんの池の鯉がすべて白い腹を上にして浮いていた。その数、およそ60匹。上流から種モミ消毒の廃液が流れてきて我が家の池に入ったに違いないと優さんはいっていた。こんなことになるとは・・それらの鯉は優さんが長年かけて育てて来た自慢の鯉だった。

農薬の袋には、魚に対する毒性があるので使用後の廃液は「適正に処理するように」と書かれている。農協も、河川に直に流さず、畑に穴を掘り、そこに浸透させるようにと呼びかけていた。でも、畑に捨てたら土が汚染し、浸透させれば地下水だって汚れかねない。また浸透させたつもりでも雨が降って、再び表面水となり流れ出すことだって充分考えられる。たいがいの農家は廃液を自分の農地の下流に捨てていた。一軒の農家の下流はもう一軒の農家の上流にあたる。そんな数珠つながりが上流から下流まで続いていた。更にひどいことに下流では飲み水にも利用している。そのため、廃液をどうするか。種モミの殺菌効果は完璧だが、毎年おとずれるその処理に頭を悩ましていた。そんな中での優さんの事件だった。


そこでであったのが「温湯法」である。この方法を教えてくれたのは、高畠町で有機農業に取り組む友人。方法はきわめて簡単で、しかも、単なるお湯なのだから環境は汚さないし、薬代もいらない。モミの匂いを気にしなければ使用後、お風呂にだってなってしまう。なんともいいことずくめの方法なのだ。
 へぇー、こんな方法があったんだぁ。始めて知ったときは驚いた。いつのころから行われていたのか詳しくは分からないが、あっという間に広がっていくだろうと思っていた。もちろん私も近所の農家に進めてまわったのだけれど、我が集落で同調する農家はごく少数。どうも私には技術的な信用がないらしいとしばらくの間、あきらめていたのだが、先日、農業改良普及センター経由で山形県のうれしいニュースにであえた。

 山形県では「温湯法」で種子消毒をする面積はずいぶん増えて、全水田面積の28%に及ぶと言う(平成29年)。少しずづ増えてはいると思っていたのだが、これほどまでとはおもわなかった。いらっしゃったのですねぇ。ねばり強く環境を壊さない農法の普及に取り組んでいた方々が。久しぶりにいい気持にさせていただきました。俺もあきらめずにがんばるべえ!そんな気持ちになりましたよ。

まだまだ毒性をもった膨大な量の廃液が日本の河川から海へと流れて行っている。どうぞ皆さん!お取引のある農家があれば、くれぐれも農薬に寄らない「温湯法」を進めてください。必ずお近くに「温湯法」の農家がいるはずですから。今年はまだ間に合います。

長年、農業に就いてつくづく思うことは、「土はいのちのみなもと」ということだ。

かつて山形県でキュウリの中からおよそ50年前に使用禁止となった農薬の成分が出てきて大騒ぎになったことがあった。50年経ってもなお、土の中に分解されずにあったのだろう。そこにキュウリの苗が植えられ、実がつき、汚染されたキュウリができてしまったということだ。また、隣の市では、かつてお米からカドニュウムがでたこともあった。
つまり、作物は土から養分や水分だけでなく、化学物質から重金属に至るまで、いい物、悪い物を問わずさまざまなものを吸い込み、実や茎や葉に蓄えるということだ。それらは洗ったって、皮をむいたってどうなるものではない。何しろ作物に身ぐるみ、丸ごと溶け込んでいるのだから始末が悪い。土の汚れは作物を通して人の汚れにつながっていく。
いま、土の弱りも深刻だ。60歳を超えた人ならばそれでも仕方がないとあきらめもつくが、これからの子どもたちを考えれば、ことは深刻だ。

土を喰う。そう、私たちはお米や野菜を食べながら、それらの味と香りにのせて、その育った所の土を喰っている。私たちはさながら土の化身だ。このように土の健康は即、人間の健康に結びつく。食を問うなら土から問え。いのちを語るなら土から語れ。健康を願うなら土から正そう。生きて行くおおもとに土がある。そういうことだ。まさに土は世代を越えたいのちの宝物だ。 

 さて、近年、外国から多くの農作物が入ってくるようになった。いま国の食料自給率は39%。大雑把に言って60%は諸外国からの作物だ。それらの作物を食べながらさまざまな国の土を食べているということだ。当然のことながらその土の汚染も、疲弊もわからないままで。
 
