ぼくのニワトリは空を飛ぶー菅野芳秀のブログ

「ぼくのニワトリは空を飛ぶ〜農業版〜」 
 置賜農業高校飯豊分校生が日本学校農業クラブ全国大会のプロジェクト発表文化・生活部門で「食物アレルギーの理解を求めて」という実践発表を行い、最優秀賞を受賞した。昨年の東北大会優秀賞に続いてのこと。

小さな分校の大きな快挙である。

学校農業クラブというのはあまり聞き慣れないが、全国の農業関係科目を学ぶ11万人の高校生の全国組織だそうだ。飯豊分校の実践がそのトップに立った。

 地元の人達が集って開かれた「祝う会」で彼らの発表を聞き感動した。生徒達は実に堂々としている。内容もすばらしかった。

 その活動を紹介しよう。
スタートは食と健康の視点から玄米に着目したことだった。その効果と活用の実態を調べようと様々な分野の人を訪ね話を聞いた。その結果、玄米の良さに一層の確信を持つが、食べにくいということから敬遠されている現状を知る。そこで学校で作っていた無農薬玄米を使い数々の玄米料理のレシピをつくる。更にレパートリーを広げ玄米ケーキ作りに挑戦。地元のお菓子屋さんと協力して商品化にも成功する。保育園の依頼を受けて自分たちのつくった玄米ケーキを園児たちに提供するようになった。

 子どもたちはとても喜んでくれたが、中に食物アレルギーのために食べることができない園児がいることを知った。そんな子にこそ玄米を食べてもらいたいと、アレルギーの原因となる卵や小麦、乳製品を除いたケーキを作ろうと決意する。地元のケーキ屋さんからは「卵などがなければケーキは膨らまない。無理だ。」と言われたが、失敗を重ねて6ヶ月後、ついに成功する。
何度かくじけそうになったというが、苦しむ園児たちを助けてあげたいという思いが勝ったということだろう。

 更にそれにとどまらず、アレルギーを持つ子どもたちのことを少しでも知ってもらおうと紙芝居を作成し各地で上演する。食と健康の問題を地域の中で広く訴えるために町民に呼びかけ、玄米フォーラムも開催した。

こんな一連の活動が受賞の対象となった。

これは高校を地域に開き、地域の課題を地域の人達とともに考え、その参加のもとに組み立てられていく新しい教育実践なのではないだろうか。高校の授業の中に地域を活かすというような、よく聞く領域を越えている。生徒もすばらしいが、それを支え、指導する教師の力量と情熱、それに学校全体の協力体制もみのがせない。この受賞は飯豊分校全体が評価され獲得した賞といえるだろう。

残念ながら現代は「食についても学ばなければいのちが危ない時代」である。農業高校は職業としての農業後継者を育てるだけでなく、いのちのみなもとである食や環境について考える生徒、人間を育てる場として今後ますますその役割が大きくなっていくだろう。

飯豊分校はその先頭を歩んでいる。



 長井市ではレインボープランという名の生ごみと農作物が地域の中で循環するまちづくりをすすめているが、この事業に国内だけでなく外国からの視察者も多い。

先日、タイの東北部にあるカラシン県ポン市から市長一行がやって来た。

 すでに同じタイ国のコンケーン県ブアカーオ市では「レインボープラン」という名の、同じ事業が始まっているが、ポン市でもこのプランを実現しようと市長自らが視察に出向いて来られたというわけだ。

 タイでレインボープランを求める背景には環境や農業、食料のどれ一つとっても日本の私たちより深刻だという状況がある。たとえば農業だが、輸出用の商品作物を増産しようと農薬と化学肥料を多投してきた結果、土が疲弊し、満足に作物が育たなくなっている農地が増えているということだ。

「化学肥料によって栽培された作物を食べ続けてきたことも一因だと思いますが、人びとの免疫力が低下しています。糖尿病、高血圧、ガンなどの病気も増えてきました。私はいま市民の健康を、食の面から守ることが行政のとても大切な仕事だとおもっています。そのためにも是非レインボープランを実現したい」と市長は語る。

