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ウルシの実よ みのれ

  • ウルシの実よ みのれ
今月初めにいつもの散歩路で出会った花の可憐な姿が気に入って、今はすっかり実になったエゴノキを通りがかるたびに観察している。
エゴノキばかりに気を取られて今まで気がつかなかったが、すぐ隣に枝を絡ませるようにヤマウルシがまだ幼い実を垂れている。

ウルシといえばカブレるのが怖くて近寄りたくなかったし、ましてや観察など思いもよらなかった。
‐‐‐漆は熟すれば枝先で生長し、いよいよ稔れば木木の実が触れ合って枝頭でからからと音をたてる(藤沢周平『漆の実のみのる国』)‐‐‐ 光景は小説の中の話と思っていた。
うかつな話だがウルシに実がなることさえ念頭になかった。

たしか上杉鷹山は熟した果実を乾かして木蝋を搾ることの産業化をはかったのではなかったっけ?
商品として流通させるにはどれほどのウルシが必要だったのだろうか?気が遠くなりそうだ。
「6次産業化」などという言葉が頭をかすめた。

あの藤沢周平が描いた光景をウルシの実を通して目の当たりにできると思うと、我が老後の生活もすてたものでないと感じ入ってしまうのだ。

ところでもう一方のエゴノキ、花におとらず実も光沢があって美しい。


2016.06.28:k-ichiro:コメント(0):[コンテンツ]

iPhoneでは イチゴだったか さくらんぼ

  • iPhoneでは イチゴだったか さくらんぼ
さくらんぼが真っ盛り、親バカの類だが離れて暮らす長男へさくらんぼを送った。
毎度のことながらいつまでたっても「届いた」の連絡がない。
業を煮やしてわがガラケーで確認のメールを打った。

返ってきたのがこの写真。



本文を打つとき「さくらんぼ」と入力したら変換の第一候補として出てきたのが絵文字だったのでそのまま使ったのだ。
頭の固い偏屈老人初めての行為で、配偶者からくる絵文字入りのメールも苦々しく思っていたのに変節して使ってしまったらこのザマだ。 ‐‐‐‐ 嗚呼 ‐‐‐‐

慣れないことはするものではないと痛感した次第。
それにしてもあの絵はどう見てもサクランボなのだが、アップル社のiPhone若しくはauのスマホにはイチゴに見えたのだろうなァ・・・・


2016.06.23:k-ichiro:コメント(0):[コンテンツ]

紅い野 ばら

  • 紅い野 ばら
我が家の敷地の片隅に昔から生えているイバラ、草刈りや雪囲いなどの作業時、肌を引掻かれるやら、衣服に絡みつくやらじゃまでしょうがない。
親の代から何十年にわたり根元から伐採して根絶やしをはかってきたが、今に至るも衰えることなく花を咲かせ続けている。

今年もまた白いノイバラの開花に遅れること2週間程度で紅いイバラが鮮やかに咲きそろった。
「○○バラ公園」「××薔薇園」などへ出かけた折に買ってきて丹精を込めた(つもりの)バラが年を経るごとに色あせ劣化していくのに、長年虐待され続けてきた紅いイバラは逆に盛んになり、鮮やかさを増していくようだ。よっぽど土があっているに違いない。

そういえば何かの本に「その生命力は根絶するのがむずかしい」と書いてあったようだ。

こうなったらこちらも根絶など企てず、棘の痛みをがまんして「紅い野ばら」を『飽かず眺めて愛でる』ことにしようか・・・・
『紅(くれない)匂う』野なかならぬ我が家の野ばらを。

2016.06.12:k-ichiro:コメント(0):[コンテンツ]

ミヤマザクラは今

  • ミヤマザクラは今
佐藤錦でもないただのミヤマザクラのサクランボは今このような状態。
完熟して出荷するにはまだまだ、この先どのような経過をたどるのか不明。
実が色づいていずれ鳥についばまれることは図鑑に載っているが、完熟までのプロセスは目で確かめるしかないようだ。
6月8日現在の状況ははこの写真の通り。
2016.06.09:k-ichiro:コメント(0):[コンテンツ]

白い野ばら

  • 白い野ばら
いつもの散歩路、ちょっとコースを変えるとノイバラ(野茨)の白い花が満開だ。
そう、あの「イバラの道」の野イバラだが『野ばら』のことだ。

「白い野ばら」といえば団塊の世代の方々は青春時代のヒット曲となるのだろうが、今日は長井市の姉妹都市に敬意を表し格調高くドイツの歌曲を思い出そう。

小・中学校の音楽の時間に誰でも1度は歌ったことのある「童は 見たり 野中のばら」のあの曲、もともとはゲーテの叙事詩が先にあって人気が高く、ドイツでは150曲以上歌曲がつくられているのだとか。
そのうち残ったのがシューベルトとウェルナーの2曲。
小中で歌うのはウェルナーが多いそうだが、歌詞は両者同じであることをご存じだろうか?
ゲーテがギヨオテと表記されていたころ近藤朔風という詩人が作詞したものだが、原詩の話の内容が実にうまく七五調にのせてうたわれている。ローレライ、菩提樹も近藤朔風の作品だ。

蛇足ながら、当時の日本一のドイツ語の大家森林太郎(鴎外)もギヨオテと表記していた。
 「ギヨオテは おれのことかと ゲーテ言い」
2016.06.08:k-ichiro:コメント(0):[コンテンツ]