 他方で、海外から押し寄せる作物の安さに引きずられ、国内の農業はより一層コストの削減をすすめざるをえない。農法は農薬、化学肥料に更に傾斜し、土からの収奪と土の使い捨て農業が広がっていく。

 私たちに求められているのはこのような土の収奪と使い捨ての道ではなく、時代に抗い、土を守り、その上に人々の健康な暮らしを築いていく。大げさに聞こえるかもしれないが、そんな人間社会のモデルを広くアジアに、世界にと示していくことこそが我々の進むべき道ではないのかと思うがいかがなものだろうか。

 これをグローバリズムに対する百姓の一つの答えとして、私はその道を歩んで行きたい。

「農民講談師」

しばらく前のこと、携帯電話をみたら「03-0000-0000」の着信暦があった。
「先ほどお電話いただきました菅野と申します。ご用件はなんだったのでしょうか?」
「あのう、失礼ですがどちらの菅野さまでしょうか?」
電話の相手は受付係のような感じだ。そうか、向こう様は会社なんだ。
「山形県の百姓です。30分ぐらい前にお電話いただいたようですが・・・。」
「そうですか。それではしばらくお待ち下さい。こちらでお調べいたします。」
「ありがとうございます。ちなみにそちら様はどのような会社なのでしょうか?」
「はい、『東京○△』ともうしまして芸能プロダクションです。それではお待ち下さい。」

なに!芸能プロダクション?
そのような職種に友人はいない。ということは・・・会社の業務としてわざわざ電話をくれたということか。
だとすると・・・もしかしたら・・・おれに?そうか。時代はついにここまで来たか。やって来たのか。

「青年達よ。無くなったって誰も困らない虚飾の文化(仕事)の中で、貴重な人生をこれ以上浪費するのはやめよう。自分を擦り減らすのはやめよう。田園まさに荒れなんとす。日本を土といのちから問いなおそう。築きなおそう。農業と農村は君達を待っている。」

 プロダクションに興行実務を依頼しながら、俺は百姓として、百姓のままで、広く全国にこんなメッセージを飛ばし続ける・・・うん、いいかもしれない。

 今だから言うけれど、今は亡き作家の井上ひさしさんは誰よりも農業の大切さを知っていた方だったが、かつて彼が主催する「生活者大学校」で3度ほど講師を務めたことがあった。何回目かの時か、井上さんは私にこう話された。

「菅野さん、あなたの話は一つの芸になっているよ。さらに磨いて農民講談師となり、農の大切さを訴えながら、全国を話してまわったらどうだろうか?」、「え、こうだんし?」「うん、玉川ナニガシとか、一龍齋ナントカとかの、あの講談師だよ。いけると思うよ。」
大作家の井上さんから直にいただいたご助言。かなり、グラッときましたよ。

 実際、今までもいくつかのラジオに出て、久米ひろしさんや伊奈かっぺいさんなどと「土、いのち、農、」の話をする機会があったのだけれど、局の人に言わせればけっこう評判は良かったという話だ。自分で言うのも変だけれどナ。
 まあ、他にも、そんなこんなで、さまざまな手ごたえを感じてきたのだけれど、まさか、大きな波がこのような形でやってこようとは・・・。農民講談師・・本気で考えてみようかな。

 絶滅危惧種になりかけている農民、崩壊目前に追い込まれた農村。これによって日本農業のみならず日本そのもの崩壊が近づいているのかもしれない。こんな時だから、ここはひとつ、覚悟を決め、これからの人生を講談師にかけてみようか!まだ時間はある。

「あのう、菅野さま。ただいま調べましたが社員の中には該当者はいませんでした。申し訳ございません。間違い電話だったかと思います。」
「えっ、間違い電話ですか?」
「はい、菅野様は当社のオーデションをお受けになりましたか?」
「オーデション?いいえ、なにも特技はありませんので。」
「それではやはり間違い電話だったと思います。大変ご迷惑をお掛けしました。」
「えっ、あ、えっ、そ、そうですか・・」

