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去年の夏のことだが、日刊イトイ新聞というwebサイトで、吉本隆明の講演会があることを知った。
『芸術言語論』という聞きなれない演題の公演を、昭和女子大で7月19日に行う。
日刊イトイ新聞には、公演の準備を進める吉本隆明の様子なども紹介されていて、わたしは聴きに行ってみようという気になった。

これまで、わたしは吉本隆明の講演会に2度行ったことがある。
1度目はまだ学生の頃、渋谷の山手教会に友人のTと一緒に『谷川雁論』を聞きに行った。
全共闘運動の余燼が、まだ社会の中に散在していた頃だった。わたしは自分の水準で、講演の内容を理解出来るだろうかと半ば危惧していたのだったが、話の大筋は、不思議なほどよく頭に入った。
谷川雁の詩は一級品だが、評論による理論的な行為も、社会実践の活動も、どちらも中途半端なもので未来性のあるものではない、というのが吉本隆明の判定だった。
谷川雁は、「わたしのなかの『瞬間の王』は死んだ」という、それ自体詩的な名文句を残して、このころすでに詩作を止めていたのだったが、表現者としての先端性を保っている詩作を何故続けないのか、と吉本隆明は惜しんでいたのだった。

3年ほど前、文芸雑誌『三田文学』が江藤淳追悼号を出版して、その中の吉本隆明インタビュー『なぜもっと文学にいきなかったのか』を読んだとき、江藤淳への愛惜の思いに接して、遠い日の谷川雁についての吉本の言葉を思い出した。

2度目の吉本隆明の講演会は、1986年の春が終わるころ名古屋での『菊屋まつり』のフリートークだが、このことについては、ブログの『続 ライオンとペリカン』で書いたことがあるので、ここでは割愛する。

吉本隆明講演会『芸術言語論』のチケットは、日刊イトイ新聞のサイトと、チケット・ピアで売り出された。
発売日の朝出社して、勤務時間前にチケット・ピアにアクセスしてみると『9時からの発売です』という説明が出た。朝1番に済ませなければいけない仕事を終えて、10時半ころ再度アクセスして、わたしは自分のチケットを購入した。

翌日、友人Sのためにもう1枚チケットを購入して置こうかと考えて、日刊イトイ新聞のサイトに行ってみると、チケットは完売しましたという知らせが出ていた。チケット・ピアも同じことだった。
吉本隆明の講演会、人見講堂2008席は、1日のうちに売り切れたのである。計算してみると、この売上はたぶん1100万円を下らない。わたしは物販を仕事にしてきたが、この熱烈な需要と売れ行きは驚きだった。

聞くところによると、文芸評論という市場の売上だけで生活出来た批評家は、戦後、小林秀雄と吉本隆明の2人だけだそうである。
批評家の生活の糧は現在、大学などでの教職が中心になっている。吉本隆明以外の批評家は学生に話す言葉で、評論の下書きをしているわけである。
文芸評論の御一人者、吉本隆明の言葉への熱烈な需要は、そのような特性にも関係しているのだろうか、と、暫し自分の思いつきの周りを経巡ってみたのだった。



三鷹市で加藤典洋さんの講演会があって聞きに行った。
『太宰治の戦後』という演題で、太宰治生誕100年、没後60年を記念して、三鷹市が顕彰事業を組んだ催しの1つだった。
わたしはこれを三鷹の図書館に置いてあったパンフレットで知った。
それを見ると、公演は昨年、加藤さんが『群像』という文芸誌に掲載して、その後単行本化された『太宰と井伏 ふつの戦後』に沿ったものだろうと思われた。
わたしは『群像』に載ったものを読んだが、単行本の方は読んでいない。だから、その間に異同があったとしたらそれは分からない。

前から持っている感想だが、わたしは加藤さんの評論は、枠組みを大きくとった文芸時評だと思っている。年代としてどの時代のどの作家や評論家を扱っても、現在に要請された素材なのであって、作家論までには深く行き着かない。この評論の方法は、江藤淳の『成熟と喪失』『自由と禁忌』『昭和の文人』などの書き方と似ている。これらの評論で作家や批評家や詩人は、役柄を担って登場し、場をこなして消えて行く。ただし加藤さんの評論で太宰治は何度目かの登場になる。