 日本の場合も輸出こそしなかったが、堆肥から化学肥料へと農法を変え、タイと同じように効率と増産による最大利益を追い求めて来た結果、土が疲弊し、それが主な原因となって作物の弱りを引き起こしてきた。

「食品成分表」(女子栄養大学出版部)によって1954年と、約50年後の2001年のピーマンを比較すると、100gあたりに含まれるビタミンAの含有量は600単位から67単位へとほぼ1/9に激減している。ビタミンB1も0,1mgから0,03mgに、ビタミンB2は0,07mgから0,03mgへ、ビタミンCも200mgから76mgへと、のきなみ成分値を下げているのだ。

これには驚かされる。

 今の私達がビタミンAをピーマンからとろうとしたら54年当時の9倍の数を食べなければ同じ分量にはならない。成分の下落は他の野菜にもいえること。身体は全て食べ物からつくられていくことを考えれば、この数値の低下はちょっと恐ろしい。

 ポン市の市長が指摘するように、作物の質の低下は、それを食する者の免疫力、生命力にも大きな影響を与えるだろう。

政治や行政の最大の課題は、人々の健康、すなわちいのちを守ることである。そのいのちを支えるのはいうまでもなく食べものだ。その食べものを育むのが土であるならば、土を守ることは第一級の政治課題でなければならない。ポン市の市長さんの話を聞きながらそんなことを考えた。
 
ぜひ成功して欲しい。俺たちもこれからだ。
 田植えの季節が終わった。今年も田んぼの主役は年寄り達だった。    

今年75才になる我が集落の栄さん。彼は5年前の70才の時、自分の田んぼ1ヘクタールの他に、近所の農家から60アールを借り受けるほど米作りに情熱を燃やしていた。でも、この春、借りた田んぼをもとの農家に返したという。

どんなにかがっかりしているだろうと、田んぼの水加減を見ての帰り、栄さんの家によってみたら、想像していたよりずっと元気だった。

「足腰が痛くてよぉ。これがなければまだまだおもしろくやれるんだがなぁ・・」 
「自分の田んぼはつくれるのかい?」
「あたりまえだぁ、だまってあと5年はできるぞ。生きているうちは現役よ。」
まだまだ意欲は衰えていなかった。やっぱりこの世代の人達は今の若い衆とモノが違う。

 集落44戸のうち20戸が生産農家で、主な働き手の平均年齢は64才と高齢だ。

 私が26才で農業に就いたときは、若い方から数えて三番目だった。若いということで寄り合いの時などは年輩者から「机をだして。」「灰皿ないよ。」と指示され雑用係を務めていた。そのときから28年たった。いまも私は若い方から数えて三番目だ。54才の私は、60代、70代の先輩のもと、同じように皿だ、箸だと率先して動かなければならない。おそらくは10年後も。あまり考えたくはないが。

 「俺たちはよう、若い者たちをいたわっているんだよ。」そう話すのは74才の優さんだ。毎朝4時半には目が覚めるけど、家の若い衆を起こしてはならんと、しばらくじっとしていて、田んぼにいくのは5時半をまわってからだという。それもそっと。
そばにいた優さんの奥さんが笑いながらつけたした。
 「私も、朝ごはんを出したり、掃除したりと、嫁を起こさないように注意しながらやっているよ。」
 外に出てからもな・・と優さんはつけ加える。「勤めに出ている村の若い衆を起こさないように、遠い方の田んぼに行って草刈り機械のエンジンをかけるんだ。」

村では年寄りはいたわられるものという、よそで普通に聞く話は通用しない。我が集落の水田は、栄さんや優さんが現役でいる限りは大丈夫だ。

だが、もう一つの現実もある。栄さんは今年、畔草に除草剤をまいた。除草剤をまけば、畔の土がむき出しになり、崩れやすくなるのだが、足腰の痛みにはかなわないということだろう。

緑が日々濃さを増していく6月の水田風景。そのところどころに、除草剤による赤茶けた畔がめだつようになってきた。これもまた、高齢化する農村と農民の現実である。

10年後、どういうたんぼの光景が広がっているのだろう。