後日、この出来事を村の百姓仲間たちに話したら、さんざんからかわれ、酒席を大いに陽気にさせて終わったよ。せっかく農民講談師、覚悟を固めつつあったのに・・。

だけどな、ま、こんな笑える話はわきに置くとして・・だ。いよいよ農業は来るところまで来てしまっている。この現実は笑えない。
  農業を通して知った、地域の微生物と人間の身体について書きました。人々の無知に乗じて、あまりにも陳腐な「除菌」宣伝が多すぎると思ったことがこの文章を書いた背景にあります。少し長いですが読んでいただけたら嬉しい。

 我が家では1,000羽のニワトリたちを大地の上で飼っている。健康でおいしい玉子を得るためだ。
ある日、鶏舎から外に出たニワトリ達をぼんやり眺めていたら、土を突っつき泥水をすすっていることに気がついた。鶏舎の中にはエサがあるし、きれいな地下水だって絶え間なく注いでいるのに何を求めての事なのだろうか。
私はそれまでニワトリたちに、餌を「石川県の菌」で発酵させて与えて来た。外には地元の菌、身体には「石川県」。こんなミスマッチは自然界にはありえない。これを是正するために地元微生物の塊である土を体内に取り込もうとしていたのではないか。そう考えた。

  この私の仮説を分かっていただくには前置きが必要となる。まず土の中の微生物。わずか1グラムの肥えた土の中に十数億余個もの微生物が存在しているという。その働きは多岐に渡る。その世界を浅学の身でとても説明できるものではないが、森の松の木の根本で息絶えたウサギが、鳥や獣に食べられたわけではないのに、いつしか解けるように小さくなり、消えていったとすれば、それは微生物たちの働きによるものだ。このことは俺にも分かる。

 人間の身体の中の彼らの働きも大きい。食べた物が胃から腸に送られ、やがて分解されて養分となり、身体に吸収されていく。これは誰でも知っているが、この行程にもたくさんの微生物が関与していて、彼らの助けがなければ食べた物を取り込むことができない。微生物の助けをかり、養分を吸収するという点では植物も動物も人も一緒。彼らがいなければいずれも存在できない。

 私は人間の身体の中の微生物たちのすさまじい数をウンコを通して知った。いいか、聞いて驚くな。先ほど1gの土の中の微生物の数を10数億と言ったけど、ウンコはそんなものじゃない。わずか1gの中に1兆個も含まれているのだ。1日500gのウンコをしたとすればその500倍の微生物(腸内細菌)が体外へと排泄されていったということになる。だからといってあわてる必要はない。体外から、あるいは自己増殖で毎日その分は補われているのだから。微生物が出たり入ったり・・人体を巡っているということか。

 彼らはいつ人の身体の中に入って来るのだろうか。このことについて、以前NHKのTVがこんな趣旨の放送をしていた。
「人間の赤ちゃんが生まれ出た時は無菌状態だが、外界に出たとたん、空気中から、母親の皮膚から、あるいは・・あらゆるものを通して、体内に侵入し、わずか3日ぐらいの間に生きるに必要な微生物が全てそろう。その日以来、ずっと人間の生命活動の一端を担ってくれる」という。
この微生物だが、全国どこでも同じだというわけではないらしい。植物や動物たちがそうであるように、微生物も気候条件によって微妙に棲み分けている。
身体の中でも、雪国の私の中に棲んでいる微生物と、温暖な地方に住んでいる人の微生物とでは決して同じではない。

 こんな話があった。来日し、私のところに長く生活していたタイ農民の友人と久しぶりにタイで再会した。彼の話によると、タイに帰った後、下痢が続いてどうしようもなかったという。
「日本の菅野のところで長く暮していたので、タイ人の俺も菅野のところの微生物の身体になってしまっていたんだ。下痢はタイの農村に帰って来てから始まった。でもそれは日本からこちらの微生物におきかえられるまでの出来事だったよ。」この話は地域と微生物と身体の関係を表していて面白い。
有機農業に「身土不二」という言葉がある。もともとは仏教からきた言葉だそうだが、身と土(自然)は一つであるということだ。つまり、人間はその地域の自然の一部だから、この自然と調和して生きることが大切だと教えている。この言葉の字面だけを見ると分かりにくいが微生物を通して考えれば良く分かる。
さあ、お分かりいただけただろうか。私が想像したニワトリたちが土を突っつく背景を。私はさっそく「石川県」をやめ、地元の山から土をとって来て、餌を発酵させた。内も外も山形県。ニワトリたちはスズメやヤマドリたちと同じように地元の自然の一部として大地の上を遊びまわっている
私が脳出血で倒れたのは2017年の9月6日のことです。すでに1年と4カ月ほど経っています。友人からの求めで、「異変」と題して書いていたモノをここに掲載しました。これは前回の続きです。まず、(1)をお読みください。以下はその(2)です。