『太宰と井伏 ふたつの戦後』は、太宰治を自己破壊の衝動に突き動かしてきた、出自の富める者=罪ある者という条件が、戦後は生家の没落でほぼ無くなってしまったのに、何故太宰は自己破壊に進まなければならなかったのか、の問いから始まる。
『人間失格』その他の太宰の小説を分析し、太宰の最晩年、井伏鱒二とのあいだに起きた感情的な対立を検証し、戦後は太宰を自己破壊に突き動かすものが、戦争の死者への後ろめたさ、とそれに対する文学者としての責任感に変わっている、と揚言する。
この説は、戦前に狂言めいた自殺未遂を3度まで繰り返した太宰治が、またも繰り返そうとした狂言を、相方の意志によって無理心中に持ち込まれた等の見方を退けて、自ら死に突き進む理由を見定めた、加藤さん独自の意見である。加藤さんは、戦後の太宰を自己破壊に突き動かした、戦争の死者への後ろめたさ、とそれに対する文学者としての責任感を、三島由紀夫の晩年の作品と言動を対比に置いて説明し、二人の類縁性と競合性を見ている。

雑誌で最初に『太宰と井伏 ふたつの戦後』を読んだとき、わたしはここのところと、最後の井伏鱒二『黒い雨』の中に書かれた、原爆被災の現場での、芸術高踏派的言辞にたいする怒りの描写の向こうに、井伏鱒二の太宰に対する感情を透かし見る、というところが、どうもすっと腑に落ちなかった。
三島由紀夫が敗戦後を25年生きて、戦争の死者との『わたしはまだ約束を果たしていない』という虚偽の意識に衝迫されるのは分かるが、太宰が自分を死に追い詰めるのは、まだ敗戦から3年しか経過していないわけで、『大いなる文学のために』死ぬにしても、せっかち過ぎると思えた。
井伏鱒二の太宰に対する感情を透かし見るということでは、作家と作家の間でのやりとり、こういう当為を知って小説を読むと、小説の面白みが色褪せてしまうという読後感を持つ。放って置いてほしいことを言われてしまった、というようなわだかまりが残る。去年、『村上春樹の後ろにはいつも三島由紀夫がいる』という本を読んだことがあったが、読み終わってすぐ、この本に書かれていたことは忘れてしまおうと思ったときの感想に似ている。批評の足がすべってしまったような感じなのだ。

講演のなかで加藤さんは、太宰と三島の違いは、三島には『美しい死者』しか憑いていないが、太宰には『美しい死者』と『汚れた死者』と2種類の死者が憑いていることで、『汚れた死者』というのは、太宰の離縁した最初の妻、『他者』としての小山初代であると説明していた。
わたしは批評の読者として、文脈のなかにこの『他者論』が登場すると、さあ来ましたねという感じと、もうそろそろ論述も終りになるのかという思いを同時に持つ。評論家は獲物を追い込んだのか、追い込まれたのか。

内田樹というユニークなレヴィナス研究家が、レヴィナスのいう『他者』を、以下のように要約している。
(他者とは死者のことである。他者とは私の理解も共感も絶しており、かつ存在しないにもかかわらず私に影響を与え、私が倫理的に生きることを命じるのである。)
これはまるでわたしたちの感応が見る、幽霊の哲学的な説明のようだ。

小山初代は戦争の死者としてではなく、太宰治の人生行路の死者として幽冥界に汚れて立っている。
ここは加藤さんも、作家論の深みに足を踏み外す以外ないのではないか。


追記

とても古い知り合いの女性も、この講演を聞きに来るらしいと聞いたので、講演の前、それとなく周りの人の顔を注意して見ていた。

20代のころ、その女性と共通の友人が住んでいた多磨プラザから、渋谷まで一緒の電車に乗って帰ったことがあった。そのとき、女性は背中に1歳くらいになる女の子をおんぶしていた。女の子は手に握ったものを、口に持っていってしゃぶっていた。わたしは電車に揺れながら、愛らしい仕草を見ていた。女の子が元気に手を振り回すと、握っていたものが小さな手を離れて、電車の床に転げた。拾い上げてみると、それは麻雀牌の『白』だった。

講演が終わった後も、会場を一渡り見回してみたが、見覚えの顔は見当たらなかった。けれど後に、人伝に聞いた話では、その古い知り合いの女性は、会場に来ていたのである。
現在のわたしたちにとって、もう昔の姿の印象は、かえって本人捜しに邪魔なものになっているのかもしれない

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