『私の異変(2)』

リハビリセンターでの訓練は、身体の運動機能に関する「理学療法」と、もう少し細かく、生活するうえでの機能の回復を図る「作業療法」、読み書き、話すことに関わる「言語聴覚療法」と三つの分野に分かれている。それぞれが50分から60分、合わせて3時間弱を1セットとして、毎日繰り返されていた。あとは自由時間。でも私はその自由時間こそ本当のリハビリの時間だと考え、自主トレに励んでいた。
「実際はな、1日1セット3時間では足りないよ。だけど点数の枠があって国民健康保険の中に経費を収めようとしたら、そのぐらいの時間しか取れない。だから、それとは関係なくリハビリに励むことが肝心だ。」
このように忠告してくれたのは医療関係に勤めていた友人だ。そんな助言や、「3カ月の壁」と言う話もあって、少しの時間も無駄にすることなく、早朝から消灯時間になるまで、いや、消灯になってからも小さな照明をつけて、計算や漢字ドリルなどに取り組んでいた。
「菅野さん、あまり無理をしないでよ。身体を壊したら何にもならないからね。」「いつか菅野さんの努力を本にしてみたら。きっと多くの人が励まされると思うよ。」
そう声をかけてくれたのは、時々顔を合わせる看護婦さんだ。「本」と言うのは病院内の読まれていた会報のこと。自分では無理をしているつもりはなかったのだが、外から見たらそのように見えたのだろう。


計算ができなくなったことは前号で書いたが、漢字も読めるのだが書けなかった。「山」とか「川」などの簡単な文字は何とかなるけれど、少しでも込み入った字は書けなかった。イメージは浮かぶけれど・・・。そこで「小学漢字辞典」を妻に頼み、収められていた漢字を片端から書いていった。
文章を読む力も大幅に落ちていた。それだけでなく、読んでも意味が記憶としてとどまらない。読み進みながら、既に読んだ箇所を忘れていく。だから文全体の大意をつかむことはなかなかできなかった。取り組んだのは、新聞の「人生相談」やコラム欄のようにそう長くなく、難しくもない文章を探し出し、ゆっくりと声に出して読むこと。あっちこっちにつっかえ、何度も読み直しながら字を追っていく。これと合わせて「藤沢周平」の世話にもなった。小説なので「大意」をつかまないと前に進めない。同じところを繰り返し読むことで意味をおさえる訓練にもなった。
このように、私の障害は外見上、何の問題もないかのようだったが、内面はけっこうやられていて、その一つ一つの克服に向けた訓練が毎日の「自主トレ」の課題になっていた。
努力の方向ははっきりしている。ただ成果が出るかどうかは定かではなかった。でも、向かって行くしかない。
さらに加えてもう一つの出来事があった。医師から「あなたは視界の半分しか見えていません。出血によって神経が損傷しています。『半盲』状態です。免許証は難しいかもしれません。」と告げられたのは入院して1週間が過ぎた頃だろうか。運転免許証は無理・・。病気をきっかけにして、暮らし方、生き方を変えなければならないことは分かっていた。変えようとも思っていた。だけど車がないとなると・・考え始めたら眠れない日々が続いた。友人は「弱者の心が分かる人間になれるよ。」などと評論家のようなことを言っていたが、本人にしてみたらそれどころではない。やがて幸いにも出血部のハレが引き、神経への圧迫がとれたからか、医者が無理だと言った視界が少しずつ戻ってきて、運転免許は大丈夫になったが、それまでのおよそ3カ月余り、車がない中でどう暮らしていくのか、失意の中で、答えのない煩悶を繰り返していた。

失った力の8割は戻って来てくれた。算数の加減乗除は何とかこなせるようになった。小学生の漢字の半分は書けるに違いない。小説も意味をおさえながら読めるようになったし、文章も何とか書けるようになってきている。
リハビリを含め45日の入院生活。限りある人生をどのように生きるべきかを自分に問う得難い機会を得たと思っている。だからこそ何を捨て、何を守るか。どう生きることが大切か。なかなか答えはないけれど、その問いは今も続いている。